幻の背《せな》

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謎の客

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撫川はそう言われてもピンとこなかった。頭の中で沢山いる客の顔を猛スピードで検索し、鹿島の事務所で見かけた連中の顔も検索したみたが思い当たらない。
当惑の表情で男に尋ねた。

「すみません、物覚えが悪くて…あの、どちらでお会いしましたか?」

そう尋ねると、男は急に撫川の手を取ると聞いたことのある曲を口ずさんで踊り始めた。その瞬間、思い当たることがあった。

「ぁ…っ、貴方、テキーラの…!」

クラブで撫川と踊った男の事が急に脳裏に浮かんだ。男は人好きのする笑顔でニッと笑う。

「思い出してくれたかい?あの時は残念だったよ。今日はあのおっかない彼氏はいないんだろうね?」

男は冗談まじりに店の奥を覗きこむ。撫川の脳裏にあの夜の記憶が蘇った。
テキーラを貰い一緒にフロアで踊った事。
久我を置き去りにして酔っ払ってこの男とキスをした事。
あとは何を話したかなんて覚えてなかった。
途端に撫川の頬から耳から熱い朱が走る。それは恥じらいでは無く羞恥の熱だった。

「あ、あの夜は…あの夜はすみませんでした。僕、酔っ払っちゃって…そんなつもりも無くて…その、」
「寂しいこと言わないでくれよ~、いいじゃない。お互いあの時はそんな気分だったんだからさ。ぼくはその先もしたかったんだけどね。それより、ここ君のお店なの?」

男は撫川の手を握ったままだ。引っ込めようとするとその胸元に強く引き止められて手の甲にキスをされた。撫川はすぐさま手を引っこめようとした。

「は、離して…っ、」

身を強張らせた撫川を見て、男は苦笑すると漸くその手を離した。

「今日はガードが硬いんだね。ぼくはまた会いたいなぁって思ってたのに…君、可愛いし綺麗だし」

こんなに堂々と口説いてくる相手は初めてだ。男に感じた恐怖心が撫川の中で滑稽さに置き換わる。

「口のうまい人は信用しません。お花。買いに来たんでしょ?ガーベラ、何色がいいんですか?」

さらっと切り替えられて男は残念そうな顔で肩を窄めた。

「店に飾る花をね、さりげない感じで作ってくれない?赤いガーベラが良いな」
「お店?どんなお店をなさってるんですか?合わせますよ」
「タトゥーだよ、ぼくタトゥーの彫り師なんだよ」

ショーケースの中から花を選ぶ撫川の手が一瞬止り、再び動き出す。

「……へえ、…そうなんですか。もっと、妖艶な花の方が合いませんか」
「最近は若い女の子が小さいタトゥーをいれに来たりするからさ、可愛い花の方がウケるかと思って」

男はそう言いながら、物珍しそうに狭い花屋の店内を花の品定めをする様に見歩いている。
撫川はその声を背中で聞きながら手慣れた様子で花束を作っていく。
赤のガーベラをベースに同系色でシックにまとめたブーケが出来上がる。

「これでいかがですか?」

差し出されたブーケに男は満足そうに笑ってそれを受け取った。

「君、センス良いね!気に入ったよ。これから贔屓にさせてもらうよ」
「お気に召して良かったです」

慣れた社交辞令に形骸的な微笑みを浮かべながら電卓に金額を提示した。
そんな撫川の頬に男はスッと手を充てがうと、二、三度確かめるように撫でた。

「良い肌質をしているね。きっとタトゥーが綺麗に入るよ。良かったらお店にどうぞ?…はい、これお店の住所」

そう言うと男は撫川の唇に黒い名刺を差し入れ、札をトレイにヒラリと置いて店の外へと颯爽と出て行った。

なんてキザな野郎だ!
久我さんとは正反対な人だな。

ありがとうございますも言えず、唇に差し入れられた名刺を引き抜いてそれに視線を落とした。
黒い名刺には赤で店の名前と男の名前らしきものが印字してあった。
『nostalgia tattoo』ASANO

あ、さ、の?浅野?
あの人の名前かな…。

裏の地図を見れば本当にこの店のすぐ近くのマンションだった。
顧客が増えるのは有り難かったが、厄介な客の出現に内心撫川の気は重かった。
何故だか無性に久我の顔が脳裏にチラついた。
この場の空気を入れ替えたくなって、店のドアを開けると電柱の影に背の高い男の影があることに気がついた。

あの人だ!

撫川の表情が俄に華やぎ、咄嗟に電柱へと走り寄り、親しげな様子でその腕をキュと掴んだ。

「久我さん!随分とお久しぶり、」

撫川の上げた笑顔が強張った。
人違いだった。

だがそれは警察関係者の臭いがした。
相手の腕から手を離すと撫川の顔はみるみる落胆へと変わっていった。

「なんだ、久我さんのお仲間か。見張りご苦労様ですね。生憎何にも起こりませんが…、ところで久我さんはお元気で?」
「み、見張りだなんて、嫌だなあ…。護衛だと思って下さいよ」

やはり男は刑事だったらしく、バツが悪い様子で頭を掻いてた。

「久我は今、あいにく謹慎中なので、どうぞ僕らの事はお気になさらず、普通にしてくださっていれば良いですから」
「あ、そ。その分じゃどうせ僕の家まで着いてくる気でしょ?言っときますが、マンションの前の道は今夜水道管の工事をするらしいのでお気をつけて、じゃ」

それだけ言うと、撫川はにべもなくスタスタと店の中へと戻って行った。
何故だか撫川の気持ちはささくれ立って苛ついていた。
目についた紫色のアネモネを見てはつまらなそうにため息をついていた。

「…どうせ、久我さんはこの花の花言葉なんて…知らないんだろうな」




「貴方に逢いたいです」そう言ったのは、花とは無関係そうな中年オヤジだった。
小さな町の小さな花屋で久我は柄にも無く花束を買っていた。

「この花の花言葉ですよ。花は同じ花でも色によって花言葉が違ったりするんですよ。これ、イイ人に贈られるんですか?」

店のオヤジが興味ありげな笑顔で久我に尋ねて来た。
なんとなく、紫のアネモネに見つめられている気になって、訳も分からずその花を選んで花束を拵《こしら》えてもらっていた。

「いえ、世話になったお礼にそこの楠木養護園に飾ってもらおうと思って」

職務なのだから、お礼など無用なのだろうが何故かそんな気になって施設からの帰り道、通りすがった花屋へと入って来たのだった。
撫川を知らなかったら、きっとこういう時にはコンビニの菓子折りで済ませていたに違いない。
代金を払う時、ついうっかり領収書をと言いかけた自分が我ながら可笑しかった。



「貴方に逢いたい。か…」

助手席の花束を横目に眺めながら久我は撫川を想っていた。

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