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化け物の棺
時の風に吹かれて
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回る回る逆さに回る運命の輪よ。
摂理に逆らい、天理に逆らい、産まれた場所を目指す魚のように、私たちは時の川を遡ろう。
貴方と会えたあの場所まで、貴方と別れたあの場所まで、世界と訣別したあの美しい水辺へ。
◆◆◆
無しか感じない空間でヴィクトーは己の身体が浮かんでいる感覚を覚えていた。
目の前を猛スピードで飛び去っていく景色は目で見ているようで、その実脳が見せている虚像にも思える。
これはいったいどんな魔法か魔術だろうか。
この景色はいったい何処からこの世界を俯瞰していると言うんだろう。
眼下では数多の戦争が繰り返され、何人もの王や皇帝や時の権力者が争い、犠牲と引き換えに手に入れたものも、一度の天変地異によって星屑ほどある文明が興っては呆気なく消えていく。
ここから見る人類の歴史は何て短く儚いものか。
黄河の辺りに、インダス川の流域に、ナイル川の岸辺に、チグリスとユーフラテスの肥沃な三日月に、生けとしし生けるもの全てに繰り返し訪れる生と死を、オレは今飛び越えているのか。
六千年、八千年、一万年、或いはそれ以上の時をオレは今遡っているのか。
ヴィクトーのすぐ近くでパピヨンの声が囁いた。
『貴方の魂はここで生まれたのです。
紀元前一万二千年、氷河期から漸く抜けた温暖な時代に、メコン川のこの川縁にその文明は栄えていたのです』
一万二千?その頃はまだ狩猟時代で石器時代が漸く訪れた頃だ。一番古い文明は
紀元前六千年のメソポタミアの筈。そんな遥か昔に高度な文明があるはずはない。
『高度に栄えた古代文明は天変地異で一度全てが滅びてしまった。
高い測量技術はエジプトやアステカのピラミッドに受け継がれ、失った古代文明の上に模倣して作られた。
正方形やゼロの概念も既に存在し、金属を加工する技術もあった。
あなた方がまだその古代文明の尻尾にたどり着いていないだけ。今は跡形もない文明だけれど確かにここには超古代文明といえるものが存在していたのです。
このヤールカナンの地に』
ヤールカナン?何処かで聞いた事がある気がする。
酷く懐かしく切ない響きだ。
心地よい風が吹いていた。
草原地帯に大きな大きな河の流れがあり、そこをぐんぐんと鳥の目線で飛んでいる自分がいた。
ヴィクトーは自分の体が風になっているのを感じだ。
これは鳥の目線だろうか。丘を駆けて来るあの美しい子供は…誰だろう。
オレはあの子を知っている気がする。
ヴィクトーの眼下に、楽しげに川辺の草を分けながら銀色の髪を靡かせた子供が走っているのが見えた。
あれは…誰だ?
君によく似ている。
パピヨン…。
『あれはメイルール…。幼い私です、アトモル…』
アトモル…アトモル?それが…オレなのか?
パピヨン…。
パピヨン…?答えてくれパピヨン!
君は誰だ!
パピヨンはもうその問いには答えなかった。その代わりにゴーゴーと音速で風を切るような耳鳴りに、ヴィクトーは意識を吸われていくのを感じた。
アトモル…。
アトモル…。
「誰だ…!君は!」
そう叫び声を上げた時、アトモルは酷く身体を打ち付ける衝撃と共に地面へと激しく転がるのを感じた。
二転三転する景色に目を回し、仰向けに寝転がって、しばしぼんやりと燦々と降りしきる木漏れ日にその日焼けした顔を晒していた。
ここは何処だ?
