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青嵐
光と影の境界
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「エルネスト!何で親父の鞄なんか持ってきたんだよ!」
ヴィクトーとエルネストが騒々しく後部座席に乗り込んで来た。
ヴィクトーは肩からルイの鞄を下げているエルネストに顔を顰めた。
「だって家に置いておくのは怖いじゃ無いか!留守宅を狙ってこの前のような賊が侵入してくるかもしれん!」
「いや、逆でしょう!今から我々は人混みに行くんですよ?家の方が安全だ!」
「私がしっかり肩にかけておればいいんだろう?この方が落ち着くのだよ」
「まったく強情なじいさんだな!ほら、もっと奥まで詰めて下さい!俺が座れんでしょうが!」
「聞き捨てならないね!じいさんとは誰のことだ!」
二人が後部座席を占拠したということは、必然的にエリックはタオの隣の助手席だ。
早くも珍道中の予感にエリックとタオは苦笑いの顔を見合わせていた。
道中、エリックはこのタオ青年と当たり障りのない会話を交わしたが、やはり別段変な素振りもなく、至って好青年と言えた。あの時感じた違和感はいったい何だったのか。
ただタオに対しての妙な緊張感はこの外出で少し薄らいだ気がした。
ハノイの街並みは不思議な風景だった。
ヨーロッパの街並みにアオザイを着た女性や漢服の男たちが闊歩している。
そうかと思えばスーツのジェントルマンや軍服の男達が歩いていたりと、エブラール邸の中だけでは感じられない活気が漲っていた。
エリックはハノイはもっと民族的で牧歌的な営みがあるものと思っていたが、まるで本当にフランスやイタリアに来ているようで驚いた。
何の不自由も感じられない。エリックはその快適さが返って不自然にも感じるのだった。
最初に腹ごしらえしようとエルネストが皆を連れてきたのは立派なホテルだった。
「どうだ!ここは美しいホテルだろう?1901年に建てられたメトロポールハノイだ。四、五年前にはここで映画も上映されたんだよ!かの有名なシンガポールのラッフルズホテル並みの格式高いホテルを目指しているのさ」
エルネストが自分が設計したわけでも無いのにはしゃいでいるだけあって、周りを見れば懐に余裕のある人々が華やかに集っては虚構のフランスを謳歌していた。
ホテルのレストランで出された朝食はサラダと懐かしいタルティーヌだった。
この所、ニョクマムづくしだったこともあって、エリックは懐かしい料理に心が和んだ。
食後には最近ハノイでも流行り始めた珈琲を頂いた。
ヴィクトーもエリックもたかだかその珈琲一杯で、異文化の交雑を目の当たりに体現した気持ちになっていた。
「なかなか美味いだろう?異国で味わう珈琲も!この後はオペラハウスを見に行こう!それから見事なネオゴシック様式のハノイ大教会も一度は見るべきだな。それから、それから、」
これではまるで建築物の観光案内だと言うヴィクトーの呟きに、エリックは「たまにはこう言うのも良いですね」と笑った。
散々街中を巡り、日も少し傾いた頃、観光に飽きた一行に、タオが最後に何処か行きたい所はあるかと尋ねた。
一行を見渡すとエルネストはおねむ。ヴィクトーは疲れた顔をしていたが、一人元気にエリックだけが手を上げた。
「はい!はい!僕、市場に行ってみたい!」
◆◆◆
一行は旧市街にあるドンスアン市場に連れてこられた。
そこは旧市街というだけあって、今まで見てきたヨーロッパ調の街並みではなく、長い中国支配の色濃く残ると言うよりも、中国そのものの光景だった。
雑な煉瓦の石積みはあちこち綻び、天幕が張られた露店がならぶ通りは入り組んでいて、現地の人々でひしめいていた。
理解出来ない言葉で物売りの声と値切る客の声が飛び交い、道端で麺を啜ったり、年代物のハサミで散髪をしたりしている。
肉が丸ごと店先に吊るされ、色とりどりの提灯が軒下を彩る。
薄暗い路地、お世辞にも綺麗とは言い難い人々の衣服。
貧しさの滲むその場所は、今日見てきた何処よりも活気を帯び生き生きとした人の営みを感じることができた。
これが同じハノイ。
フランスはこの国を本当に手に入れたんだろうか。仮住まいをさせて貰っているだけではないか?
