化け物の棺

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朧げな黒雲

解読できない八つの言語

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魔女の家は居心地の良い空間だった。
エブラール邸も悪くはないが、この家に居るとまるで森の中にいるような心地良さを感じる。
それは恐らく魔女が作る不思議な空気感のせいもある。
魔女は偏屈そうではあるが、決して付き合いづらいわけでは無く、寧ろ彼女の何気ない話にずっと耳を傾けたくなるような不思議な魅力があった。
何杯目かのお茶を飲み終える頃、すっかり雨は上がっていたが誰もその事に気がつかなかった。


「グリンダ。階段の本を見ても良いかい?」

ヴィクトーはこの部屋に入った時から階段に雑然と積んである本が気になっていた。
この不思議な老夫人が興味を持って読む本とはどんなものなのだろう。
ヴィクトーはそっちの方に興味がそそられた。

「好きに読むと良いよ。私は雑食でね。文字なら何でも良いのさ」

一段登るごとに分厚い本から薄い本まで乱雑に積まれている。
埃の積もっているもの、つい最近手にしたと分かるようなもの。
ヴィクトーは無作為に手に取っていく。

バークリー『ハイラスとフィロナスの三つの対話』?
イギリスの哲学者か…。
うん?こっちはホフマンの『砂男』。
こっちは『アンデルセン童話集』だ。
現地のゴシップ雑誌に…植物の育て方…?
そんな本に混じって孔子などがポロリと顔を出したりと、雑食というだけあって、本当に趣向のバラバラな本がランダムに積んであった。

まるで遺跡を発掘するような愉しさにヴィクトーは夢中になって本を物色しながら、一段づつ階段を昇って行った。
その足がふと止まった。
見覚えのある緑色の簡素な装丁。
表紙には『シュメールの宇宙・文明の光と影』ルイ・マルロー著。細い金文字でそう書いてあった。

「これは…この本は私の父が書いたものです。自費出版で、しかも千三百部しか発行されなかった本ですよ!」

興奮気味にその本を魔女に翳して見せると「おやそうかい」とこちらも見ずに返えされた。
ルイが知り合いだけに配った本が何故こんな所にと思いながらもヴィクトーは階段を昇り切っていた。
そこには薄暗く埃っぽく、不思議な圧迫感を感じる部屋があった。
古い紙の少し酸っぱい匂いとインクの香り。
薄暗がりに目を凝らしたヴィクトーは驚愕の光景に思わず声を出していた。

「これは…、凄い…!何だここは…!」

そこにあったのは、天井まで届くような傾きかけた本棚と、そこに詰め込まれた今にも溢れて来そうな平積みの本の山だった。

「…これは…、読書家なんて生易しいものじゃないな…」

ズラリと並ぶ背表紙に触れながら見回すと、ヴィクトーはある事に気がついた。下の段に行くほど民族学と言語学の本がやけに多いのだ。しかも専門書ばかりが積み重なっている。

「グリンダ!グリンダ!」

何冊か気になる本を崩れぬように注意しながら引き抜いて、ヴィクトーが狭い階段を駆け下ってきた。

「グリンダ!…あの本の山は何ですか!貴女もしかして学者なのではないですか」
「騒々しいねえ、埃が立つだろう」
「グリンダ、もしかして貴女は言語学者なんじゃないのか?」

興奮気味に捲し立てるとグリンダは煩わしげな顔をする。

「そんな面倒臭い肩書きは捨てた。今は白髪の魔女でちょうど良いのさ。
ほら、雨も上がった」

隠遁生活を邪魔されたくないとでも言いたげに今度はヴィクトー達を外へと追い立てようとする。

「そうですね、ヴィクトー…そろそろお暇しましょう」

空気を読んだエリックが立ち上がるが、ヴィクトーは魔女へと詰め寄った。

「グリンダ、貴女に見てもらいたいものがあるんだ」
「何だい藪から棒に。もう学者なんて辞めたんだ。あんたの役には立てない」
「これを見てくれるだけで良いんだ!」

ヴィクトーのこんな強硬な姿をエリックは今まで見た事がない。
外に連れ出そうとヴィクトーの腕を引くが、身体は頑として動かない。
それどころかズボンのポケットから小さく折り畳んだ紙切れを魔女の前に広げて見せた。
それは緑の煙突から持ち帰ったあの象形文字の写しと、ルイの鞄の中にあったあの石櫃の写し、その二枚の複製だった。
それを目にしたグリンダの表情が何かを思い出したようにゆっくりと変わって行った

「ああ、思い出したよ。ルイ・マルロー。あの考古学者の息子か」
「え…っ、親父にあった事があるんですか!」

思いがけない魔女の反応にヴィクトーは驚いた。

「あの考古学者も私にこんな文字を見せて、あんたとおんなじ事を聞いてきたよ」
「親父が…?それで…貴女は親父になんて言ったんですか!」

ヴィクトーの勢いに気圧された魔女は追い払うのを諦めたように溜息をついた。

「これも因縁と言うやつかねえ、…仕方ないねえ。
あんたも親父そっくりの考古学バカなのか。座りなさい」

ヴィクトー達はもう一度椅子へと腰を下ろした。
雨は上がったが、既に外は夕暮れ時だった。

「まだそんな文字をからかっていたのか。親父に聞くのが一番手っ取り早いんじゃ無いのかい?」
「父は亡くなりました。謎解きの途中で。この文字が何なのか一人で秘密を抱えたまま…。俺は俺のためにもどうしてもこの文字の謎を解かなければならないんだ」

言葉には出さなかったが、魔女はルイの死を悼むように暫く黙し、やがてゆっくりと彼女は口を開いた。

「この話はあんたの親父にもした話だ」

ヴィクトーはゴクリと唾を飲んで身を乗り出した。

「言語ってのはね悲しい事に、年間で三十の言語がこの世から消滅していると言われているんだよ。
そして全く解明されていない未知の文明の言語ってのも存在する。あんたは考古学者だからこの辺のことはわかるだろう?」

そう言いながら魔女はヴィクトーの持ってきた一冊の本を開いて見せた。
そこには絵なのか文字なのか、はたまた記号なのか分からないミミズの這ったような文字のサンプルが描かれていた。
魔女は一つ一つ指を差しながら話しを進めた。

「解明されていない未知の言語は確認されているだけで八つある。
縄文文字A、B。クレタ聖刻文字。ワディ・エル・ホル刻文。
シトヴォ碑文。オルメカ文字。シンガポールストーン。ロンゴロンゴ。そして五千年以上前に使われていた原イスラム文字。この八つだ。おそらくその文字もこう言った文字の一つだろうね。あんたの親父さんは発見されれば世界がひっくり返るような、未知の巨大古代文明が必ず東南アジアにあると言っていた。それが十年以上も前の話だよ。
そうか…あの考古学者は死んだのか」

まだ発掘されていない遺跡はこのインドシナの地には沢山ある。
だがそれは滅びていった何某かの文明の上に分類されるものばかりだ。
だがルイはそれとは違う全く未知の巨大古代文明の姿を追っていた。その尻尾が『化け物の棺』と言う事なのだ。

「グリンダ。どうかお願いだ、俺に力を貸してくれ。
この文字をどうしても解読したいんだ」
「そんな簡単に言わないでくれ。発見されてから何百年研究されても解読できない八つの言語の話を今したばかりだろう。こんなばあさんにそんな気力は残っちゃいないんだよ。
ほら帰った帰った!」

ヴィクトーとて簡単にお願いしたわけではなかったが、魔女にはにべも無く追い出されたのだった。
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