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影を慕いて
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「あの子は母方の連れ子だったのはご存知?」
「はい、存じております」
「うちの白山家とは血の繋がりがありませんの。ですが、息子が引き取って育てたのですが…」
その先を口籠る祖母に、李仁は自分の知っている事を話した。『棗倶楽部』の事を。
祖母の懺悔の思いが深い皺をさらに色濃くしていた。断腸の思いで喉奥から掠れた声を絞り出す。
「我が子ながら酷い事をした物です。
わたしは息子夫婦に遠慮するあまり深入りすることを躊躇った。私がいけなかったのです。もう少し棗に目をかけていればこんな事には…。
私がそれを知ったのは、あの子が十六の時でした。遅すぎました。それから私は息子から棗を引き離し、手元に置いたのです。元々頭の良い子です。あの子は私の教える全てを短い間に吸収しました。
行儀作法、お習字、お花、お茶、香道。合気道。着物の着付け。お裁縫やお料理。わたくしの知っていることは何でも教えました。棗は嬉々として其れらを覚えてくれました。でも、女の私が教えられる事はそんなことばかり。なんでも良いから愛情を注いでやりたかったのです。お陰で一風風変わりな子に育ってしまった」
「棗のお母様と言う方はどうされているのですか」
「まだ息子と共におります。息子の海外赴任に帯同致しておりますよ。本来なら彼女が棗を庇うべき立場でしたのに…なんと言っても母親なのですから…でも、彼女は子育てに向かない人でした。その分、息子が棗を異常なほど可愛がっていたのです。今となってはそれがどんな意味かも知らずに私は…」
深い後悔の念が棗の祖母を今でも覆っている。棗も傷ついたかも知れないが、この祖母もまた深く傷ついていた。
「お祖母様の愛情は棗にとって光明だったに違いないのに、何故拓殖さんが棗の後見人になったのですか」
「棗が選んだのです。…その心は私にも分かりません」
そう話す棗の祖母は、何処か遠い眼差を、庭の深い緑の木々へと注いだのだった。
幸せに身を置くと、どんどん尻込みして行くのは棗の悲しい癖だった。それが特殊な育てられ方をしたからなのか、持って生まれた性質なのか。こう言うものを不幸癖と言うのか。棗の心の内は誰にも分からない。
棗の朧げな輪郭が漸く李仁にも見え始めてきた。
少なくとも、歪んだ愛情ではなく、真っ当に心から愛されていた。
その生い立ちを思えば、それは救いのように思われた。
李仁は最後にはる君が埋葬された墓の場所を知らないかと尋ねてみた。
はる君にしてみれば結果的に恋人を寝取られた形になってしまった。挙句、あんな亡くなり方をした。
墓の主ははた迷惑かも知れないが、李仁には供養してやりたい気持ちがあった。
棗の祖母は、引き出しから文箱を持って来させると、葬儀の時の案内状を李仁に手渡した。そこには葬儀会場となった寺の名前が記されていた。そこにはる君は眠っているのだと棗の祖母が教えてくれた。
送り梅雨が過ぎると新緑は色を濃くし、夏の匂いをここかしこから立ち上らせ始める。この頃から浴衣がそろそろ動き始める季節を迎え、呉服商は掻き入れ時を迎える。
商売を怠けるわけにも行かずに、結局はる君の墓参りはお盆の少し手前にズレ込んだ。新盆で墓参りの人が増えるだろう八月を避けるとなると、来るのは今しかないと思った。
寺と言うのはいつ来ても寒々しい。例え夏の日差しがあったとしてもだ。
李仁は苔むした寺の階段を花と水桶を持って上がってきた。途中墓参りに来た老夫婦にすれ違うと、互いに無言で会釈した。
住職に教えられた墓の場所を探して、無数の同じような墓石の林立に迷いながらも、ひっそりと奥まった拓殖家の墓の前までやって来た。こじんまりとした石塔の新しさが些か胸に痛かった。
花を生けようとすると、既にそこには花が飾られている。白いマーガレットは薄い花弁に露を纏わせ、つい今し方誰かが墓参りに来た事を物語っていた。はる君にも彼を思って悼む人がいる。
李仁も線香を手向け手を合わせると、深閑とする李仁の耳に微かな下駄の音が聞こえた気がして辺りを眺めた。
人影は無いと思ったが、墓石の影へとひょいと足早に過ぎる白い浴衣の女の影が見えた。
女か?いや、棗に良く似ていた気もする。
李仁は慌ててその女の影を追いかけた。姿が消えたと思しき場所まで来てみたが、何処にも姿は見当たらない。まさか幽霊でもあるまい。
その証拠に李仁の鼻腔を掠める残り香があるのに気がついた。
白檀だ。棗の身体の香りだ。
「棗…!」
棗の姿を求めて李仁は墓石の迷路を探し回った。階段の下まで降りて探した。だが、何処にも棗の姿は無かった。ただ残されたのは白檀の香りと墓に供えられ風に揺れるマーガレットの花のみ。
「なつめー!!」
棗を求める李仁の声は深い木々と厚い苔に吸われて消えた。
マーガレットは墓に手向けるには不思議な花だった。それに意味があるのではと李仁が調べると、花言葉は「ごめんなさい」とあった。