ヴィクトーとエリックはそんな錯覚に陥っていた。
現地の人々の暮らしがある旧市街とフランスの支配を知らしめるために作られたフランス人居留地の立派な新市街。
両者の分断がここに目に見えて横たわっていた。
「わあ、綺麗!」
エリックは花屋の店先のダイナミックな花束の陳列に目を見張る。刺激的な香りに誘われてもっと奥へと市場を進むと、口が開いた袋から溢れんばかりのスパイスが顔をのぞかせている。
おもちゃだと思ったのはお菓子だったり、見たこともないフルーツが色鮮やかに並んでいたり。
或いは笊に盛られた芋虫や大きなゴキブリにエリックは卒倒しそうになったりもした。
これは食べるのかとヴィクトーが尋ねると、「そうだ」とカタコトのフランス語で返された。
ヴィクトーが「現地の人もフランス語を話すのかい?」とタオに尋ねると、少し口をつぐんでから「フランス語教育が人民の義務として課されていますから」と苦く笑った。
何処の植民地もそうだ。占領国の言葉が彼らにとっての新しい母国語になるのだ。
ヴィクトーとそれを聞いていたエリックは見渡す賑やかな市場の風景が、途端に切ない色を帯びて見えたのだった。
そんな時、市場の一角で騒ぎが起こった。
道端に露店の商品が投げ出され、吊るされた提灯が道に転がり揉めている男達に踏み荒らされている。
「何をする!離せっ!コラッ!離さんかっ!!」
ヴィクトー達が声のする方を見ればエルネストが数人の男達に襲われているではないか!
男達はエルネストが斜め掛けしている鞄を無理やり引っ張り、その鞄に追い縋るエルネストを蹴倒した。
「エルネスト!!」
ヴィクトーもエリックも、そしてタオも血相を変えてエルネストの元へと駆けつけた。
「か、鞄が!ルイの鞄が!引ったくられた!」
ルイの鞄を引っ掴んだ男達が脱兎の如く逃げて行く後ろ姿が狭い路地へと消えていく。
「それより先生は大丈夫なのか?!怪我は!立てるか?エルネスト!」
ヴィクトーは地面に尻餅をついているエルネストを抱き起こしながら、男達が逃げて行った後ろ姿を視線だけが追いかけた。
ヴィクトーの後から追いついたタオがそのまま逃げた男達を追いかけて路地へと突っ込んで行き、その勢いでエリックもタオの後を追いかけた。エルネストで手一杯のヴィクトーが焦ってエリックの背後から叫んだ。
「ダメだ!エリック!待て!行くんじゃない!!」
ヴィクトーとエルネストが騒々しく後部座席に乗り込んで来た。
ヴィクトーは肩からルイの鞄を下げているエルネストに顔を顰めた。
「だって家に置いておくのは怖いじゃ無いか!留守宅を狙ってこの前のような賊が侵入してくるかもしれん!」
「いや、逆でしょう!今から我々は人混みに行くんですよ?家の方が安全だ!」
「私がしっかり肩にかけておればいいんだろう?この方が落ち着くのだよ」
「まったく強情なじいさんだな!ほら、もっと奥まで詰めて下さい!俺が座れんでしょうが!」
「聞き捨てならないね!じいさんとは誰のことだ!」
二人が後部座席を占拠したということは、必然的にエリックはタオの隣の助手席だ。
早くも珍道中の予感にエリックとタオは苦笑いの顔を見合わせていた。
道中、エリックはこのタオ青年と当たり障りのない会話を交わしたが、やはり別段変な素振りもなく、至って好青年と言えた。あの時感じた違和感はいったい何だったのか。
ただタオに対しての妙な緊張感はこの外出で少し薄らいだ気がした。
ハノイの街並みは不思議な風景だった。
ヨーロッパの街並みにアオザイを着た女性や漢服の男たちが闊歩している。
そうかと思えばスーツのジェントルマンや軍服の男達が歩いていたりと、エブラール邸の中だけでは感じられない活気が漲っていた。
エリックはハノイはもっと民族的で牧歌的な営みがあるものと思っていたが、まるで本当にフランスやイタリアに来ているようで驚いた。
何の不自由も感じられない。エリックはその快適さが返って不自然にも感じるのだった。
最初に腹ごしらえしようとエルネストが皆を連れてきたのは立派なホテルだった。
「どうだ!ここは美しいホテルだろう?1901年に建てられたメトロポールハノイだ。四、五年前にはここで映画も上映されたんだよ!かの有名なシンガポールのラッフルズホテル並みの格式高いホテルを目指しているのさ」
エルネストが自分が設計したわけでも無いのにはしゃいでいるだけあって、周りを見れば懐に余裕のある人々が華やかに集っては虚構のフランスを謳歌していた。
