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刺青
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そぼ降る雨の街並みは、黒いカーテンを敷いたように全てを重苦しく包んでいるようだった。
連なる団地の一角、締め切ったカーテンの僅かな隙間から溢れた灯りが、濡れた地面に伸びていた。
灯りの漏れているその部屋では、背を丸めた男が一心不乱にまだ何も知らない無垢な肌へと刺青針を突き立てている。
うつ伏せに寝かされた少年の額には玉の汗。口にはタオルを咥え、切なげに眉根を寄せては呻き声すら立てずに肌を何度も虐める痛みに耐えていた。
「辛いか?」
彫り師の男が言葉少なにその顔を横目で見遣る。
そんな男に少年は黙って首を横に振り、うつ伏せた額を硬い枕の上に埋めた。
肩甲骨の下に針が入れられると、思わずくぐもったうめき声が少年の口から漏れ出し、その背が弓なりに微かにしなった。
「う、ぅ…ッ」
強くなる雨音が室内の唯一の物音だった。
まるで何かの儀式のように、彫り師と少年との無言の対話が続いている。
湿った空気の中に混じる血と染料の匂い。
懐かしい匂い。
愛しい人の匂い。
「こらっ!大人しくしろ!暴れると傷口がデカくなるぞ!」
撫川はハッとした。
明け方、久しぶりにあの夢を見ていると、医務室のドアが突然開いた。
酩酊した上半身裸の男が警察官に連れられてやって来た。
目を凝らすと、肩口の切り傷にタオルを当てた男が隣の寝台に座るのが見えた。直ぐにカーテンが撫川と隣のベッドの間を隔てるように閉められたが、撫川はふと、あの懐かしい匂いを嗅いだ気がした。
分かる者だけが知るあの香り。
きっと、この男は刺青者だ。
その香りは撫川の閉じた痛みを揺り起こした。
「…なんで僕を置いていったんだよ…悠さん…」
撫川の声無き声が、暗く澄んだ夜のしじまに染み入るように溶けて行った。
「何ぃ?カチコミだと?!何処の組のモンだ」
「いえ、カチコミじゃねえんで」
「じゃあ何だ!」
「が、ガサ入れ…?」
とあるシティホテルの一室、女が寝転がっているベッドの上で鹿島は携帯の向こうではっきりしない子分の連絡をイラつきながら聞いていた。
「ガサ入れ?…とは何だ!はっきりしろ!カチコミなのか!ガサなのか!」
「それが…っ、ゴマキの野郎が暴れて騒いでんですよ!倉庫を見せろとか何とかほざいてます!」
「倉庫だぁ?ゴマキ一人がか?!それじゃあガサ入れって訳じゃねえのか!」
「はあ、それが…ぐおっ!テメェ!殺すぞ!!」
携帯の向こうで激しく争う物音と、苦戦している子分の叫びに鹿島周吾は眉間の皺が深くなる。
「ったく!!なんだってんだ!俺は一日も事務所を留守出に来んのか!いいか!お前ら死んでもチャカは使うなよ!分かったな!!」
あんなのでもゴマキは警官だ。そんな奴を相手に拳銃をぶっ放したとあれば、いくら鹿島周吾と言えど収拾はつか無いだろう。
本部のオヤジどもに鹿島興業の子分二人を殺された不始末をネタに嫌味を言われ、たっぷりと小言を貰ったばかりで機嫌の悪かった鹿島は、子分からのしどろもどろな通話をぶった切ると、すかさず違う部屋に待機している若衆へと電話をかけた。
「車直ぐ回せ!帰るぞ!何だか事務所がワケ分からねえ!」
名残惜しそうに纏わりつく女を邪険にあしらい、裸に白いホテルのガウンを羽織っただけと言う姿で鹿島は猛然と部屋を出て行った。
後藤と久我の両名の行動は明らかに職務規定に反していた。
普通なら内偵の後、捜査令状を取ってのガサ入れの筈が中二つすっ飛ばして強引に、しかも単独での強行捜査だった。
それは捜査の範疇ではなく、もはやヤクザの事務所へのカチコミと何ら変わらない。
しかも当然なのだが、ヤクザの事務所で騒ぎとあっては、近隣の人達が警察を呼ぶのは至極当然。何台ものパトカーが赤色灯を回して鹿島興業に集まっていた。
「やってくれたな、二人揃いも揃って。久我は新米だが、後藤さん。アンタはベテランだろう。百も承知だろうが今回は始末書だけじゃ済まんだろうな」