午後のまったりとした日差しに抱かれ、今の今まで眠りこけていた頭は思いの外深く眠っていたのだろうか、酷くぼんやりと霞んでいた。
すると遠くから草を踏む音と共に誰かが自分の名を呼ぶのが聞こえてきた。
「アトモルー!アトモルー!何処にいるの?」
自分を探すその声に、応えようとアトモルがむくりと身を起こした。
「いたたたた!」
背中が酷く痛み、漏らした呻き声で気がついた相手が、慌てアトモルの傍へと駆けてくる。
「大丈夫?また樹の上から落っこちたの?」
そう言うと、痛そうに丸めたアトモルの背中を幼い手が懸命に摩った。
ああそうか、オレは木の上で昼寝を…。
「ありがとう、メイルール。大丈夫。ちょっと背中を打っただけだ。それより、父さん達が呼んでるって?」
そう聞くと、少女は薔薇のように頬を染めてはにかんだ。
「きっと、私たちの婚礼のことだと思う」
メイルールはスン族の族長の娘。歳は十二。アトモルはこのヤールカナンの王の子。時に十七歳。
二人は幼い頃から仲も良く、家柄も釣り合いが取れていたことからいつかは二人が結ばれるだろうと誰もが自然に考えていた。
「そうか、メイルールはもう十二歳になったのだったな。オレを追い回していたおチビちゃんがオレのお嫁さんになるんだな」
そうしみじみとしたアトモルの声に、メイルールは顔をますます朱に染めて背を撫でていた手がポカポカとそこを可愛く叩いた。
「もうっ、チビは余計です!いつもいつもそうやって私を馬鹿にしてっ!」
「あははっ!痛い痛い!降参するよ!乱暴者のお姫さま。でも、そんな君が大好きだよメイルール。
きっとオレ達は国で一番幸せな王子と王女になれる」
そう言って大樹の下で寄り添う二人に祝福の風が吹き、葉影に集う鳥達が祝いの歌を囀った。
見つめ合う二人の瞳には互いしか写らず、ゆっくりと二人の唇は寄り添いあって…。
「アトモル様!メイルール様!こちらにいらっしゃったのですか!お父上方がお呼びですよ!」
無粋な従者の登場に、二人は苦笑いを零しながら身体を離した。
「分かった!そう喚くな!今伺うところだった。全くお前と言う男はいつもそうだな」
「は?何のことですかな?ところであんな所で何を…」
「薄ら惚けるところが小憎らしいなイエルネ!」
「ふふっ、アトモルとイエルネ。二人はとっても仲が良いのですね!」
三人連れ立った帰路の途中、そんな気心知れた主従のやり取りをメイルールは微笑ましい気持ちで眺めていた。
この一千年の間、四度治世は変わったが、今が最も穏やかで最も平和な治世だと誰もが思う事だろう。
そしてこの豊かな国の次の王と王女になるのは、このアトモルとメイルールなのだ。
案の定、アトモルの両親とメイルールの両親の話は二人の婚礼のことだった。
今から百の太陽と月が巡る日に、二人の婚礼は整えられた。
この国で王と同じくらい、或いは王よりも力を持っていたのはバロイ神を司る神官長だった。
神官は星を読み、占いを行い、あらゆる儀式を取り仕切った。
お互いどんなに思い合っていても、神官が許さなければ結婚をすることはできない。
それはこの国の王子だとて例外には及ばない。
その神官ですら、この結婚を祝福すると言ったのに。
まさかあんな事になろうとは、誰も予想できなかった。
摂理に逆らい、天理に逆らい、産まれた場所を目指す魚のように、私たちは時の川を遡ろう。
貴方と会えたあの場所まで、貴方と別れたあの場所まで、世界と訣別したあの美しい水辺へ。
◆◆◆
無しか感じない空間でヴィクトーは己の身体が浮かんでいる感覚を覚えていた。
目の前を猛スピードで飛び去っていく景色は目で見ているようで、その実脳が見せている虚像にも思える。
これはいったいどんな魔法か魔術だろうか。
この景色はいったい何処からこの世界を俯瞰していると言うんだろう。
眼下では数多の戦争が繰り返され、何人もの王や皇帝や時の権力者が争い、犠牲と引き換えに手に入れたものも、一度の天変地異によって星屑ほどある文明が興っては呆気なく消えていく。
ここから見る人類の歴史は何て短く儚いものか。
黄河の辺りに、インダス川の流域に、ナイル川の岸辺に、チグリスとユーフラテスの肥沃な三日月に、生けとしし生けるもの全てに繰り返し訪れる生と死を、オレは今飛び越えているのか。
六千年、八千年、一万年、或いはそれ以上の時をオレは今遡っているのか。
ヴィクトーのすぐ近くでパピヨンの声が囁いた。
『貴方の魂はここで生まれたのです。
紀元前一万二千年、氷河期から漸く抜けた温暖な時代に、メコン川のこの川縁にその文明は栄えていたのです』
一万二千?その頃はまだ狩猟時代で石器時代が漸く訪れた頃だ。一番古い文明は
紀元前六千年のメソポタミアの筈。そんな遥か昔に高度な文明があるはずはない。
『高度に栄えた古代文明は天変地異で一度全てが滅びてしまった。
高い測量技術はエジプトやアステカのピラミッドに受け継がれ、失った古代文明の上に模倣して作られた。
正方形やゼロの概念も既に存在し、金属を加工する技術もあった。
あなた方がまだその古代文明の尻尾にたどり着いていないだけ。今は跡形もない文明だけれど確かにここには超古代文明といえるものが存在していたのです。
このヤールカナンの地に』
ヤールカナン?何処かで聞いた事がある気がする。
酷く懐かしく切ない響きだ。
心地よい風が吹いていた。
草原地帯に大きな大きな河の流れがあり、そこをぐんぐんと鳥の目線で飛んでいる自分がいた。
ヴィクトーは自分の体が風になっているのを感じだ。
これは鳥の目線だろうか。丘を駆けて来るあの美しい子供は…誰だろう。
オレはあの子を知っている気がする。
ヴィクトーの眼下に、楽しげに川辺の草を分けながら銀色の髪を靡かせた子供が走っているのが見えた。
あれは…誰だ?
