龍虎の契り

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ごめんなさい

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「君は、今日、なぜあんな所にいたの?」

狭山の穏やかな中に強制的な威圧を含んだ眼差しが微笑んでいる。
棗はベッドの奥へ奥へと後ずさる。

「わ、分かりませんっ」

「棗さん、私の前で嘘はいけない」

「嘘じゃ…!」

言い逃れようとする棗の帯を狭山がいきなり掴んで引き寄せると、己の膝の上に腹這いにさせ、首根っこを掴んで押さえつけた。

「嘘をついたらお仕置きだ。何故あんな所にいた?」

「やっ、やめて下さい!私…っ」

パン!と棗の尻を狭山はスリッパで打ち据えた。突然の所業に棗は目の前に星が散った。そして棗の中の何かが不意に覚醒したような気がした。

「ひっ!ぁ!」

「嘘はお仕置きと言ったでしょう?ちゃんと言いなさい!」

そう言うと、狭山は棗の尻を派手な音をさせて何発もスリッパで打ち据えた。
棗は痛みよりも恐怖が先行した。棗の中から何かが叩き出されて来るような感覚に襲われた。
一発打たれるごとに、恐怖の記憶が一つづつ吹き出した。

暗くかび臭い部屋。
肘掛け椅子に腰を下ろしている父
その足元に正座して三つ指をついた幼い棗自身の姿が脳裏を掠める。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!お父様!!」

懇願の言葉が棗の口を突いて出た。棗はしまったと、うっかり滑らせた口元を手で押さえ込んだ。
そして狭山は、尻を打つ手を止めた。

「そうか、『ごめんなさい』か。そうやって、君はお父さんに躾けられた。お父さんに性暴力を受けていたね?いや、調教かな?」

狭山の暴行紛いの行為は、棗にこの事を聞き出すためのものだった。何故あんな所にいたかなんて関係ない。ただの導入に過ぎない。
棗の身体が小刻みに震える。身体の中の血液全てが沸騰し、逆流するのを感じる。獣なら、全身が逆立っていただろう。

「…てやるっ…殺してやる!!」

今まで必死に秘めてきた大きな傷に触れられて、棗は前後不覚に逆上していた。
矢庭に狭山の膝から飛び起き、馬乗りになって、狭山の首を絞めにかかった。恐らくは本気で殺そうとさえ思っていたに違いなかった。

「君は…、似ているんだよ…っ、かつての僕に!だから、救いたいと…思った!」

狭山は苦しい息の下で、呻くように喋った。幸にして、非力な棗は狭山にその手を引き剥がされ、逆に狭山に押さえ込まれた。
互いに息が乱れていた。

「誰がそんな事頼んだ!!赤の他人に何の関係がある?!」

目を血走らせ棗は吠えた。

「赤の他人だから救えるんだよ。
愛さえあれば救われるなんて妄想だ。愛が邪魔をして救えない事だってあるんだよ!」

「誰が救ってくれなんて頼んだ!大きなお世話だ!」

「じゃあ、君はこのままでいいの?愛されるたびに自家中毒を起すのかい?この先ずっと?
いつか耐えられなくなると思わないか?」

狭山の言葉には説得力があるのを認めるざるを得なかった。
棗は抵抗を止めていた。狭山は棗の手を開放した。

「僕に全てを話してごらん。きっと楽になれる。簡単じゃないことは分かってる。僕も全てを話すのに三年かかった。全てを曝け出して自分を認めてやるんだ。君は悪くない。誰も知らない事だ。僕と君だけしか知らない」

誰にも話せなかった事を、どうして良く知りもしない得体も知れない男に話せるだろうか。
いいや、だから話せると狭山は言った。
それは、赤の他人だから。自分の人生と無関係な人間だから。
棗の中で何かが腑に落ちた。

「僕のカウンセリングを受けないか?勿論、カウンセリングの内容は誰にも言わない」

「李仁さんにも?」

棗が一番怖かったのは、その事を李仁に知られてしまう事だった。
棗の中にはまだ沢山の拭い切れない醜悪なものがある。その全てを李仁にだけは知られたくなかった。
でも、限界が近いことも棗は感じていた。これが最初で最後のチャンスかも知れない。
棗の縺れた糸は、幾重にも重なっている。狭山は直感的にそう感じていた。複雑で繊細なその糸を解きほぐすのは恐らく棗の苦しみも一筋縄ではいかないと言う事だ。

「君が本気なら、手紙を一通、認《したため》てもらいたい。旦那さん宛に。
今日からしばらくの間、君は僕と暮らすんだ」




一方、李仁はと言うと、忽然と宴会場から消えた棗を探して駆けずり回っていた。
行きそうな場所を考えると、棗のことをあまりに知らない事に気がついた。
実家のある場所。友人。良く立ち寄る場所。目の前の棗に夢中で何も見えていない事に今更ながら愕然としていた。自分と棗。世界はそこだけだ。それしか知らなかった。

「李仁、大丈夫か。今、商店街の人達にも探してもらってる。なに、行くところなんて人間限られてる。すぐに見つかる。心配するな」

新婚だと言うのに智也は、ずっと李仁に付き添っている。そんな智也を気遣えないほど、李仁は激しく動揺していた。
マンションに戻っても棗の事ばかり考える。何故あの時、すぐに気にかけてやらなかったのか。何故、目を離したのか。
傷ついた棗が早まった事をするのではないか。そう思うといてもたってもいられなかった。
智也を残してマンションから飛び出すと、一晩中街の中を彷徨い歩いた。

マンションに寝泊まりしていた智也が明け方扉の閉まる音がして飛び起きた。仮眠をとっていたソファから跳ね起きると、玄関へと飛び出した。

「棗さん!?」

けれども、そこに立っていたのは一晩ですっかりやつれた李仁だった。

「李仁、なにやってる中へ入れ」

「…棗は?」

智也は無言で首を横に振った。
聞くまでもない。玄関には智也の靴しか見当たらないのだ。


そして何も手につかなくなった李仁の元へと、二日後、李仁宛の手紙がポストに届けられていた。
それは紛れもなく棗の筆跡だった。


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