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青嵐
訳ありな二人
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水田に月明かりを浴びた黒い塊が蠢いている。
蛙の声が大合唱をしているその中を、巨大な毛むくじゃらな生き物は、水田から何かを頻りに引き抜いてはむしゃむしゃと食べていた。
良く見ればそれは人だ。
食われているのは全てフランス人なのだ。
エリックは悲鳴を上げそうな口を手で塞いだその刹那、そいつはエリックに気付いた。
顔の半分もある血走った目が瞬きもせずに見開かれ、並んだ牙の隙間から肉片混じりの血をボトボトと垂れ流しながら顔を上げたのだ。
そしてそいつの真っ黒な長い爪がエリックに向かって伸ばされ、とうとう捕まえられてしまった。
鋭い爪がエリックの身体を握りつぶし、肉を抉り、恐怖と痛みで息も出来ないエリックの周りをオウムが飛び回っている。
「シネ!」
「しね!」
「死ねーー!」
景色はグルグルとマーブル状に渦巻いてエリックの頭に押し入って来る。
止めろ!止めろ!やめてー!
「来ないで!!」
「エリック!」
ヴィクトーの声に覚醒したエリックはビクリと体を震わせ叫び声と共に目を覚ました。
知らぬ間に目尻から涙が溢れていた。
震える指先がそれを拭うと、魔法が解けたように、漸く現実に戻ってこられた。
「ぼ、僕は…っ、」
目の前に見えるヴィクトーに目を凝らす。指先が震えながらヴィクトーへと伸ばされた。
「エリック、大丈夫だ。君はバルコニーで倒れていたんだよ。怖い夢でもみたのかい?」
優しく顔を覗き込んでくるヴィクトーにエリックは心底安堵した。
彼を求めてゆるゆるとその首に腕を回した時だった。
その向こうにあの化け物を見つけて再びその顔が恐怖に引きった。
「!!!…ヴィクトー!ヴィクトー!あの化け物が!フィ・ーフォンが…っ!」
そう叫んでヴィクトーの首に必死でエリックはしがみついた。
そこで一喝、ヴィクトーが背後の化け物に向かって怒鳴った。
「エルネスト!エリックを怯えさせないでくれよ。そんなもの早く脱げ!」
エルネストは何を思ったのか、フィー・フォンの被り物を纏い、牙だらけの口をパクパクと動かして遊んでいたのだ。
「いやすまんすまん、エリック。大丈夫かい?
これは偽物だよ。お祭りの時に使う被り物のフィー・フォンだ。庭に連中が脱ぎ捨てて行ったんだろうな。
いや、しかしお祭り用の被り物にしてはなかなか大迫力だ!」
「全く、そんな事に感心している場合ですか。賊に入られたって言うのに。その連中ってのは何だ?…ほら、エリック起きられるか?」
ヴィクトーはエリックを甲斐甲斐しく抱き起こしながらエルネストに苛々しく尋ねた。
「いや、すまんすまん。ちょっと面白くなっちゃって。
私の書斎を荒らして行ったと言う事は、「青嵐」の奴らだな」
「青嵐?」
「私の都市計画を邪魔ばかりする輩だ。フランスに敵対するテロ組織とでも言うのか。フランスからの植民地支配に意を唱えて騒ぎばかり起こしている奴らだよ。さっき私が言っていたオウムの主人が青嵐の頭目だった。大方その鞄を取り返しに来たのかもしれないが、今夜は君の部屋にあって良かったよ」
鞄の中身を知るのがやはり最善策のようだった。
その日からヴィクトーはいつにも増して精力的に父の残したものを徹底的に熟読し、パズルのような膨大な遺跡の資料を読み漁っていた。
時には極東学院にある大きな図書館に通い詰めたり、ハノイに着いてからエブラ一ル邸と極東学院を行ったり来たりの毎日だ。
助手とは名ばかりの自分にできる事はないものかと考えて、今度はエリックが彼のために何かを作ってやりたいと思うようになっていた。
相変わらず毎日の食事はニョクマムと言う魚醤を使った料理が出されて来たが、少しずつではあるがエリックもその味に慣れつつあった。
今夜もヴィクトーの机には遅くまで灯りがともっていた。
エリックはヴィクトーの邪魔をしないように足音を立てずに一階の台所へと降りて行った。
もう夜半だと言うのに台所からは灯りが漏れ、人の気配が漂っている。不思議に思って聞き耳を立ててみるとヒソヒソと低い囁き声がして、エリックは扉の影から中を覗いた。
「…っ!、もっと優しくして下さいよ!まだ痛いんですから」
そう言っているのはあのタオと言う青年だった。掌には何か鋭いもので切ったような赤い傷跡が付いて、熊のように厳つい男が太い指で包帯を巻いてやっている。
「痛いんですから、もっと優しくして下さいよ」
「文句を垂れるな。ヘマをしたのは誰だ。それより、例のものは何処だ」
「あのフランス人が手放さなくてチャンスが無い」
ヘマ?あのフランス人?