瀬尾は深く静かに怒っていたが、まあ、普段の後藤を知る者は皆一様にまたかと言う表情だった。
瀬尾の前で項垂れる二人の様相は悲惨なものだった。
あちこち服は破れ、髪はぐちゃぐちゃで青痣、擦り傷のオンパレードだ。
瀬尾がその場を離れると、反省したふりの得意な後藤が、自分のしでかしたことに茫然自失の久我の肩に、己の肩を意味ありげにぶつけて来た。
「へへっ、上手くいったな」
「何がですか!オレ達とんでもない事を、」
いつも規律正しく生きて来たと言うのに、全く歯止めが効かなかった自分に久我はただ驚愕だった。
「馬鹿か、見てみろよ」
そう後藤に促されて辺りを見渡すと、負傷したヤクザと警官が入り乱れ、物々しい様相を呈していたが、その中にたたんだ段ボールを持った捜査員達がヤクザ事務所に入っていくのが見えた。
「手順なんざ踏んでたら、いつ倉庫を拝めるか分かったモンじゃねえ。救急車と消防車は早いうちにってな」
「…後藤さんこれ、パトカーですが」
「んな細けぇ事は良いんだよ!これですぐに倉庫が拝めるじゃねえか」
そう言う後藤の顔は随分と愉快そうだった。
後藤は確信犯だった。
ヤクザと派手に揉めれば警察が大挙してやってくる。応援だの令状だの一々打診を待つ必要もない。
こうしてあっという間に捜査令状を持った警察官達が来たのだから効果は絶大だ。
その時だった。
鹿島を乗せた車がごった返しているビルの前へと停まった。中からはガウン姿の鹿島がこの有様を険しい顔で眺めながらゆっくりと降りてきた。
こんな場にあって、こんな格好でも様になる男はそうはいない。
「どう言うことだ!」
そう言う鹿島に捜査員が令状を見せながら近づいた。
「連続刺青殺人事件、並びに矢立カオルの殺人事件に関して倉庫の中に怪しげな物があると言う話を聞いたんが、ちょっと話を聞かせて貰いたい」
「こんなのは違法捜査だ!もし何にも出てこなかったらオタクら、」
そう鹿島が静かに凄んだ時だった。鹿島興業の中から別の捜査員が走り出してきた。
「刺青です!倉庫の中に大量の刺青が…!」
後藤と久我が行くぞと顔を見合わせた。
連なる団地の一角、締め切ったカーテンの僅かな隙間から溢れた灯りが、濡れた地面に伸びていた。
灯りの漏れているその部屋では、背を丸めた男が一心不乱にまだ何も知らない無垢な肌へと刺青針を突き立てている。
うつ伏せに寝かされた少年の額には玉の汗。口にはタオルを咥え、切なげに眉根を寄せては呻き声すら立てずに肌を何度も虐める痛みに耐えていた。
「辛いか?」
彫り師の男が言葉少なにその顔を横目で見遣る。
そんな男に少年は黙って首を横に振り、うつ伏せた額を硬い枕の上に埋めた。
肩甲骨の下に針が入れられると、思わずくぐもったうめき声が少年の口から漏れ出し、その背が弓なりに微かにしなった。
「う、ぅ…ッ」
強くなる雨音が室内の唯一の物音だった。
まるで何かの儀式のように、彫り師と少年との無言の対話が続いている。
湿った空気の中に混じる血と染料の匂い。
懐かしい匂い。
愛しい人の匂い。
「こらっ!大人しくしろ!暴れると傷口がデカくなるぞ!」
撫川はハッとした。
明け方、久しぶりにあの夢を見ていると、医務室のドアが突然開いた。
酩酊した上半身裸の男が警察官に連れられてやって来た。
目を凝らすと、肩口の切り傷にタオルを当てた男が隣の寝台に座るのが見えた。直ぐにカーテンが撫川と隣のベッドの間を隔てるように閉められたが、撫川はふと、あの懐かしい匂いを嗅いだ気がした。
分かる者だけが知るあの香り。
きっと、この男は刺青者だ。
その香りは撫川の閉じた痛みを揺り起こした。
「…なんで僕を置いていったんだよ…悠さん…」
撫川の声無き声が、暗く澄んだ夜のしじまに染み入るように溶けて行った。
「何ぃ?カチコミだと?!何処の組のモンだ」
「いえ、カチコミじゃねえんで」
「じゃあ何だ!」
「が、ガサ入れ…?」
とあるシティホテルの一室、女が寝転がっているベッドの上で鹿島は携帯の向こうではっきりしない子分の連絡をイラつきながら聞いていた。
