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帰したくない
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本当なら、今頃イタリアンに舌つづみのはずだったが、落ち着いたカクテルバーのカウンターに二人並んで座っていた。
さっきから棗はずっと黙り込み、チェリーの沈んだカクテルグラスに視線を落としたままだった。
このままずっと黙っているわけにもいかない。無難な会話をしてみる事にした。
「少しは落ち着いた?」
「本当にごめんなさい。楽しい食事のはずが…こんな、」
照明の落ち着いたバーに、静かなジャズが流れている。客は棗と李仁の二人だけ。バーテンは客の話が聞こえないふりで手元のグラスを磨いている。
「オレの事は本当に気にしなくて良いんだ。話したくないなら無理に聞こうとは思ってない。君が話したくなったら話せば良いから」
良い男ぶるのも忍耐が必要だった。
本当は何から何まで聞きたい。何があったのか、どうしたのか。それは彼氏の事と関係があるのかと。
「……別れて、来たんです」
棗は自分から切り出した。
「別れて?…あのはる君とかい?」
まさかオレの事が原因じゃ…」
「いえ、違います。
と、言いたいのですが、少しはあるのかもしれません」
「やっぱり今夜の食事会はよく無かったんじゃないのか?
直接説明に行こうか。誤解で別れ話なんて責任を感じる」
はる君を、確かに邪魔に思ったのは否めないが、こんな結末を期待した訳ではない。
当然、棗が苦しむのは本意ではなく、食事会に浮かれていた自分を李仁は悔いていた。
「はる君と離婚だなんて、修復は不可能なのかい?」
「離婚?」
棗は少し不思議そうな顔をして、すぐに頭《かぶり》をふった。
「……はる君とは恋人だった、のかな。
何だか今となってはそれも分かりませんが…」
「そうか、てっきり君とはる君は夫婦なのかと思っていた」
「……」
棗の唇が何か言いたそうに小さく動き、その瞳は何かを逡巡《しゅんじゅん》しているように見えた。
「はる君は人形作家で、最初はそのモデルを頼まれたんです。
そのうちに一緒に暮すようになって…。
最初は楽しかったけど、段々とはる君の束縛が凄く強くなって。
一人で外出するのも難しくなってしまって…。
最近はずっと喧嘩が絶えなかったんです。
私、もう疲れてしまって」
心なしか肩ががくりと落ち、目元に影が差しているように見えた。
人間は表向きなんて本当に分からない。
あの何時も明るい棗に、こんな暗闇が潜んでいたなどとは少しも感じた事がなかった。
「それだけ彼は
君を愛しているんだね」
「そうなのかもしれません。でも、
………………………………苦しい」
棗の気持ちも『はる君』の気持ちもどちらも少しずつ分かるような気がした。
別れと言うのはこんな風に、静かに忍び寄って来て、ある日バッサリ鎌が振り下ろされるものなのか。
自然にしぼんんで行く関係しか結んだ事の無い李仁には、こんな激しい恋はドラマや映画の中だけの世界だった。
息苦しいほどの恋をしてみたいと、李仁は思った。
その後は棗の緊張も解け、何杯か二人でカクテルを空け、ちょっとしたつまみを頼んで空腹を満たした。
話してみると、棗は若いが物知りで、二人とも興味のある事、好きな物がとても似ている事に気がついた。
棗は女性脳と男性脳の持ち主らしく、女性なら食いつかないような話題にもすんなりと絡んで来る。
李仁は居心地の良さを感じていた。
男友達と話している様な気分になりながらも、極上の女性と一緒にいる様な気分。
棗と言う人間は、その両方を満たしてくれるような気がした。
バーテンにラストオーダーを告げられるまで、時間など気にも留めていなかった。
会話が弾んだまま、名残惜しげに棗はカクテルのチェリーを口に含んだ。
「楽しかったですね。時間があっと言う間。この続き、また絶対にしましょう?」
そう笑顔で言いながら、背の高いスツールから棗が降りようとした瞬間、その足元がぐらりとふらついた。
「あ…っ!」
「おっと!」
李仁が慌ててそれを支えた。
腰を引き寄せられた棗の身体が少し強張る。
図らずもその瞬間、二人の視線がかち合った。
見つめ合う二人の瞳が揺れている事に、互いが気づいてしまったのだ。
「…約束の証に…そのチェリーを」
李仁は酔っていたが、自分が何を言ったのかはっきり分かっていた。
薄く開いた棗の唇からあの赤いチェリーが、誘うように覗いていた。
「ぁ…、ンだめ…っ」
唇に迫ろうとする李仁の胸を、力無く棗の手が止めながら、その求めに応じて目を閉じた。
棗の舌で押し出されたチェリーは、吐息と共に、李仁の口内へと滑り込み、甘い唾液がまるで媚薬のように李仁の身体を熱くした。
「…君を…帰したくない…」
押し殺すような李仁の囁きが、棗の空虚を抱えた胸の隙間に忍び込んだ。抱き寄せられた李仁の身体は逞しい「男」の身体をしていた。
午前一時。
外は土砂降りになっていた。
さっきから棗はずっと黙り込み、チェリーの沈んだカクテルグラスに視線を落としたままだった。
このままずっと黙っているわけにもいかない。無難な会話をしてみる事にした。
「少しは落ち着いた?」
「本当にごめんなさい。楽しい食事のはずが…こんな、」
照明の落ち着いたバーに、静かなジャズが流れている。客は棗と李仁の二人だけ。バーテンは客の話が聞こえないふりで手元のグラスを磨いている。
「オレの事は本当に気にしなくて良いんだ。話したくないなら無理に聞こうとは思ってない。君が話したくなったら話せば良いから」
良い男ぶるのも忍耐が必要だった。
本当は何から何まで聞きたい。何があったのか、どうしたのか。それは彼氏の事と関係があるのかと。
「……別れて、来たんです」
棗は自分から切り出した。
「別れて?…あのはる君とかい?」
まさかオレの事が原因じゃ…」
「いえ、違います。
と、言いたいのですが、少しはあるのかもしれません」
「やっぱり今夜の食事会はよく無かったんじゃないのか?
