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化け物の棺
幼い恋心
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紀元前1200年、その頃のメコン川の流域は温暖な草原地帯で、ヤールカナンと呼ばれる国が栄えていた。
ヤールカナンは六つの部族が百年もの間、凌ぎを削り戦が絶えなかったが、四代目の最強王ユルの台頭でようやく国としての根幹を築き始めていた。
ヤールカナンは今や最も平穏で最も豊かな時を過ごしていた。
ユル王には今年十七歳になる一人息子アトモルがいた。
アトモルは利発で文武両道、そろそろ妻を娶ろうかという順風満帆な若者だった。
アトモルには幼い頃から仲の良いスン族の娘メイルールがいた。
メイルールは美しく凛々しく、幼い頃から女の子よりも男の子に混じって泥だらけになって遊ぶような、溌剌とした子供だった。
何かにつけ二人はいつも一緒に遊んでいた。
まるでそれは一つの種から芽吹いた二つの花のような二人だった。
そんな仲の良い兄妹《きょうだい》のような二人の愛は、今や年頃を迎えた大人の愛情へと移り変わろうとしていた。
そんな絵に描いたような幸せそうな二人の結婚を誰もが待ち望み、そんな中で湧いた二人の婚儀の話は言わば当然の流れだった。
この日もアトモルとメイルールは二人の両親の元に呼ばれ、婚儀の日取りを告げられたのだった。
「メイルール。私の可愛いメイルールや。おてんば娘のお前がいつかちゃんと国母になれるか私はそれが心配だ」
母が一から布を織り紫草で染色し、愛情を込めて縫い上げた花嫁衣装を眺めながらメイルールの母ティザは傍で寝そべるメイルールの隣へと腰を下ろした。
「母さま、大丈夫です。アトモルは優しくて気心知れてるし、王様も女王様も幼い頃から私を可愛がってくださってますから、こっちのおうちから向こうのおうちにお引越しするみたいなものです」
そう屈託のない笑顔を向ける娘にティザは心配そうにため息をついた。
「本当におまえは、まだまだ子供で全く分かってない。そんなだから私は心配なのです」
「考えるより慣れろです母さま」
結婚の、ましてや未来の女王になる重みを知ってか知らずか寝床に無防備に寝転がり、あどけない笑顔を見せるメイルールが母は無性に心許なかった。
もう一つティザには心配なことがあった。
スン族の娘は早熟で十ニを過ぎる頃には初潮が訪れるが、メイルールにはその兆しすらなく、娘らしく膨らむはずの胸もまだ薄っぺらく、美しいとはいえ少女と言うよりはまだまだ少年のようだった。
婚儀の前には大人の女性にになって欲しいものだとティザはメイルールの柔らかい銀の巻き毛を指で梳いた。
「そうだ、メイルール。明日は白の儀式で最高神官のギドキト様がお見えになりますからね、朝起きたら念入りに湯浴みをなさい」
白の儀式。そう母の口から聞いた途端、それまで花が咲いたようなメイルールの笑顔はその美しい顔から途端に全ての花弁は散ってしまった。
「私、ギドキト様が好きじゃない。どうしても白の儀式はしなきゃだめなの?」
「そんな事を言ってはいけません。嫁に行く娘の身体が清い事をしっかりとバロイ神にお墨付きを貰わねば。貴女が清いと言う証を携えていれば、堂々と嫁に行ける。ましてや貴女は未来の女王なのですから」
そんなものかとメイルールは溜息をついた。
「でも、裸になったからって、それがどうして清い身体だと分かるの?母さま」
「それは、ギドキト様の目を通して神がご覧になればちゃんと分かるものなのです。…まさか、メイルール貴女…」
