化け物の棺

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新らしい景色の中へ

果て無く醜いもの

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エブラール邸に運び込まれてから三日三晩、タオは夢と現の狭間を彷徨った。
目覚めても数日間は呆然としているだけで、運ばれた食事も殆ど手をつける事ができずにいたが、人間の生きる本能は彼を生かし続けた。
そうして十日もすると少しずつではあったが、床を起き上がる事が出来るようになっていた。
エリックとヴィクトーが毎日のように変わるがわる彼を見舞っていたが、この日初めてタオがヴィクトーに口を開いた。

「ライは…どうなりましたか」

か細い声で辿々しい声だった。

「大丈夫。ちゃんと元気に生きてる。君が元気になったら会わせてあげよう」

「そう、ですか。彼は無事だったんですね」

強ばるタオの表情に僅かな安堵が浮かんでいた。

「君は…青嵐だったんだな」

タオは俯き、目を伏せて頷いた。微かにまつ毛が震えていた。

「火事の事。すみませんでした。貴方やエリックがあの場所にいたなんて」
「だが君がエリックに投げ文してくれたおかげで助かったよ……、君は…あの事を後悔してるのかい?」

ヴィクトーがそう尋ねた時、タオの瞳が揺れていた。
しばらくの沈黙の後、ようやく口にしたのはその問いの答えでは無かった。

「ボクは自分の命をかけて事を成し終えたら人生はそれで終われると思ってました。
でも浅はかでした。
死よりも恐ろしい先があった…。醜い事には果てが無いです」

それきりタオは黙り込んでしまった。
死よりも先の恐ろしく果て無く醜いものとは何だろうか。
その言葉で、何か口にできない重いものを彼が抱えていることだけが分かったのだった。

「君には安静が必要だ。暫くは何も考えず傷を癒す事に専念すると良い。君がここに居ると学院には伝え」
「必要ないです!」

学院と言う言葉が出た途端、タオが血相を変えて声を荒げた。驚くヴィクトーに言い繕う様にタオは言葉を連ねた。

「ああ、いえ、すみません。お、お願いします」

どうせもう知ってる。学院長が自分をここに送り込んだも同然なのだから。
タオはその言葉を飲み込んだ。

ヴィクトーは、タオの身体の傷も酷いが心の傷がもっと深いと感じていた。
少し疲れた様子のタオをベッドに横たえるのを手伝い終えるとヴィクトーはそっと席を立った。



「……ごめんなさい」

ドアを出て行こうとしたヴィクトーの背後で今にも消え入りそうな声がした。
振り向くと腕で目元を隠すタオがひっそりと忍び泣いていた。
だがその言葉と涙の意味をヴィクトーは本当の意味で今は知る事は出来ないだろう。

ヴィクトーが部屋を出るとエリックが心配そうな顔で壁から身を起こし、ヴィクトーの元に駆け寄った。

「タオさんはどうですか?」
「大丈夫。今はずいぶん落ち着いてる。だが…彼はまだ何か、俺たちに隠していることがあるみたいだ。まあ、急ぐ事はないさじっくり静養させてやろう。
幸い家はデカいし大家は金持ちだ!」

「ゴホッゴホッ!」

咳払いがして顔を上げるとエルネストが憮然とした顔で二人を見ていた。

「私がそんなに金を持ってるように見えるかね!」
「見えます」

ヴィクトーもエリックも即答だった。



それから間も無くタオは雨の合間の晴れ間を見つけては、外へも出られるくらいに回復していた。
この日はタオを連れてヴィクトーとエリックは新市街のカフェへまでの道のりを散策に出た。
少し怯えた様子のタオの歩みに合わせた散歩は、ゆっくりと、今まで行ったこともない細い路地を選んで歩いた。
着いたカフェはヨーロッパのカフェのようなオープンスタイルの小洒落た店だ。
この小さな街の中にいると本当にヨーロッパにいるような錯覚に陥るから不思議だった。
街を少し外れると、米の田んぼが広がり、ジャングルがあり、河が悠然と流れ、水牛が行き交う牧歌的な東南アジアの町が広がっているのだ。
そこからこちら側を見れば、この新市街はまるで蜃気楼のようだ。

三人は心地良さそうなテラス席を選んで腰を下ろした。
正面の公園に茂る樹木がかろうじてここはハノイなんだと思わせてくれる。

「珈琲の前に、僕その公園ちょっと覗いてみたいな」

そわそわと席を立つエリックにヴィクトーが行ってくると良いよと笑って自分は新聞を開いて早くも寛いでいた。

「なら、ボクも一緒に行ってきます」

今の自分ではエリックを守ってやるどころか足手纏いになるかも知れないが、阿片窟での出来事を思えば、タオにはエリックの危うさが心許なかった。
もしも自分に弟がいたなら、こんな感じなのかもしれないと思えるのだった。

「ありがとう。タオ、頼む」

そんな気持ちを察してヴィクトーがタオにエリックを託していた。
二人が連れ立って公園に入っていく姿に目を細めながら、運ばれて来た珈琲を口に含んだ。
新聞に目を落とすと、ヴェルサイユ協定締結と言う文字がデカデカと一面を飾っていた。
第一次世界大戦が終結し、敗戦国となったドイツには1320億マルク(200兆円)の賠償金が課せられたという記事だった。

「こんなの、払える訳がない!敗戦でドイツはボロボロなのに!」

ヴィクトーはその巨額な賠償金に憤慨し、咄嗟にそう口走った時、一人の男がヴィクトーの背後から新聞記事を覗き込む気配があった。

「フランス人もイギリス人も意地悪ですねえ」

ヴィクトーを見ればフランス人かイギリス人だと想像はつくのに、大胆な物言いをするものだと、ヴィクトーは怪訝な顔で振り向いた。

「これは失礼、しかしココがフランス領で良かったですね。もしドイツ領ならこんなにのんびりと朝から珈琲なんて飲んじゃあいられませんからねえ!」

男は皮肉たっぷりに、ドイツ訛りのフランス語で話しかけてくる。
敗戦の腹いせに絡まれているのだと感じたヴィクトーは適当にあしらう事にした。

「生憎、俺は政治に興味はなくてね。昔の物に固執ばかりしている男なもので、君の話し相手にはならんよ」

「貴方、ヴィクトー教授だ。そうだろう?」

男はそう馴れ馴れしく言いながら、ヴィクトーのテーブルに同席して来た。
軍服を着崩した姿はまるで不良軍人のようだった。
ドイツ人らしい頑丈そうな顎に笑っような大きな口は、ライを思い起こさせたが、その目の輝きがまるで違う。
淀んだ河に鈍い光を宿している。そんな目だった。

『極東学院とヴァチカン。そしてドイツの軍人が鞄の中身を狙っている』そう聞かされていた事を思い出す。
ヴィクトーの背を、嫌な汗が流れていた。
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