化け物の棺

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船上の出会い

洋上のアバンチュール

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ヴィクトーが船出をしたのはマルセイユからだ。
今や帆船から蒸気船へと移り変わって久しく、昨今では四本煙突を誇るオリンピック号やタイタニック号などの豪華客船が脚光を浴びる時代になっていた。
ヴィクトーの乗ったフランス船籍のダルタニアン号も、二本煙突ながら美しい船体の豪華客船だった。
この日、ダルタニアン号はインドシナ航路に乗って、地中海の湾内へと入った。

「地中海に入った途端、カモメがやけに飛んでいるな」

朝食を終えたヴィクトーは、船の甲板デッキでのんびりと新聞を広げて寛いでいた。
柔らかな地中海の晴れた空を忙しく飛ぶカモメを眩しげに眺めていると、サイドテーブルに淹れ立ての紅茶が金縁のカップへと注がれた。

「お昼過ぎにはスエズ運河に入りますから、小さな島々も多くなりますしカモメも先を急いでいるのでしょう」

小綺麗なボーイがその華奢そうな身体をカチッとした制服で包み、ヴィクトーの傍で恭しく接客をしている。
綺麗に切り揃えた栗色の襟足が、しなやかな頸が陽の光に映えて美しく、ヴィクトーは思わずそのボーイに見惚れた。
目元が涼やかで薔薇色を帯びた唇が少女のように愛らしかった。歳はいくつだろうか。
まだ二十歳にもならないだろか。

「スエズ運河が出来たお陰で大分航海が短縮されたね、以前はわざわざアフリカの希望峰を巡ってからでないとインドシナには行かれなかった」
「はい、左様でございますね、その当時はインドシナへは四ヶ月かかったそうですから」

涼やかで透き通るような美しい声の持ち主だった。

これは…、この感覚は俺のよく知っている感覚だ。

久しぶりの胸の高鳴りと高揚感にヴィクトーの心が沸き立っていた。

「スエズ運河のお陰でそれが二ヶ月で行けるようになったのはやはり画期的だな」

美しい少年を眺めながら口にした紅茶はアールグレイ。ベルガモットの香りが芳醇で、高級そうなカップのせいか、やはり本当に高級な茶葉なのかいつもより美味しく感じる。
いや、彼のお陰だろうか。

「今はイギリスがスエズ運河の持ち株も多いですが、元はと言えばフランス帝国が建設して下さったお陰で世界が随分近くなりました」

そう卒なく答えたボーイは軽く会釈をして下がろうとしていた。

ああ、そうか。
この感覚はアバンチュールの予感だ。

ヴィクトーは思わず彼を引き止めていた。

「俺がフランス人だからってそんな風に気を使わなくて良いよ。
それより君は、この船室の専属かい?」
「いえ、この船室と言うより、このフロア付きでございます」
「そう、俺の船室付きになってくれたら良いんだが…」

そう言うと、ヴィクトーはボーイの胸元の小さなポケットにこっそりとチップを差し込んだ。
少しばかり奮発しすぎたのか、ボーイは戸惑い気味にヴィクトーを見てペコリと頭を下げた。

「あ、ありがとうございます、ムッシュ…」
「マルローだ。ヴィクトー・マルロー、君は?」
「エリックと言います」
「そ、さっき点呼でズラリとボーイが並んでいるのを見たが、君が一番目立っていた。随分と綺麗な子がいるなと眺めていたら、今お茶を淹れてくれたのが君だった」
「お、恐れ入りますムッシュ・マルロー」
「ヴィクトーだ。俺のことはヴィクトーでいい」

そう。これが彼の悪い癖だった。こうやって美しい男を見ると少年だろうが中年のオヤジだろうが、誰かれ構わずに口説き文句を言いたくなってしまう。
そしてあわよくば…。
そんな事を繰り返して愛人がどんどん増えて行くのだが、フランスを出るときにそう言ったしがらみは全て振り捨てて来た筈だ。
自ら進んでまたおかしなしがらみを持とうとするのはやはりだらしないこの男癖の悪さゆえ。
少しの反省もなくいつも同じことを繰り返す。
こんな海の上ですら、そう言う衝動を抑えられないと言うどうしようもない男なのだ。
この時エリックがヴィクトーのことをどう思っていたのかは分からないが、チップが効いたのか、それともヴィクトーと言う男に少しは興味があったのか、その日からエリックは何かと気を遣ってヴィクトーの船室を覗くようになっていた。
本当なら、ヴィクトーはこの長い船旅の間に、過去の手記を纏めてみようと思っていた。
十二歳だった彼の身に起きた事をできる限り詳しく、覚えている限りを。
そうでなければこの旅の意味がない。そう最初は意気込んでいたのだが、早くもこうして脱線していた。

あの紫の蝶と訣別するのか、それともやはりそれは出来ないのか。
あの地に戻れば、それが何者なのか分かるのか。
それらは漠然とするばかりで、ヴィクトーはエリックを追いかける事に逃げていた。

「エリック、そろそろ仕事が終わる時間だろう?交代制だったよな」

フルーツの盛られた皿を運んできたエリックの肩を捕まえてヴィクトーは下心をチラつかせながら尋ねてみた。

「どんな御用でしょうか。なんなりとお申し付けください。私の就業時間などお気になさらず」

優等生の答えを返すエリックは、ヴィクトーの誘いを分かっていてはぐらかしているのか、それとも本当に分かっていないのか。

「君と仕事抜きで呑んで見たいんだ。もう少しだけ君の事を知りたい。ダメかい?」

どうだ。これなら鈍感だったとしても分かるだろう。

エリックは少し戸惑いを見せたが、小さく頷いた。
その戸惑いの表情が、ヴィクトーの誘いの意味を理解していると感じ、ヴィクトーは内心やったと小躍りしていた。

「二人でシャンパンでも空けようか」

ヴィクトーは大胆になって、エリックの肩を抱いて引き寄せると、エリックは目元を赤らめて頷いた。
その触れれば落ちそうな花のような風情が、ヴィクトーの心を更にくすぐった。
それから一時間後、エリックは私服でシャンパンとグラスを携えてヴィクトーの船室を訪ねて来た。
ヴィクトーは満面の笑みで船室のドアを開いてエリックを中へと招き入れていた。

「やあ、いらっしゃいエリック」

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