その時、李仁は理解した。あの火事で、少なくとも棗ははる君を見殺しにしたと言う事を。
「はい、存じております」
「うちの白山家とは血の繋がりがありませんの。ですが、息子が引き取って育てたのですが…」
その先を口籠る祖母に、李仁は自分の知っている事を話した。『棗倶楽部』の事を。
祖母の懺悔の思いが深い皺をさらに色濃くしていた。断腸の思いで喉奥から掠れた声を絞り出す。
「我が子ながら酷い事をした物です。
わたしは息子夫婦に遠慮するあまり深入りすることを躊躇った。私がいけなかったのです。もう少し棗に目をかけていればこんな事には…。
私がそれを知ったのは、あの子が十六の時でした。遅すぎました。それから私は息子から棗を引き離し、手元に置いたのです。元々頭の良い子です。あの子は私の教える全てを短い間に吸収しました。
行儀作法、お習字、お花、お茶、香道。合気道。着物の着付け。お裁縫やお料理。わたくしの知っていることは何でも教えました。棗は嬉々として其れらを覚えてくれました。でも、女の私が教えられる事はそんなことばかり。なんでも良いから愛情を注いでやりたかったのです。お陰で一風風変わりな子に育ってしまった」
「棗のお母様と言う方はどうされているのですか」
「まだ息子と共におります。息子の海外赴任に帯同致しておりますよ。本来なら彼女が棗を庇うべき立場でしたのに…なんと言っても母親なのですから…でも、彼女は子育てに向かない人でした。その分、息子が棗を異常なほど可愛がっていたのです。今となってはそれがどんな意味かも知らずに私は…」
深い後悔の念が棗の祖母を今でも覆っている。棗も傷ついたかも知れないが、この祖母もまた深く傷ついていた。
「お祖母様の愛情は棗にとって光明だったに違いないのに、何故拓殖さんが棗の後見人になったのですか」
「棗が選んだのです。…その心は私にも分かりません」
そう話す棗の祖母は、何処か遠い眼差を、庭の深い緑の木々へと注いだのだった。
幸せに身を置くと、どんどん尻込みして行くのは棗の悲しい癖だった。それが特殊な育てられ方をしたからなのか、持って生まれた性質なのか。こう言うものを不幸癖と言うのか。棗の心の内は誰にも分からない。
棗の朧げな輪郭が漸く李仁にも見え始めてきた。
少なくとも、歪んだ愛情ではなく、真っ当に心から愛されていた。
その生い立ちを思えば、それは救いのように思われた。
李仁は最後にはる君が埋葬された墓の場所を知らないかと尋ねてみた。
はる君にしてみれば結果的に恋人を寝取られた形になってしまった。挙句、あんな亡くなり方をした。
墓の主ははた迷惑かも知れないが、李仁には供養してやりたい気持ちがあった。
棗の祖母は、引き出しから文箱を持って来させると、葬儀の時の案内状を李仁に手渡した。そこには葬儀会場となった寺の名前が記されていた。そこにはる君は眠っているのだと棗の祖母が教えてくれた。
送り梅雨が過ぎると新緑は色を濃くし、夏の匂いをここかしこから立ち上らせ始める。この頃から浴衣がそろそろ動き始める季節を迎え、呉服商は掻き入れ時を迎える。
商売を怠けるわけにも行かずに、結局はる君の墓参りはお盆の少し手前にズレ込んだ。新盆で墓参りの人が増えるだろう八月を避けるとなると、来るのは今しかないと思った。
寺と言うのはいつ来ても寒々しい。例え夏の日差しがあったとしてもだ。
李仁は苔むした寺の階段を花と水桶を持って上がってきた。途中墓参りに来た老夫婦にすれ違うと、互いに無言で会釈した。
住職に教えられた墓の場所を探して、無数の同じような墓石の林立に迷いながらも、ひっそりと奥まった拓殖家の墓の前までやって来た。こじんまりとした石塔の新しさが些か胸に痛かった。
花を生けようとすると、既にそこには花が飾られている。白いマーガレットは薄い花弁に露を纏わせ、つい今し方誰かが墓参りに来た事を物語っていた。はる君にも彼を思って悼む人がいる。
李仁も線香を手向け手を合わせると、深閑とする李仁の耳に微かな下駄の音が聞こえた気がして辺りを眺めた。
人影は無いと思ったが、墓石の影へとひょいと足早に過ぎる白い浴衣の女の影が見えた。
女か?いや、棗に良く似ていた気もする。
李仁は慌ててその女の影を追いかけた。姿が消えたと思しき場所まで来てみたが、何処にも姿は見当たらない。まさか幽霊でもあるまい。
その証拠に李仁の鼻腔を掠める残り香があるのに気がついた。
白檀だ。棗の身体の香りだ。
「棗…!」
棗の姿を求めて李仁は墓石の迷路を探し回った。階段の下まで降りて探した。だが、何処にも棗の姿は無かった。ただ残されたのは白檀の香りと墓に供えられ風に揺れるマーガレットの花のみ。
「なつめー!!」
棗を求める李仁の声は深い木々と厚い苔に吸われて消えた。
マーガレットは墓に手向けるには不思議な花だった。それに意味があるのではと李仁が調べると、花言葉は「ごめんなさい」とあった。
その時、李仁は理解した。あの火事で、少なくとも棗ははる君を見殺しにしたと言う事を。
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