理髪店の男

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繁華街の赤い月

part.3

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「朝だあーさーだーよ~朝日が登る~♪ ほらっ!先生起きた起きた!良い天気だぞ!」

夜が遅いせいで朝も遅いのが二人の暗黙の了解だ。
ことにいつも寝坊助の八神が今日に限って何故かスッキリ早起きだった。
対して秋山はと言うと、いつもはきっちり早起きの筈が、昨夜は八神と浅田の事が頭の中に渦巻いて眠れず、つい今し方寝付いたばかりだったのだ。
そんなところへ持って来て、この昭和歌謡の「朝だ元気で」で叩き起こされ、枕元でこうも「あさだあさだ」と連呼されると秋山は居た堪れずに布団を跳ね除け不機嫌そうにむっくりと起き上がった。
実は秋山の寝覚めが悪い原因はもう一つある。
そう、今日は「浅田の日」だからなのだ。
浅田は決まって毎週土曜、開店と同時にやって来る。それが最近の彼のルーティンに組み込まれたらしいのだ。
八神の鼻歌が聞こえて目をやると、今日出すカクテルの準備中だ。どうせ浅田に飲ませて色々ご教示願うのだろう。そう思うといっそう秋山は面白く無いのである。

「なあ、先生。あんたバナナダイキリって飲んだことあるか?今日はバナナダイキリとドライマティーニを出してみようかと思ってよ」
「はあ…」
「何だ何だ、生返事だな」

のそのそとコーヒーを淹れに台所にやって来る秋山を見遣ると八神はニヤリと企む目つきで悪戯気に口角を跳ね上げた。

「先生には特別にうんと濃い俺のバナナダイキリを呑ませてやるよ」

そう言うと八神の手が秋山の股間を、ペロンと舐めた。

「!!!…八神さん!それセクハラだから!」
「ははは!どうだシャンとしたか?」
「ホントにもうっ!このおっさんはっ!」
「なあなあ秋山、俺この前フライパンで作ってくれた茶碗蒸しがまた食いてえ」
「却下!火加減面倒い!」

悔し紛れに怒って見せてもこんなやり取りが嫌いなわけじゃ無い秋山だった。




「ああ、ダメダメ、貴方は少し姿勢が悪いようですね。足を20センチ開いて少し反り気味に立ってください。
そう、骨盤を引っ込めて肩も少し落としましょう」
「八神ちゃんは胸板も厚いのねえ~、素敵だわぁ~」

秋山が二台の散髪台に掛かりきりになっている間、狭い店のすみっこで、文字通り手取り足取り腰まで取って、マダムの黄色い声と共に浅田はバーテンのイロハを八神に指南中だ。
この状況では秋山は手も足も口も出せない。他の客の手前、いつも以上のポーカーフェイスを強いられた。


「貴方は背筋は綺麗なのですから後は姿勢さえ気をつけたら絵になりますよ」

そう言うと浅田は躾の良さそうな手を八神の首筋から腰へとスルスルと撫で下ろした。別に浅田に何の意図もないのは分かっているが、秋山にはセクシャルな動きにみえて仕方がない。
八神の身体を女のマダムに触られるより、男の浅田に触れられる方が何倍も嫌だった。
カクテルの教示ならまだ我慢もできるが、流石にこれは忍耐の限界だった。

「あのっ、ここは狭いですし、教えて頂くのは有り難いんですが他のお客様もいらっしゃいますし…!」

気をつけたつもりが我ながら冷たい言い方をしたものだ。
いつもはこんな突き放した言い方はしないものだから、他のお客も浅田も、マダムも、そして八神も驚いた顔を一斉に秋山に向けていた。

「ああこれは失礼しました。申し訳ありません。お仕事のおじゃまをしてしまいました」
「あ、いいんですよ!浅田さんが謝るほどの事じゃ無い。俺が教えてくれって言ったんだ」

恐縮する浅田を八神が慌てて宥め、軽く秋山に非難の目を向けた。

「おい!」
「八神さんも、床掃除お願い出来ませんか、それから空きグラスを下げて欲しいです」

ああ自分の言うことなす事剣がある。
別に床はいつもの様に一人でササっと掃けばいいしグラスだってそんなに慌てる事なんか無いじゃないか。

結局その日は秋山は忙しさに紛れ、八神も粘着質では無いお陰で昼間の事をあれこれ蒸し返す事もなく過ぎ去ったのだが、翌日から八神は店でカクテルを振る舞うのを止めてしまったのだった。
店に出てこなくなったのはある意味ホッとしたのだが、その代わり頻繁に外を出歩くようになっていた。
それはそれで気にはなるのだが、自分が邪険にしたようなものだから仕方がない。
とは言え、寝床に入る頃になると急に理由が聞きたくなって、隣の布団でもそもそ動く八神の背中に問いかけた。

「八神さん、昼間何処に出掛けてるんですか」
「惚れた男の所だ」
「…え…っ?」

即答する八神の言葉に心臓が一瞬掴まれた。
そんな気配を感じた八神が片目を開いて秋山に振り向いた。

「へえ?さては気になってんのか」
「べ、別にそう言う訳ではっ」

八神はいきなり身を乗り出して秋山に口付けて来た。何が嬉しいのかヘラヘラしながら秋山の髪をぐしゃぐしゃにして、ほんの少しのスキンシップに心が蕩ける。
これが二十歳くらいの男の子ならそのままセックスになだれ込んでいるだろうが、そこは余裕のある大人。と言うよりも昼間の疲れに勝てないだけなのだが、八神は意外と紳士で、いくら自分が盛っていても秋山が許さない限りコトには及ばない。
いっそ、乱暴に奪ってくれたなら70%の壁に一穴が穿たれそうなものなのにと、秋山は他力本願で狡い期待をしたりもしているのだ。
秋山の問いはそのままになり、後々思うと上手く逃げられたような気もするのだが…。



そして今日も八神は足取りも軽く何処かに消えたのだった。

午後三時の開店時間になっても八神の姿はない。
開店を知らせる赤白青の回転灯に灯をつけに外に出た秋山は、商店街のメイン道路に出てみたが、人通りの少ないそこにもあの大きな影は見当たらなかった。

秋山が店に戻って来ると、空き家だった隣の店のシャッターが空いていた。
いよいよ借手が決まったのかと思い、秋山がチラと中を覗くと、熊のような作業服の男がぬっと現れ思わず後ずさる。

「あ、隣の理髪店の方ですか?明日から工事に入りますので、少々煩いと思いますがご勘弁ください」
「はぁ…、工務店さんですか…。あの、ここは何かお店になるんですか?」
「ええ、飲食店さんらしいですよ」

飲食店か。出前とか取れたら良いなとぼんやり思いながら秋山は店へと戻って行った。
客の居ない店はがらんとしてやたら広く感じる。
店はあれから黄色い声が飛び交うこともなく、男の色気がムンムン漂うこともなく、今までのような機能的で静かな仕事場が戻ってきたのだが、彼が居ない職場は秋山にとって何処か彩りに欠ける無味乾燥な場所へと変貌してしまっていた。



「なあなあ秋山、俺この前フライパンで作ってくれた茶碗蒸しがまた食いてえ」

不意に声。
秋山の脳裏に今朝の八神の声が聞こえた気がした。

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