化け物の棺

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化け物の棺

洗脳

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悲しみの果実が熟した頃に、ギトキトは布を染めていたメイルールの緋色の指先をそっと握って囁いた。

「結婚以外にアトモルの心に永遠に残る方法がある。お前は既に知っているはずだ。メイルール」

ギトキトの湿った声で耳打ちされると、床に暗く落とされたメイルールの瞳が小刻みに震えた。
あの時。そう、メイルールが王蟲《おうむ》だと知ったあの日、ギトキトは絶望に打ちひしがれているメイルールに今と同じような湿った声で囁いたのだ。
お前に残された道は僧侶になるか、あるいはメイルール自身が『霊薬』となる道の二つに一つなのだと。
あの時はその『霊薬』と言う言葉の恐ろしさに迷う事なく僧侶の道を選んだが、今それを示されると心がぐらつく。
今思うとあの時はこの世の終わりほどの絶望の中にも、メイルールの心にもまだ僅かに光はあったのだ。
だがあれから時が経って今はどうだろう。
必死に心の中を探しても一欠片の灯火も見えない。
ギトキトには分かっていたのだ。メイルールにいつかこんな日が訪れる事を。

「メイルールよ。お前は自分は何のために生まれて来たのかと思っているのでは無いのか?何のために王蟲などに生まれついたのだと自分を呪っているのでは無いのか?呪いはその身を腐らせるぞ。それよりも神の良薬として己を役立ててみたいとは思わぬか?お前の人生を意味あるものにしたくは無いか?愛する者の心に深く刻まれてみたくは無いか?」

ギトキトは巧みだった。
時をかけて巧みにメイルールの心の隙間にスルリと入り込んだのだ。

「…霊薬に、どうやって私がなれるのですか…ギトキト様…」

あの時は知りたくも無かった事を今は知りたいと思うだなんて。

「ならば教えてやろう。こちらへおいでメイルール」

そう言ってギトキトに手を引かれ、寺院の中でも禁地とされている誰も入る事の許されない奥庭へと導かれた。
奥庭に一歩踏み入れるとそこは緑に覆われて薄暗く、足元には野放図にうねる蔓や蔦が縦横無尽に走り、辺りは咽せ返るほどの濃い緑の匂いで充満していた。
何処に連れて行かれるのだろう。
禁地と思うだけでもメイルールの足取りは鈍くなる。

「あの、ギトキト様、何処まで行くのですか?」

不安そうなメイルールにギトキトは庭の1番奥を指し示した。

「あそこだよ。あの古い石造りの建物が分かるかね?」

示された先には窓もない階段状の古い石造りの建物が緑に没するように佇んでいた。

「あれは…?」
「あそこはバロイの墓があるのだ。墓と言うのは適当ではないな。バロイ神が生きておられた古から伝わる王蟲の寝所だ」
「王蟲の…寝床?」
「そうだよ、メイルール。あれは人々の為に自ら霊薬となろうとした勇敢な九人の王蟲が眠っているのだ。さあ、おいで。ここは神聖な場所だ。怖いところでは無い」

そう言ってギトキトは蔦の這う壁を押し開くと人が一人ようやく通れる程の隙間が開いた。
ギトキトが先に滑り込み、メイルールの手を取って中へと引き入れた。
中は暗く一直線に暗い細い廊下が伸びていて、壁には等間隔に嵌め込まれた脂皿に灯された炎が窓も無いのに微かに揺らめいていた。
ふとメイルールは不思議な香りに気づいた。
何の香りだろうか。
ハーブのような花のような、まるで深い森の中を思わせる香り。
メイルールが今までに嗅いだことのない不思議な香りが辺りに満ちていた。
奥に行くほど香りはますます強くなり、やがて手前に黒い石櫃が並んでいる場所に出た。
一目見てメイルールはそれが棺であることが分かった。九つの黒い石の棺。
不思議と恐ろしいと言う気持ちはない。