例のもの?
何の話をしてるんだろう?
エリックはもっと聞きたいと身を乗り出したが、迂闊に足音を漏らしてしまった。
台所の二人はまるで悪巧みを聞かれたように素早く口をつぐんでエリックに振り向き、タオは殊更にいつも通りの穏やかな笑みを向けていた。
「おや?エリックさん、どうしたんですか?こんな夜中に。お腹空いたんですか?何か作って持っていきましょうか?」
それが作り笑いであるとエリックは感じたが、自分も同じように作り笑いを浮かべていた。
「い、いえっ、フルーツが急に食べたくなって…」
台所の調理台に置かれていた赤いフルーツが目に入り、咄嗟に口をついて出る。
同時にタオの隣の熊男にも目がいってしまうと、それに気がついたタオが熊男を見上げた。
「あ、ああ。彼?彼はここの料理番でね、ライと言うんですよ。何かリクエストがあれば彼に申し付けると良いですよ?」
「い、いつも貴方が食事を作ってくれているんですか?」
そうおずおずとライという男に話しかけてみると、男は何故か不躾にエリックの全身を眺め回してフンと、鼻先で笑った挙句、ぞんざいに「そうですよ」と流暢なフランス語で返して来た。
見るからに異国の男だ。東南アジアとも中東アジアとも中国とも違う。ましてやヨーロッパ系とも違う不思議な印象の男は、料理番という癖に、何処かきな臭い雰囲気の男だった。
高い鷲鼻に目ばかりギラギラしていて大きな口元が常に笑っているように見える。その不敵な雰囲気が調理場には不似合いに思えた。
男はぶっきらぼうにフルーツの乗った器を掴んでエリックの胸元に突き出した。
「ランブータン。良かったらお部屋で召し上がって下さい。坊ちゃん」
それを受け取ると、エリックは何故か急かされるような気持ちになって台所を飛び出していた。
この慇懃な物言いの料理番と、あの振り向いた時の二人の異質な雰囲気が、言い知れぬ違和感となってエリックの胸をざわつかせていた。
蛙の声が大合唱をしているその中を、巨大な毛むくじゃらな生き物は、水田から何かを頻りに引き抜いてはむしゃむしゃと食べていた。
良く見ればそれは人だ。
食われているのは全てフランス人なのだ。
エリックは悲鳴を上げそうな口を手で塞いだその刹那、そいつはエリックに気付いた。
顔の半分もある血走った目が瞬きもせずに見開かれ、並んだ牙の隙間から肉片混じりの血をボトボトと垂れ流しながら顔を上げたのだ。
そしてそいつの真っ黒な長い爪がエリックに向かって伸ばされ、とうとう捕まえられてしまった。
鋭い爪がエリックの身体を握りつぶし、肉を抉り、恐怖と痛みで息も出来ないエリックの周りをオウムが飛び回っている。
「シネ!」
「しね!」
「死ねーー!」
景色はグルグルとマーブル状に渦巻いてエリックの頭に押し入って来る。
止めろ!止めろ!やめてー!
「来ないで!!」
「エリック!」
ヴィクトーの声に覚醒したエリックはビクリと体を震わせ叫び声と共に目を覚ました。
知らぬ間に目尻から涙が溢れていた。
震える指先がそれを拭うと、魔法が解けたように、漸く現実に戻ってこられた。
「ぼ、僕は…っ、」
目の前に見えるヴィクトーに目を凝らす。指先が震えながらヴィクトーへと伸ばされた。
「エリック、大丈夫だ。君はバルコニーで倒れていたんだよ。怖い夢でもみたのかい?」
優しく顔を覗き込んでくるヴィクトーにエリックは心底安堵した。
彼を求めてゆるゆるとその首に腕を回した時だった。
その向こうにあの化け物を見つけて再びその顔が恐怖に引きった。
「!!!…ヴィクトー!ヴィクトー!あの化け物が!フィ・ーフォンが…っ!」
そう叫んでヴィクトーの首に必死でエリックはしがみついた。
そこで一喝、ヴィクトーが背後の化け物に向かって怒鳴った。
「エルネスト!エリックを怯えさせないでくれよ。そんなもの早く脱げ!」
エルネストは何を思ったのか、フィー・フォンの被り物を纏い、牙だらけの口をパクパクと動かして遊んでいたのだ。
「いやすまんすまん、エリック。大丈夫かい?
