理髪店の男

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繁華街の赤い月

part.5

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「アーサー!」

外から聞こえたのは八神の声だった。
店の二階の窓辺から、秋山は心中穏やかならざる光景を目の当たりにしていた。
三日寝込んでようやく今日から床を上げたばかりだと言うのに、八神はもう既に部屋を飛び出していた。
しかも今、秋山の眼下で親しげに浅田の事をアーサーなどとあだ名で呼びながら歩いていた浅田に八神が駆け寄ったではないか。
浅田は浅田で八神の肩や腕を必要以上に触ったり摩ったり。その光景はさながら恋人同士だ。
これならばもっと病んでいたかったと手の中でクシャクシャになったペットポトルを勢いよくゴミ箱に叩きつける秋山だった。

「もうっ!なんだよっ!アーサーってっ!」


思春期の頃だって、こんなに激しく感情を揺さぶられた事なんてなかった。
平凡で平坦で目立たぬように生きてきた人生だった。こんな風に男と恋に落ち、同棲まがいな生活を送り、華々しくヤキモチを焼く人生なんて想像すらしなかった。
今だって、長い夢を見ているんじゃ無いかと思う時がある。
人の人生なんてどうなるかなんて分からない。
だとするならば、この先ずっと八神といられる保証なんてどこにも無いのだ。



トントントン!
カンカンカン!
ギコギコギコ!
ガガガガガガ!

ーーあぁ!もうっ、うるさいな!

隣の改築の音が考え事の邪魔をする。何処かで常に苛々しながら、秋山は笑顔を作って、久しぶりの仕事場に立っていた。




まだ昼間だと言うのにまるで夜のような抑えられた明かりが心地よい店内。
一つ一つ拘わりを感じる調度品。上質なマホガニーのカウンター。
バックカウンターにはずらりと並んだ沢山の銘柄の酒の瓶。
開店前の『コルボノアール』では店主の浅田と八神が数種類のカクテルを並べてその造られた技法を八神に当てさせていた。


「これはシェーク、こっちがステアで、これがビルド。そしてこっちがブレンドかな?」
「御名答。八神さんは素質がありますな、こんなに早く覚えるとは流石ですね」
「いや、なに。ホストの頃に少しだけかじったからですよ。本格的に教えてもらえるなんて本当に有難い」
「熱心だし、スジもいい。見た目も素晴らしいしお喋りだってそつがない。何より空気を読むのがお上手だ。貴方はバーテンダーに向いてますよ。私もそろそろ後進を育てて隠居を考えても良い歳ですし、私のお店で働いてみませんか、八神さん」

そう言うと、浅田は並べられたカクテルの一つを八神の前へと差し出した。

「流石だな。いま俺が呑みたいカクテルが分かるんですね」

そう言うと八神はライムの月が沈むクリスタルなモスコミュールを飲み干した。

「貴方もきっと、いつかそんなバーテンダーになれると思います。私と一緒にやってみませんか?」
「俺には過ぎたありがたいお申し出ですが、やっぱり…俺にはやりたい事が…」
「分かってます。何度もしつこくお誘いしてすみません。あまりにも口惜しいものですから…」
「貴方こそ、引退なんて考えないでくれよ。まだまだ俺の先生でいて欲しいですから」



八神と浅田がそんな会話を交わしている頃、秋山にとっては二つ事件が舞い込んでいた。

一つは女。
丁度マダムがルノアールで見たと思しき小綺麗な女が、八神を訪ねて店に来ていたのだ。
長い髪、花柄のロングのワンピース。芸能人のような大きなサングラスをかけた色の白い華奢な女だ。

「すみません、八神は今留守をしていて…。あの、御用向きは…」
「居ないなら良いの、また来ますから」

そう言うと、女はバッグから半分取り出していた茶封筒をそそくさと仕舞い込んで、軽く会釈をすると店の外へと出て行った。
チラリと覗いた茶封筒は厚みがあった。秋山が咄嗟に脳裏に思い浮かべたのは金。

一体、どうなってるんだ??八神さん!アンタに何が起こってるって言うんだ!

秋山が大混乱を来たしている最中、もう一つの事件が起きた。

「こんにちはー、八神さんて方はこちらに住まわれてる方ですか?お届けものがあるんですが」

女と入れ違いに、入ってきたのは平らな大きな箱を手にした男だった。パリッとしたスーツにピカピカの靴。どう見ても宅配業者ではない。

「あの、どちら様ですか?」
「ロイヤルロンドです。八神様にお仕立てしたスーツをお届けに上がりました」
「はあ?スーツ…本当に八神ですか?」

ロイヤルロンドは駅前の高級紳士服店だ。
思い当たる所のない秋山は、お届け伝票を覗き込む。
そこには確かに八神麟太郎宛の文字。
そして驚いたことに、送り主は誰あろう、あのコルボノアールの浅田と記されてあるではないか!

きっと何かある。何かのっぴきならない事情があるんだと思いながらも、ネガティブな秋山が顔を覗かせる。
この一年間、八神と共に暮らし、八神の事は分かっていると思っていた。
なのに今は何一つ分からない。
一年間と言うが、それが長いのか短いのか。
言い換えれば、八神の一年分しか自分は知らない。
信じていれば良いと言い聞かせても、次々と不安の種は押し寄せて来る。
100%八神のものになればこの不安は拭い去れるのだろうか。
これは30%を惜しんだ罰なのか。
自分から何も求めなかった罰なのか?
八神の関心が自分から薄れて行くのが怖い。八神の一番でなくては自分はなんの価値もない。
秋山はそんな風に自分を追い詰めていた。

八神が帰ってきたのは午前様だった。疲れて寝ているだろう秋山を気遣って、足音を忍ばせた八神がそろりと真っ暗な二階の部屋へと入ってきた。
だが、寝ている筈の秋山が暗闇の中、黙りこくって布団の上に座っていたのだ。

「うわっ、せ、先生?どうしたんだよ、寝てなかったのか?」

驚く八神に気がついた秋山が顔を上げたかと思うと、突然八神の首に縋り付いてきた。
八神は訳もわからずいつもと様子の違う秋山を抱きしめる。


「どうしたんだ、寝てなかったのか?ごめんな、遅くなっ、」
「ーー八神さん、抱いて…………僕、最後まで…したい」

秋山の切羽詰まった声だった。
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