「見ての通り、ここは共同墓地だ。九人の王蟲の亡骸が祀られている場所だ。見てご覧」

そう言うとギトキトは一つの棺の蓋を開けた。この場所を支配している香りがいっそう強く立ち昇る。
そう、この芬々とした香りは棺の中から醸されているのだ。
メイルールはギトキトに言われるままに恐る恐る棺の中を覗き込んだ。

「きゃっ!」

メイルールは咄嗟に悲鳴を上げた。
恐ろしかったのではない。
あまりに美しかったから。

「どうだい?驚いたかい?この子は千年前に死んだのだ。千年前に霊薬となる事を望んでこの棺の中に眠ったのだ」
「千年?これが千年前に亡くなった人だと言うのですか?とても…とても信じられない…!」

その人は棺の中で今にも起きて来そうなほど瑞々しく、まるで静かに眠っているだけのように見えた。
生前よりも恐らく透き通った白い肌や赤みが差している唇や細かなまつ毛もそのままに、だが人間のそれとは違う透明感があり、妖精が眠っているようにも見えた。
そして更に亡骸を美しく見せていたのは夥しい数の紫の蝶が、まるでこの者の衣のようにびっしりとその身体を覆い、キラキラと羽を震わせ鱗粉を振り撒いていたからだ。

「この蝶達はいったい…」

驚きに戦慄きながらメイルールは亡骸から目が離せなくなっていた。

「この蝶の鱗粉は人の皮膚と同じものからできているのだ。バロイ神がもたらした古からのレシピを元に、草花から生成された蜜を塗布し、この紫命蝶《しめいちょう》を共に棺に閉じ込める事で人の身体はこのようになる。皮膚に塗った蜜や互いの鱗粉を糧としてこの蝶達はこの棺の中でずっと生きながらえ、同時に永久的に亡骸を守ってくれるのだ。これこそがバロイの秘術なのだ。そしてここにある九つの亡骸は遥か昔からその秘術に守られて棺に収められているのだ。この事はバロイ信仰を継ぐ数名の聖職者達しか知らぬ事だ」

そう説明を聞いてもメイルールにはまだ合点がいかなかった。
身体が保管される仕組みは分かったが、それがどう『薬』と繋がるのか。
そんな疑問を察したのかギトキトはある物語の一節を語り始めた。
それは自分達が良く知るバロイ神の神話の中では語られてこなかった部分だ。

「バロイ神は四千歳でこの世を去ったと言われているが、天人達は長命で皆二千歳は生きたとされる。そしてとうとうバロイ神が亡くなった時、その御心を受け継ぐべく、皆でバロイ神の肉体を食べたとされている。それは彼らの血肉になり、天人達はそこから更に千年永らえたと言う。そして、その時バロイ神の亡骸をシュクルーの湯で拭き清めた時に天人達は見たのだ。バロイ神の肉体は男でも無く女でも無い『王蟲』であったと言う事を」

ああ…だからなのだ。
神である王蟲の身体を持ったバロイは不老長寿の妙薬になる。つまりそれが『霊薬』なのだ。
この肉体こそが薬になると言うのはこう言う意味だったのだ。
咄嗟に怯えて逃げようとするメイルールの手をギトキトが捕まえて引き寄せた。

「お前がいつか戦いで傷ついたアトモルを助けるかもしれないと言ったのはこう言う事なのだよ。いつの日か彼の薬となれるかもしれないのだ。妻は子供を産むかもしれないが夫を死の淵から蘇らせることは出来まい。だがお前ならどうだ?
王蟲だからこそ、その身をもってアトモルを助けられるかもしれないのだ。それだけでは無いぞ?お前の肉を口にした万人を救えるかもしれぬのだ。ただ苦しみの中で腐っていくだけで良いのか?王蟲のお前だからこそ、死して人々の役に立てるのだぞ?」

頭の中でギトキトの声だけが聞こえた。
ただの悲しい運命《さだめ》の王蟲ではなく、意味のある自分だったのだと思えたらならば少しは生まれてきて良かったのだと思えるのだろうか。
アトモルの中で王蟲の霊薬となった自分はその記憶にも深く留まることができるのだろうか。
今メイルールは恐ろしい決断の前に立っていた。
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