化け物の棺

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青嵐

脱出!

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季節外れの白い木蓮の花が咲いたと言って、さっき道女がそのひと枝をシュアンの部屋へと届けてくれた。
花瓶に飾られた開き掛けの木蓮はまだ男を知らない乙女のような楚々とした風情で若々しく芳しい香りを仄かに仄かに漂わせていた。
さっきから表情が優れなかったシュアンに漸く微笑みが溢れた。
今朝早くに危なっかしい兄のライが不穏なことを告げて去っていた事がどうにもシュアンの頭と心を重くしていた。

何事もなければいいけれど…。

そんな事を考えながら、開きかけたばかりの木蓮を見つめていた時だった。
不意に枝が小刻みに震え始め、やがてその純白の花弁がひとひら、またひとひらと床に散ってしまった。
シュアンが驚いて見ている間にも、木蓮は枝ごとポキリと折れてあっという間に床の上で枯れ枝になり果ててしまったのだ。

シュアンの体に震えが走る。
幾度となく感じた事のあるあの奇妙な感覚だ。
視界が暗くなり、耳が塞がれたように物音が遮断され、やがて神の吐息だけが聞こえ始める。
何かの気配に顔を上げると、その頭上にはシュアンだけに見える美しい精霊の姿が光を纏って現れる。
皆に言わせるとこれを神おろしなのだと言うが、シュアンにはもっと自分に近しい存在に感じるのだ。
精霊の紫に濡れた瞳がじっと悲しそうにシュアンを見つめ、それが不意に無数の蝶となって舞い上がった。
窓から中庭へと一斉に飛んで行く蝶の群れに導かれるように、シュアンの脚は勝手にそれを追いかけていた。

これは何の暗示?
ライが危ないの?
それとも、あの人が…、
あの外国人が私を呼んでいる?




「シュアン、お茶がはいりましたよ。
今年の蓮茶は良い香りが……シュアン…?」







「ゲホッ!ゴホッ!…っ!」

エリックは闇雲に走っては来たものの八方塞がりだった。
煙がますます激しくなったという事は、火元に近づいているという事なのだが、これではヴィクトーを見つけるどころか、もう一歩も動けなくなっていた。
いつもそうだ、目の前の事に集中になってしまうと理性的に周りを見ることが出来なくなる。
心のまま真っ直ぐに突っ走ってしまうのだ。ヴィクトーの事となると尚更だ。
逃げて行く人の流れと逆に進んでいるのはエリックだけだ。
煙で目も霞む。喉もひりつく。ずっと走って来た足が言う事をきかない。
エリックはその場にグズグズとしゃがみ込んでしまった。

「ヴィクトー…!ケホケホっ…!ごほ…っ!」

エリックがもうダメかと思った時だった。煙の中を紫の蝶が群れを成して飛んで行く不思議な光景に出会した。
あまりにも幻想的なその光景は死ぬ間際に神の見せた幻影なのかと思うほど。
だが幻影はそれだけでは無い。その蝶を引き連れるように歩いて行く人影があったのだ。
見間違いかとエリックは霞む目を擦り目を凝らす。
長い黒髪を靡かせ、こんな状況の中でも淀みのない歩みで歩いて行く。その姿はまるで本当に神に守られてでもいるかのように美しい。

自分はその人を見たことがある。
ヴィクトーの心を占めているあの紫の蝶の人。
あの美しい人によく似ていた。

「……待って!待って下さい!…僕も……ケホッ!連れて行って…!ヴィクトーの所へ…」

何故かその人について行けばヴィクトーに会える気がした。
もう一歩も進めないと思っていたのに、エリックの脚はその人に吸い寄せられるように後を追いかけていた。





早くここから立ち去らねばならないと言うのに、ライは咄嗟にヴィクトーに向かって走り出していた。
二人の上に容赦なく火だるまになった大きな垂れ幕と焼けた窓枠とが炎を噴き上げ落下し、二人はその下敷きになってしまった。
だがその瞬間、燃え盛るそれらを火の粉を散らしながら勢いよく跳ね除けるライがいた。