直接説明に行こうか。誤解で別れ話なんて責任を感じる」
はる君を、確かに邪魔に思ったのは否めないが、こんな結末を期待した訳ではない。
当然、棗が苦しむのは本意ではなく、食事会に浮かれていた自分を李仁は悔いていた。
「はる君と離婚だなんて、修復は不可能なのかい?」
「離婚?」
棗は少し不思議そうな顔をして、すぐに頭《かぶり》をふった。
「……はる君とは恋人だった、のかな。
何だか今となってはそれも分かりませんが…」
「そうか、てっきり君とはる君は夫婦なのかと思っていた」
「……」
棗の唇が何か言いたそうに小さく動き、その瞳は何かを逡巡《しゅんじゅん》しているように見えた。
「はる君は人形作家で、最初はそのモデルを頼まれたんです。
そのうちに一緒に暮すようになって…。
最初は楽しかったけど、段々とはる君の束縛が凄く強くなって。
一人で外出するのも難しくなってしまって…。
最近はずっと喧嘩が絶えなかったんです。
私、もう疲れてしまって」
心なしか肩ががくりと落ち、目元に影が差しているように見えた。
人間は表向きなんて本当に分からない。
あの何時も明るい棗に、こんな暗闇が潜んでいたなどとは少しも感じた事がなかった。
「それだけ彼は
君を愛しているんだね」
「そうなのかもしれません。でも、
………………………………苦しい」
棗の気持ちも『はる君』の気持ちもどちらも少しずつ分かるような気がした。
別れと言うのはこんな風に、静かに忍び寄って来て、ある日バッサリ鎌が振り下ろされるものなのか。
自然にしぼんんで行く関係しか結んだ事の無い李仁には、こんな激しい恋はドラマや映画の中だけの世界だった。
息苦しいほどの恋をしてみたいと、李仁は思った。
その後は棗の緊張も解け、何杯か二人でカクテルを空け、ちょっとしたつまみを頼んで空腹を満たした。
話してみると、棗は若いが物知りで、二人とも興味のある事、好きな物がとても似ている事に気がついた。
棗は女性脳と男性脳の持ち主らしく、女性なら食いつかないような話題にもすんなりと絡んで来る。
李仁は居心地の良さを感じていた。
男友達と話している様な気分になりながらも、極上の女性と一緒にいる様な気分。
棗と言う人間は、その両方を満たしてくれるような気がした。
バーテンにラストオーダーを告げられるまで、時間など気にも留めていなかった。
会話が弾んだまま、名残惜しげに棗はカクテルのチェリーを口に含んだ。
「楽しかったですね。時間があっと言う間。この続き、また絶対にしましょう?」
そう笑顔で言いながら、背の高いスツールから棗が降りようとした瞬間、その足元がぐらりとふらついた。
「あ…っ!」
「おっと!」
李仁が慌ててそれを支えた。
腰を引き寄せられた棗の身体が少し強張る。
図らずもその瞬間、二人の視線がかち合った。
見つめ合う二人の瞳が揺れている事に、互いが気づいてしまったのだ。
「…約束の証に…そのチェリーを」
李仁は酔っていたが、自分が何を言ったのかはっきり分かっていた。
薄く開いた棗の唇からあの赤いチェリーが、誘うように覗いていた。
「ぁ…、ンだめ…っ」
唇に迫ろうとする李仁の胸を、力無く棗の手が止めながら、その求めに応じて目を閉じた。
棗の舌で押し出されたチェリーは、吐息と共に、李仁の口内へと滑り込み、甘い唾液がまるで媚薬のように李仁の身体を熱くした。
「…君を…帰したくない…」
押し殺すような李仁の囁きが、棗の空虚を抱えた胸の隙間に忍び込んだ。抱き寄せられた李仁の身体は逞しい「男」の身体をしていた。
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