ティザは途端に険しい顔になり、何かを勘繰るような目つきでメイルールを見た。慌ててメイルールは母の言葉を遮った。
「や、ヤダな!母さま、私はやましい事など何一つしてはいません!」
そう、またアトモルとは口付け一つさえもしていない。
母の要らぬ想像に、メイルールは首まで真っ赤になって頬を膨らませた。
「なら、大丈夫。何も心配しなくて良いのよ、メイルール」
白の儀式など、結婚の通過儀礼の一つにすぎない。
この身体は健康で子供が十分に産めますよ、と神に示せればそれで良いのだ。
お昼前には嫌なことは全て終わる。
神官に裸を晒すのなんてほんの一時のこと。
そうは思ってみても、メイルールはまんじりとも出来ず不安な心を抱えたまま朝を迎えていた。
薄荷の薬湯で湯浴みを済ませたメイルールは最高神官がやって来るまでの間、庭で緊張感と暇を持て余し、草木の茂みを歩き回っては手に触れるトゲアザミを無闇に摘み取っていた。
「いた…っ」
毟られた腹いせにトゲアザミはメイルールの華奢な指先を強か傷付けた。
赤い血が小さな宝石の粒のように白い指先に膨らんだ。
「ダメだよ、トゲアザミを手折っては。花嫁さんが指に傷なんか作っちゃダメだ」
誰もいないと思っていた庭なのに、何処からともなく現れたアトモルがメイルールの傷付いた指を手に取って己の唇へと導き、生暖かい舌が滲む赤を舐めとった。
初めてそんな事をされた。
何故だか不思議な昂りを覚えてメイルールの心臓は早鐘を打っていた。
「ア…アトモル!どうしたのこんなに朝早く」
慌ててアトモルの手から自分の手を引いたが、引き止められた。
メイルールの指先がジンジンと痺れていた。
結婚を意識したせいなのか、今日のアトモルが急に大人の男に見えてメイルールは初めて湧いて来た不思議な感覚に戸惑った。
「儀式の後、結婚までしばらくの間君には会えないから。幼馴染の君を見納めに来たんだ。次に会う時はもう君はオレの嫁さんだ」
その言葉はメイルールに今まで漠然としていた結婚というものに、現実味と実感を与えた。
この目の前の立派な若者が身も心も捧げる己の夫になる人なのだ。
恥じらいながら頷くメイルールの耳に屋敷の奥から母の呼ぶ声が聞こえた。
本当は儀式になんて行きたくない。ずっとこのままアトモルの手の暖かさを感じていたい。
今日から婚儀の日まではアトモルに触れる事も会う事も出来なくなると思うと芽生え始めたばかりの恋心がチクチクと疼いた。
だがその先にあるのは永遠の愛。そう思えばこそ嫌な儀式にも臨めるのだ。
「…もう行かなきゃ」
「うん、頑張って行っておいで」
見つめ合いながら繋いだ手を名残惜しそうに二人は手手放した。
屋敷に戻るまでの短い間もメイルールは何度も何度もアトモルを振り返っていた。
まるでこの先の運命を予感しているかのように。
メイルールが屋敷に戻ると家族が見守る中、部屋の真ん中には最高神官ギドキトは立っていた。
灰色の皺くちゃな顔に似つかわしくない身長2メートルの大男。つるりとした長い後頭部に垂れた耳たぶには幾つもの耳飾りが下がっている。
長く細い指は何故か両手とも四本しか無く、この国の誰とも雰囲気が違って見えた。
男はオウムのような派手な羽飾りをたくさんつけた儀式用の衣装に身を包み、部屋に入って来たメイルールに一見人の良さそうな微笑みを向けた。
「こんにちは、メイルール。私はバロイ神の僕にして神官のギドキト。今から婚儀の前の白の儀式を執り行おう」
穏やかそうに微笑むギドキトの眼差しの奥にはすでに何もかもを見通すような漆黒の眼差しが鈍い光を湛えていた。
母も父も使用人も、全ての人々が部屋を出て行くと、部屋の中に吊るされていた天幕が降ろされ、灯り一つ灯った薄暗い部屋にはメイルールと最高神官ギドキトだけが残された。