これは偽物だよ。お祭りの時に使う被り物のフィー・フォンだ。庭に連中が脱ぎ捨てて行ったんだろうな。
いや、しかしお祭り用の被り物にしてはなかなか大迫力だ!」
「全く、そんな事に感心している場合ですか。賊に入られたって言うのに。その連中ってのは何だ?…ほら、エリック起きられるか?」
ヴィクトーはエリックを甲斐甲斐しく抱き起こしながらエルネストに苛々しく尋ねた。
「いや、すまんすまん。ちょっと面白くなっちゃって。
私の書斎を荒らして行ったと言う事は、「青嵐」の奴らだな」
「青嵐?」
「私の都市計画を邪魔ばかりする輩だ。フランスに敵対するテロ組織とでも言うのか。フランスからの植民地支配に意を唱えて騒ぎばかり起こしている奴らだよ。さっき私が言っていたオウムの主人が青嵐の頭目だった。大方その鞄を取り返しに来たのかもしれないが、今夜は君の部屋にあって良かったよ」
鞄の中身を知るのがやはり最善策のようだった。
その日からヴィクトーはいつにも増して精力的に父の残したものを徹底的に熟読し、パズルのような膨大な遺跡の資料を読み漁っていた。
時には極東学院にある大きな図書館に通い詰めたり、ハノイに着いてからエブラ一ル邸と極東学院を行ったり来たりの毎日だ。
助手とは名ばかりの自分にできる事はないものかと考えて、今度はエリックが彼のために何かを作ってやりたいと思うようになっていた。
相変わらず毎日の食事はニョクマムと言う魚醤を使った料理が出されて来たが、少しずつではあるがエリックもその味に慣れつつあった。
今夜もヴィクトーの机には遅くまで灯りがともっていた。
エリックはヴィクトーの邪魔をしないように足音を立てずに一階の台所へと降りて行った。
もう夜半だと言うのに台所からは灯りが漏れ、人の気配が漂っている。不思議に思って聞き耳を立ててみるとヒソヒソと低い囁き声がして、エリックは扉の影から中を覗いた。
「…っ!、もっと優しくして下さいよ!まだ痛いんですから」
そう言っているのはあのタオと言う青年だった。掌には何か鋭いもので切ったような赤い傷跡が付いて、熊のように厳つい男が太い指で包帯を巻いてやっている。
「痛いんですから、もっと優しくして下さいよ」
「文句を垂れるな。ヘマをしたのは誰だ。それより、例のものは何処だ」
「あのフランス人が手放さなくてチャンスが無い」
ヘマ?あのフランス人?
例のもの?
何の話をしてるんだろう?
エリックはもっと聞きたいと身を乗り出したが、迂闊に足音を漏らしてしまった。
台所の二人はまるで悪巧みを聞かれたように素早く口をつぐんでエリックに振り向き、タオは殊更にいつも通りの穏やかな笑みを向けていた。
「おや?エリックさん、どうしたんですか?こんな夜中に。お腹空いたんですか?何か作って持っていきましょうか?」
それが作り笑いであるとエリックは感じたが、自分も同じように作り笑いを浮かべていた。
「い、いえっ、フルーツが急に食べたくなって…」
台所の調理台に置かれていた赤いフルーツが目に入り、咄嗟に口をついて出る。
同時にタオの隣の熊男にも目がいってしまうと、それに気がついたタオが熊男を見上げた。
「あ、ああ。彼?彼はここの料理番でね、ライと言うんですよ。何かリクエストがあれば彼に申し付けると良いですよ?」
「い、いつも貴方が食事を作ってくれているんですか?」
そうおずおずとライという男に話しかけてみると、男は何故か不躾にエリックの全身を眺め回してフンと、鼻先で笑った挙句、ぞんざいに「そうですよ」と流暢なフランス語で返して来た。
見るからに異国の男だ。東南アジアとも中東アジアとも中国とも違う。ましてやヨーロッパ系とも違う不思議な印象の男は、料理番という癖に、何処かきな臭い雰囲気の男だった。
高い鷲鼻に目ばかりギラギラしていて大きな口元が常に笑っているように見える。その不敵な雰囲気が調理場には不似合いに思えた。
男はぶっきらぼうにフルーツの乗った器を掴んでエリックの胸元に突き出した。
「ランブータン。良かったらお部屋で召し上がって下さい。坊ちゃん」
それを受け取ると、エリックは何故か急かされるような気持ちになって台所を飛び出していた。
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