「でぇぇぇい!!!」

ぐったりとなったヴィクトーを垂れ幕の下から引っ張り出すと、額から強か血を流し、意識朦朧となっていた。

「先生!マルロー教授!しっかりしねえかっ!なんでアンタがこんな所にいるんだ!」

その声に、咳き込みながらも逃げ惑う人々の誘導をしていた兵士がライの存在に気がついた。

「お前…青嵐…っ!!」

兵士数人がライを捕まえようとこちらへと走ってくるのが見えた。
ライは渾身の力を振り絞ってヴィクトーを背負って逃げ出した。

「くっそ!!予定外のお荷物だ!!オイ!アンタ生きてるのか?!」

行く手を阻むのは煙と炎と兵士達。視界の悪い中、ライの目が懸命に退路を探した。
他の皆んなは無事に逃げただろうか。
やり遂げた後、ひと所に集まるのはかえって危険だ。そのまま旧市街に其々散会する事になっていた。
ライ一人ならなんとでも身を隠せるだろうが、背中の男が一緒となると何処へ逃げ込めば良いだろうか。
こちらも八方塞がりだった。

「ゴホゴホ…っ!」

とうとうライが膝を折りそうになった時、周りの喧騒とは別世界の生き物のように優雅な羽ばたきで一匹の蝶が煙の中から現れた。
熱気に煽られながら蝶はライの周りを飛び回り、こちらへおいでと言うように、ライを導いているようだった。
ライは知っている。
この蝶がいる所には必ずシュアンがいる事を。

近づくなと言ったのに!まさか、まさか…!

新たな不安がライの頭を掠めたが、蝶の導きに身を任せるように最後の力を振り絞って再びヴィクトーを背負ったまま走り出した。
他の風景など目には入らなかった。無我夢中でライは蝶だけを追いかけていた。



「……イ…、ライ!!」

夢中で走ったその先で、ライを呼ぶシュアンの声が耳に届いた。
顔を上げると木立の影から目一杯手を伸ばしているシュアンが見えた。いや、シュアンだけが見えたのだ。

「シュアン!」

互いに伸ばした手が繋がった。
シュアンが力強く引くままに身を任せて飛び込むと、ドサリとヴィクトーごと何処か不安定に揺れる場所へと転がった。

「ヴィクトー!!」

エリックがぐったりと投げ出されたヴィクトーに駆け寄ると激しく揺れた。
泥の匂いと水の音。
ライはここが小舟の上だという事に気がついた。
蝶に導かれ知らずに紅河の辺りまで走っていたのだ。
這いつくばったまま顔を上げると、目の前には倒れているヴィクトーとそれに取り縋るエリック、そしてシュアンが見えた。
ライの頭は混乱していた。
本来ならここには居ない筈の、繋がりのない筈の者達がここに集っている。

「…坊ちゃん…まで…?…何でお前らこんな所に居るんだ!」
「詳しい話は後に!今は急いでここを離れないと…!」

シュアンは急いで細長い舵取り棒を操って、四人を乗せた小舟を離岸させ始めた。
その瞬間、茂みの中から煙と一緒に兵士達が数人、川へと吐き出されてくる。

「おいっ!貴様ら!待たんか!」
「ひっ!!」

シュアンから小さな悲鳴が上がる。
一人の兵士が川に浸かりながらも小舟の舳先に手を掛けて来たのだ。
だがむっくりと起き上がったライが咄嗟にシュアンの握っていた舵取り棒を取り上げ、兵士目掛けて勢いよく振り下ろしていた。
弾けるような音と共に兵士の手から小舟が離れ、川へと仰向けに投げ出されて水面に浮かんだ。
すんでのところで難を逃れた小舟は何か喚き散らしている兵士達を尻目にそのまま対岸に向けて滑り出して行った。

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