「衣を脱いでこちらへおいで」
ギドキトのいやに湿った声色に訳もなく嫌悪を覚え、メイルールは今から始まる未知の儀式の前で小さな身体と心を震わせていた。
ヤールカナンは六つの部族が百年もの間、凌ぎを削り戦が絶えなかったが、四代目の最強王ユルの台頭でようやく国としての根幹を築き始めていた。
ヤールカナンは今や最も平穏で最も豊かな時を過ごしていた。
ユル王には今年十七歳になる一人息子アトモルがいた。
アトモルは利発で文武両道、そろそろ妻を娶ろうかという順風満帆な若者だった。
アトモルには幼い頃から仲の良いスン族の娘メイルールがいた。
メイルールは美しく凛々しく、幼い頃から女の子よりも男の子に混じって泥だらけになって遊ぶような、溌剌とした子供だった。
何かにつけ二人はいつも一緒に遊んでいた。
まるでそれは一つの種から芽吹いた二つの花のような二人だった。
そんな仲の良い兄妹《きょうだい》のような二人の愛は、今や年頃を迎えた大人の愛情へと移り変わろうとしていた。
そんな絵に描いたような幸せそうな二人の結婚を誰もが待ち望み、そんな中で湧いた二人の婚儀の話は言わば当然の流れだった。
この日もアトモルとメイルールは二人の両親の元に呼ばれ、婚儀の日取りを告げられたのだった。
「メイルール。私の可愛いメイルールや。おてんば娘のお前がいつかちゃんと国母になれるか私はそれが心配だ」
母が一から布を織り紫草で染色し、愛情を込めて縫い上げた花嫁衣装を眺めながらメイルールの母ティザは傍で寝そべるメイルールの隣へと腰を下ろした。
「母さま、大丈夫です。アトモルは優しくて気心知れてるし、王様も女王様も幼い頃から私を可愛がってくださってますから、こっちのおうちから向こうのおうちにお引越しするみたいなものです」
そう屈託のない笑顔を向ける娘にティザは心配そうにため息をついた。
「本当におまえは、まだまだ子供で全く分かってない。そんなだから私は心配なのです」
「考えるより慣れろです母さま」
結婚の、ましてや未来の女王になる重みを知ってか知らずか寝床に無防備に寝転がり、あどけない笑顔を見せるメイルールが母は無性に心許なかった。
もう一つティザには心配なことがあった。
スン族の娘は早熟で十ニを過ぎる頃には初潮が訪れるが、メイルールにはその兆しすらなく、娘らしく膨らむはずの胸もまだ薄っぺらく、美しいとはいえ少女と言うよりはまだまだ少年のようだった。
婚儀の前には大人の女性にになって欲しいものだとティザはメイルールの柔らかい銀の巻き毛を指で梳いた。
「そうだ、メイルール。明日は白の儀式で最高神官のギドキト様がお見えになりますからね、朝起きたら念入りに湯浴みをなさい」
白の儀式。そう母の口から聞いた途端、それまで花が咲いたようなメイルールの笑顔はその美しい顔から途端に全ての花弁は散ってしまった。
「私、ギドキト様が好きじゃない。どうしても白の儀式はしなきゃだめなの?」
「そんな事を言ってはいけません。嫁に行く娘の身体が清い事をしっかりとバロイ神にお墨付きを貰わねば。貴女が清いと言う証を携えていれば、堂々と嫁に行ける。ましてや貴女は未来の女王なのですから」
そんなものかとメイルールは溜息をついた。
「でも、裸になったからって、それがどうして清い身体だと分かるの?母さま」
「それは、ギドキト様の目を通して神がご覧になればちゃんと分かるものなのです。…まさか、メイルール貴女…」
ティザは途端に険しい顔になり、何かを勘繰るような目つきでメイルールを見た。慌ててメイルールは母の言葉を遮った。
「や、ヤダな!母さま、私はやましい事など何一つしてはいません!」