「ガサ入れ?…とは何だ!はっきりしろ!カチコミなのか!ガサなのか!」
「それが…っ、ゴマキの野郎が暴れて騒いでんですよ!倉庫を見せろとか何とかほざいてます!」
「倉庫だぁ?ゴマキ一人がか?!それじゃあガサ入れって訳じゃねえのか!」
「はあ、それが…ぐおっ!テメェ!殺すぞ!!」
携帯の向こうで激しく争う物音と、苦戦している子分の叫びに鹿島周吾は眉間の皺が深くなる。
「ったく!!なんだってんだ!俺は一日も事務所を留守出に来んのか!いいか!お前ら死んでもチャカは使うなよ!分かったな!!」
あんなのでもゴマキは警官だ。そんな奴を相手に拳銃をぶっ放したとあれば、いくら鹿島周吾と言えど収拾はつか無いだろう。
本部のオヤジどもに鹿島興業の子分二人を殺された不始末をネタに嫌味を言われ、たっぷりと小言を貰ったばかりで機嫌の悪かった鹿島は、子分からのしどろもどろな通話をぶった切ると、すかさず違う部屋に待機している若衆へと電話をかけた。
「車直ぐ回せ!帰るぞ!何だか事務所がワケ分からねえ!」
名残惜しそうに纏わりつく女を邪険にあしらい、裸に白いホテルのガウンを羽織っただけと言う姿で鹿島は猛然と部屋を出て行った。
後藤と久我の両名の行動は明らかに職務規定に反していた。
普通なら内偵の後、捜査令状を取ってのガサ入れの筈が中二つすっ飛ばして強引に、しかも単独での強行捜査だった。
それは捜査の範疇ではなく、もはやヤクザの事務所へのカチコミと何ら変わらない。
しかも当然なのだが、ヤクザの事務所で騒ぎとあっては、近隣の人達が警察を呼ぶのは至極当然。何台ものパトカーが赤色灯を回して鹿島興業に集まっていた。
「やってくれたな、二人揃いも揃って。久我は新米だが、後藤さん。アンタはベテランだろう。百も承知だろうが今回は始末書だけじゃ済まんだろうな」
瀬尾は深く静かに怒っていたが、まあ、普段の後藤を知る者は皆一様にまたかと言う表情だった。
瀬尾の前で項垂れる二人の様相は悲惨なものだった。
あちこち服は破れ、髪はぐちゃぐちゃで青痣、擦り傷のオンパレードだ。
瀬尾がその場を離れると、反省したふりの得意な後藤が、自分のしでかしたことに茫然自失の久我の肩に、己の肩を意味ありげにぶつけて来た。
「へへっ、上手くいったな」
「何がですか!オレ達とんでもない事を、」
いつも規律正しく生きて来たと言うのに、全く歯止めが効かなかった自分に久我はただ驚愕だった。
「馬鹿か、見てみろよ」
そう後藤に促されて辺りを見渡すと、負傷したヤクザと警官が入り乱れ、物々しい様相を呈していたが、その中にたたんだ段ボールを持った捜査員達がヤクザ事務所に入っていくのが見えた。
「手順なんざ踏んでたら、いつ倉庫を拝めるか分かったモンじゃねえ。救急車と消防車は早いうちにってな」
「…後藤さんこれ、パトカーですが」
「んな細けぇ事は良いんだよ!これですぐに倉庫が拝めるじゃねえか」
そう言う後藤の顔は随分と愉快そうだった。
後藤は確信犯だった。
ヤクザと派手に揉めれば警察が大挙してやってくる。応援だの令状だの一々打診を待つ必要もない。
こうしてあっという間に捜査令状を持った警察官達が来たのだから効果は絶大だ。
その時だった。
鹿島を乗せた車がごった返しているビルの前へと停まった。中からはガウン姿の鹿島がこの有様を険しい顔で眺めながらゆっくりと降りてきた。
こんな場にあって、こんな格好でも様になる男はそうはいない。
「どう言うことだ!」
そう言う鹿島に捜査員が令状を見せながら近づいた。
「連続刺青殺人事件、並びに矢立カオルの殺人事件に関して倉庫の中に怪しげな物があると言う話を聞いたんが、ちょっと話を聞かせて貰いたい」
「こんなのは違法捜査だ!もし何にも出てこなかったらオタクら、」
そう鹿島が静かに凄んだ時だった。鹿島興業の中から別の捜査員が走り出してきた。
「刺青です!倉庫の中に大量の刺青が…!」
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