ホテルのレストランで出された朝食はサラダと懐かしいタルティーヌだった。
この所、ニョクマムづくしだったこともあって、エリックは懐かしい料理に心が和んだ。
食後には最近ハノイでも流行り始めた珈琲を頂いた。
ヴィクトーもエリックもたかだかその珈琲一杯で、異文化の交雑を目の当たりに体現した気持ちになっていた。
「なかなか美味いだろう?異国で味わう珈琲も!この後はオペラハウスを見に行こう!それから見事なネオゴシック様式のハノイ大教会も一度は見るべきだな。それから、それから、」
これではまるで建築物の観光案内だと言うヴィクトーの呟きに、エリックは「たまにはこう言うのも良いですね」と笑った。
散々街中を巡り、日も少し傾いた頃、観光に飽きた一行に、タオが最後に何処か行きたい所はあるかと尋ねた。
一行を見渡すとエルネストはおねむ。ヴィクトーは疲れた顔をしていたが、一人元気にエリックだけが手を上げた。
「はい!はい!僕、市場に行ってみたい!」
◆◆◆
一行は旧市街にあるドンスアン市場に連れてこられた。
そこは旧市街というだけあって、今まで見てきたヨーロッパ調の街並みではなく、長い中国支配の色濃く残ると言うよりも、中国そのものの光景だった。
雑な煉瓦の石積みはあちこち綻び、天幕が張られた露店がならぶ通りは入り組んでいて、現地の人々でひしめいていた。
理解出来ない言葉で物売りの声と値切る客の声が飛び交い、道端で麺を啜ったり、年代物のハサミで散髪をしたりしている。
肉が丸ごと店先に吊るされ、色とりどりの提灯が軒下を彩る。
薄暗い路地、お世辞にも綺麗とは言い難い人々の衣服。
貧しさの滲むその場所は、今日見てきた何処よりも活気を帯び生き生きとした人の営みを感じることができた。
これが同じハノイ。
フランスはこの国を本当に手に入れたんだろうか。仮住まいをさせて貰っているだけではないか?
ヴィクトーとエリックはそんな錯覚に陥っていた。
現地の人々の暮らしがある旧市街とフランスの支配を知らしめるために作られたフランス人居留地の立派な新市街。
両者の分断がここに目に見えて横たわっていた。
「わあ、綺麗!」
エリックは花屋の店先のダイナミックな花束の陳列に目を見張る。刺激的な香りに誘われてもっと奥へと市場を進むと、口が開いた袋から溢れんばかりのスパイスが顔をのぞかせている。
おもちゃだと思ったのはお菓子だったり、見たこともないフルーツが色鮮やかに並んでいたり。
或いは笊に盛られた芋虫や大きなゴキブリにエリックは卒倒しそうになったりもした。
これは食べるのかとヴィクトーが尋ねると、「そうだ」とカタコトのフランス語で返された。
ヴィクトーが「現地の人もフランス語を話すのかい?」とタオに尋ねると、少し口をつぐんでから「フランス語教育が人民の義務として課されていますから」と苦く笑った。
何処の植民地もそうだ。占領国の言葉が彼らにとっての新しい母国語になるのだ。
ヴィクトーとそれを聞いていたエリックは見渡す賑やかな市場の風景が、途端に切ない色を帯びて見えたのだった。
そんな時、市場の一角で騒ぎが起こった。
道端に露店の商品が投げ出され、吊るされた提灯が道に転がり揉めている男達に踏み荒らされている。
「何をする!離せっ!コラッ!離さんかっ!!」
ヴィクトー達が声のする方を見ればエルネストが数人の男達に襲われているではないか!
男達はエルネストが斜め掛けしている鞄を無理やり引っ張り、その鞄に追い縋るエルネストを蹴倒した。
「エルネスト!!」
ヴィクトーもエリックも、そしてタオも血相を変えてエルネストの元へと駆けつけた。
「か、鞄が!ルイの鞄が!引ったくられた!」
ルイの鞄を引っ掴んだ男達が脱兎の如く逃げて行く後ろ姿が狭い路地へと消えていく。
「それより先生は大丈夫なのか?!怪我は!立てるか?エルネスト!」
ヴィクトーは地面に尻餅をついているエルネストを抱き起こしながら、男達が逃げて行った後ろ姿を視線だけが追いかけた。
ヴィクトーの後から追いついたタオがそのまま逃げた男達を追いかけて路地へと突っ込んで行き、その勢いでエリックもタオの後を追いかけた。エルネストで手一杯のヴィクトーが焦ってエリックの背後から叫んだ。
「ダメだ!エリック!待て!行くんじゃない!!」
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