そう、またアトモルとは口付け一つさえもしていない。
母の要らぬ想像に、メイルールは首まで真っ赤になって頬を膨らませた。
「なら、大丈夫。何も心配しなくて良いのよ、メイルール」
白の儀式など、結婚の通過儀礼の一つにすぎない。
この身体は健康で子供が十分に産めますよ、と神に示せればそれで良いのだ。
お昼前には嫌なことは全て終わる。
神官に裸を晒すのなんてほんの一時のこと。
そうは思ってみても、メイルールはまんじりとも出来ず不安な心を抱えたまま朝を迎えていた。
薄荷の薬湯で湯浴みを済ませたメイルールは最高神官がやって来るまでの間、庭で緊張感と暇を持て余し、草木の茂みを歩き回っては手に触れるトゲアザミを無闇に摘み取っていた。
「いた…っ」
毟られた腹いせにトゲアザミはメイルールの華奢な指先を強か傷付けた。
赤い血が小さな宝石の粒のように白い指先に膨らんだ。
「ダメだよ、トゲアザミを手折っては。花嫁さんが指に傷なんか作っちゃダメだ」
誰もいないと思っていた庭なのに、何処からともなく現れたアトモルがメイルールの傷付いた指を手に取って己の唇へと導き、生暖かい舌が滲む赤を舐めとった。
初めてそんな事をされた。
何故だか不思議な昂りを覚えてメイルールの心臓は早鐘を打っていた。
「ア…アトモル!どうしたのこんなに朝早く」
慌ててアトモルの手から自分の手を引いたが、引き止められた。
メイルールの指先がジンジンと痺れていた。
結婚を意識したせいなのか、今日のアトモルが急に大人の男に見えてメイルールは初めて湧いて来た不思議な感覚に戸惑った。
「儀式の後、結婚までしばらくの間君には会えないから。幼馴染の君を見納めに来たんだ。次に会う時はもう君はオレの嫁さんだ」
その言葉はメイルールに今まで漠然としていた結婚というものに、現実味と実感を与えた。
この目の前の立派な若者が身も心も捧げる己の夫になる人なのだ。
恥じらいながら頷くメイルールの耳に屋敷の奥から母の呼ぶ声が聞こえた。
本当は儀式になんて行きたくない。ずっとこのままアトモルの手の暖かさを感じていたい。
今日から婚儀の日まではアトモルに触れる事も会う事も出来なくなると思うと芽生え始めたばかりの恋心がチクチクと疼いた。
だがその先にあるのは永遠の愛。そう思えばこそ嫌な儀式にも臨めるのだ。
「…もう行かなきゃ」
「うん、頑張って行っておいで」
見つめ合いながら繋いだ手を名残惜しそうに二人は手手放した。
屋敷に戻るまでの短い間もメイルールは何度も何度もアトモルを振り返っていた。
まるでこの先の運命を予感しているかのように。
メイルールが屋敷に戻ると家族が見守る中、部屋の真ん中には最高神官ギドキトは立っていた。
灰色の皺くちゃな顔に似つかわしくない身長2メートルの大男。つるりとした長い後頭部に垂れた耳たぶには幾つもの耳飾りが下がっている。
長く細い指は何故か両手とも四本しか無く、この国の誰とも雰囲気が違って見えた。
男はオウムのような派手な羽飾りをたくさんつけた儀式用の衣装に身を包み、部屋に入って来たメイルールに一見人の良さそうな微笑みを向けた。
「こんにちは、メイルール。私はバロイ神の僕にして神官のギドキト。今から婚儀の前の白の儀式を執り行おう」
穏やかそうに微笑むギドキトの眼差しの奥にはすでに何もかもを見通すような漆黒の眼差しが鈍い光を湛えていた。
母も父も使用人も、全ての人々が部屋を出て行くと、部屋の中に吊るされていた天幕が降ろされ、灯り一つ灯った薄暗い部屋にはメイルールと最高神官ギドキトだけが残された。
「衣を脱いでこちらへおいで」
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