幻の背《せな》

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本心と本分の狭間で

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この事を今直ぐに瀬尾に伝えるべきか否か。迷ったのは恐らく久我ただ一人であったであろう。
周りの捜査員たちは、瀬尾の所へ早く行けと久我にせっついた。
そこに久我の異論など挟めるような余地はないし、異論を唱えられる確たるものなど何もない。
久我は動揺した気持ちのまま取調室の瀬尾の元へとやって来た。無機質な灰色の小さなドアを叩くと、中から瀬尾が顔を出す。
彼の肩越しに見える撫川が、今から自分が大変な容疑をかけられる事など全く思わずに、神妙な顔つきで硬いパイプ椅子に座っているのが見えた。
今から自分は撫川に不利な事を告げようとしている。当たり前なのだ。自分は警察官なのだから。
だが久我の心が激しく揺らいでいた。
小声で瀬尾にことの次第を告げながら部屋の中へと入り込む。
久我の話を聞く瀬尾の表情が変わったのを撫川も感じていた。その眼差しが動揺で落ち着きを失っている。

「二人目の刺青皮剥事件のあった日、その時間帯にホテルの裏口辺りを通っていないかと、あなた一度捜査員に質問を受けてますよね?」
「ああ、はい。その時も言いましたが、その日はホテルの隣りの喫茶店が開店で花を届けて欲しいと注文があったんです、でももうそこは開店してから随分経つ店で、そんな注文した覚えも貰うような心当たりも無いと言われて直ぐに花を持ち帰りました…それが、…何か…」

訝しげで不安そうな顔。やけに大きく見開かれた眼差しが久我を見てくるが、今の自分の立場では掛けてやる言葉も無い。
瀬尾が撫川の前に座ると机の上で指を組み、撫川の顔を覗き込む。

「その時着ていた自分の上着を覚えていますか」
「上着?上着ですか?…確か、ブルゾンで…カーキ色の…」

そこまで話した撫川の表情が何かに思い当たったように固まった。
そう、カオルちゃんが花屋に飛び込んできたあの夜、店を出て行く彼に自分のブルゾンを渡していた事に気がついた。
恐らくそれを着たままカオルちゃんは死んだのだ。
撫川は目の前の男が自分になんらかの疑いを抱いているのだと分かった。

「上着は…カオルちゃんに貸したんです!」
「花の注文があったと言うことを誰か証明できる人はいますか?」
「いえ、注文して来た人の連絡先は既に抹消されてて…」
「あの夜、何故貴方は彼を匿《かば》ったのですか?」
「それは、知り合いだったし、」
「あなた、刺青皮剥事件の事、本当は何か知っているんじゃ無いですか?
矢立《やだて》カオルの死についても何か関わりがあると見るのが自然なんだが?」
「知りません!僕には何も…!」

突然、ただの職務質問のはずがいつの間にか尋問に変わってしまい、あらぬ疑いを掛けられた撫川は、焦りの滲む眼差しで久我と瀬尾を忙しなく交互に見てくる。たまりかねて久我が割って入った。

「まって下さい!何か誤解があるかもしれません!俺が調べて来ます!何か掴んできますから…!」
「ーー「から」?なんだ久我」

自分は何を言うつもりだったんだろう。とっさに庇った理由が自分でも分からない。

「た、逮捕は待ってください!俺が疑いを晴らします!」
「お前、どうした?何をそんなにムキになってるんだ久我。取り調べて疑わしければ緊急逮捕も視野に入れてるし、疑いが無ければ逮捕などはせん!」
「彼がどうしても被疑者とは思えません!とにかく俺に時間を下さいお願いします!」

久我自身を含め、そこに居た全ての者が驚いていた。普段から被疑者の肩を持つような発言などした事のない男が、なりふり構わず瀬尾に懇願しているのだ。

「久我さん…っ、僕はーー」

そう言いかけた撫川に久我は分かっていると頷いた。返答を迷う瀬尾に尚も久我は迫った。

「ーー瀬尾さん!」

久我の気迫はたたごとではない。久我は信用に足る部下だ。
瀬尾は頷くしかないと思った。

「分かった。三十八時間やる。証言が疑わしくとも逮捕を待ってやる。そのかわりお前一人だ。今は人員は割けないからな」
「充分です!ーーー撫川!早く私選弁護人を立てろ!国選を待っていてはダメだ!」

そう言い逃げるように、久我は外へと飛び出して行った。余計な一言を言う久我の背中に「久我!!」と瀬尾の怒鳴り声が響いた。

国選弁護人は被疑者の負担にならず、その弁護をしてくれる国の制度だ。しかしながらそれは逮捕が確定した者のみが選出出来る仕組みだ。
だがしかし、逮捕が確定してしまえば勾留措置を免れるのは難しくなり、それを限りなく免れるには国選を待つのでは無く、金は自腹でも逮捕前に自ら私選弁護人を立てる方が絶対的に有利なのだ。
本来、そんな事は警察で被疑者には親切に教えてはくれない。知っている者のみが得をする。飛び出して行く久我が叫んだのは、そう言う事など知らぬであろう撫川への、いま久我の出来うる精一杯の助言だったのだ。

「で、どうするんだ?撫川さん。私選弁護人を立てますか?」

久我に入れ知恵されては仕方ない。瀬尾は撫川にそう尋ねたが
何故か撫川は首を横に振っていた。

「あんた、ヤクザの親分のとこの弁護士がいるんじゃないのか?そいつに頼らないのか?」
「周吾さんには頼りたくないから」
「せっかく久我が教えたんだ。良いのか?それで」
「はい」

そう真っ直ぐに瀬尾の目を見つめる撫川にはなんの迷いもないように見えた。その眼差しは瀬尾にも、撫川と言う男は犯罪に手を染める様な人間には思えないと言う印象を与えた。

後は久我を信じるしか無い。

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