君によく似ている。
パピヨン…。
『あれはメイルール…。幼い私です、アトモル…』
アトモル…アトモル?それが…オレなのか?
パピヨン…。
パピヨン…?答えてくれパピヨン!
君は誰だ!
パピヨンはもうその問いには答えなかった。その代わりにゴーゴーと音速で風を切るような耳鳴りに、ヴィクトーは意識を吸われていくのを感じた。
アトモル…。
アトモル…。
「誰だ…!君は!」
そう叫び声を上げた時、アトモルは酷く身体を打ち付ける衝撃と共に地面へと激しく転がるのを感じた。
二転三転する景色に目を回し、仰向けに寝転がって、しばしぼんやりと燦々と降りしきる木漏れ日にその日焼けした顔を晒していた。
ここは何処だ?
午後のまったりとした日差しに抱かれ、今の今まで眠りこけていた頭は思いの外深く眠っていたのだろうか、酷くぼんやりと霞んでいた。
すると遠くから草を踏む音と共に誰かが自分の名を呼ぶのが聞こえてきた。
「アトモルー!アトモルー!何処にいるの?」
自分を探すその声に、応えようとアトモルがむくりと身を起こした。
「いたたたた!」
背中が酷く痛み、漏らした呻き声で気がついた相手が、慌てアトモルの傍へと駆けてくる。
「大丈夫?また樹の上から落っこちたの?」
そう言うと、痛そうに丸めたアトモルの背中を幼い手が懸命に摩った。
ああそうか、オレは木の上で昼寝を…。
「ありがとう、メイルール。大丈夫。ちょっと背中を打っただけだ。それより、父さん達が呼んでるって?」
そう聞くと、少女は薔薇のように頬を染めてはにかんだ。
「きっと、私たちの婚礼のことだと思う」
メイルールはスン族の族長の娘。歳は十二。アトモルはこのヤールカナンの王の子。時に十七歳。
二人は幼い頃から仲も良く、家柄も釣り合いが取れていたことからいつかは二人が結ばれるだろうと誰もが自然に考えていた。
「そうか、メイルールはもう十二歳になったのだったな。オレを追い回していたおチビちゃんがオレのお嫁さんになるんだな」
そうしみじみとしたアトモルの声に、メイルールは顔をますます朱に染めて背を撫でていた手がポカポカとそこを可愛く叩いた。
「もうっ、チビは余計です!いつもいつもそうやって私を馬鹿にしてっ!」
「あははっ!痛い痛い!降参するよ!乱暴者のお姫さま。でも、そんな君が大好きだよメイルール。
きっとオレ達は国で一番幸せな王子と王女になれる」
そう言って大樹の下で寄り添う二人に祝福の風が吹き、葉影に集う鳥達が祝いの歌を囀った。
見つめ合う二人の瞳には互いしか写らず、ゆっくりと二人の唇は寄り添いあって…。
「アトモル様!メイルール様!こちらにいらっしゃったのですか!お父上方がお呼びですよ!」
無粋な従者の登場に、二人は苦笑いを零しながら身体を離した。
「分かった!そう喚くな!今伺うところだった。全くお前と言う男はいつもそうだな」
「は?何のことですかな?ところであんな所で何を…」
「薄ら惚けるところが小憎らしいなイエルネ!」
「ふふっ、アトモルとイエルネ。二人はとっても仲が良いのですね!」
三人連れ立った帰路の途中、そんな気心知れた主従のやり取りをメイルールは微笑ましい気持ちで眺めていた。
この一千年の間、四度治世は変わったが、今が最も穏やかで最も平和な治世だと誰もが思う事だろう。
そしてこの豊かな国の次の王と王女になるのは、このアトモルとメイルールなのだ。
案の定、アトモルの両親とメイルールの両親の話は二人の婚礼のことだった。
今から百の太陽と月が巡る日に、二人の婚礼は整えられた。
この国で王と同じくらい、或いは王よりも力を持っていたのはバロイ神を司る神官長だった。
神官は星を読み、占いを行い、あらゆる儀式を取り仕切った。
お互いどんなに思い合っていても、神官が許さなければ結婚をすることはできない。
それはこの国の王子だとて例外には及ばない。
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