痣の娘

綾里 ハスミ

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 パトリシアは庭園で、薔薇を鋏で切りながら、ぼんやりしていた。
「お嬢様どうかしましか」
「え?」
「さっきから、頻繁にため息をついていますよ」
「そうかしら?」
 無意識だった。
「疲れてるんじゃないですか?」
「そんな、大丈夫よ」
「でも、ちょっと顔が赤いですよ」
 パトリシアは自分の頬に触れる。確かに、なんだか熱っぽい気もする。
「疲れかしら……」
 無理はしていないつもりなのだが、どうも体調がおかしい。
「やっぱり、お医者に診てもらった方が良いですよ」
 オルガににらまれて、パトリシアはうなずくしかなかった。
「そうね、そうするわ」
 庭を離れて屋敷に戻る。執事に医者を呼ぶように頼んだ。ドレスを着替えて、ベッドに入る。
 そこに、扉をノックする音が聞こえる。
「パトリシア、いるかい?」
「えぇ、いるわよ」
 アレクサンダーが部屋に入って来た。
「なぁ、久々に今夜はオペラでも聴きにいかな……どうしたんだい?」
 ベッドに入ったパトリシアにアレクサンダーが驚く。
「少し熱っぽいみたいなの」
「それは大変だ! 早く医者を呼ばなきゃ!」
「大丈夫、もう呼んであるわ」
 パトリシアはアレクサンダーをなだめる。
「そ、そうか……」
 そして、アレクサンダーがパトリシアの顔を眺める。 
「確かに顔色が良くないね」 
「そうかしら?」
「そうだよ」
 パトリシアは考え込む。
「何か病気なのかしら」
「心当たりでもあるのかい?」
「少し体がダルいの」
「それは、大変じゃないか!」
 アレクサンダーがまた慌て始めた。パトリシアは苦笑しつつ、医者の到着を待つ。
 医者が着くと、すぐにパトリシアは診てもらった。触診してもらい、いくつか質問に答える。そして、彼は口を開く。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
 パトリシアは目を見開く。後ろで心配そうに聞いていたアレクサンダーも目を見開く。
「本当ですか!?」
「えぇ」
 アレクサンダーがパトリシアの手を握る。
「ありがとうパトリシア! ありがとう! 神よ感謝します!!」
 感極まった様子の彼に、パトリシアも笑みを浮かべる。
「安定期に入るまでは、あまり無理されませんように」
 医者はそう言って、部屋を出て行った。アレクサンダーはパトリシアの手にキスを繰り返している。
「あなた、名前を決めないといけないわね」
「そうだ! 名前だ! 二人で一緒に決めよう!」
 そうして、二人は生まれて来る赤ん坊の名前を考えるのだった。


 半年後、パトリシアのおなかは目に見えて大きくなっていた。
「本当に、赤ちゃんがいるのね……」
 それはなんだか不思議な気分だった。ベッドに横になり、隣にはアレクサンダーが居た。彼は愛しそうに、パトリシアのおなかを撫でる。
「ねぇ、パトリシア。俺は昔、湖で溺れた事があるんだ」
「え! そうなの?」
 突然の言葉に驚く。
「うん、本当に小さい子供の時の話しなんだけどさ。ナニー達に連れられて公園に遊びに行った時、公園に大きな湖があってね」
 パトリシアは、ピンと来る。
「ワルター公園の事?」
「そうそう」
 ワルター公園はパトリシアもよく行っていた公園で、公園の奥の森に大きな湖があった。
「小さかった俺はナニーと離れて、その湖に居てね。桟橋から、水面を見下ろしていたんだ。それでまぁ、ころっと水の中に落ちてしまった」
「だ、大丈夫だったんですか……?」
「泳ぎ方を知らなかったし、下に足もつかなかったら、パニックを起こしてしまってね。それで本当に溺れ死ぬと思った時、俺にロープが投げられたんだ」
 アレクサンダーはパトリシアの手を握る。
「『掴まって!』って声が聞こえて、俺はそのロープに必死で掴まった。そして、俺はロープでどうにか桟橋に戻る事ができたんだ。上がるのを手伝ってもらいながら。橋に上って驚いたよ、俺を助けたのは同じくらいの年の女の子だったんだ。俺は、怖かったからわんわん泣いてしまって、彼女は抱きしめて慰めてくれた。彼女の小さな手には、ロープで擦り切れた赤い傷跡があったのに、彼女は気にしていなかった。それから俺をナニー達が探しに来て、家に帰ったんだ」
 パトリシアは少し驚く。
「似たような思い出が私にも、そう言えばあるわ」
 湖に落ちた男の子を助けた事があった。しかし、助けるのに必死でその子の顔は覚えていなかった。
「それが、俺だよ」
「うそ……」
「あの時は男の子の格好をしていたし、その後君に会った時は女の子格好をしていた。君が覚えていなくても仕方ないさ。まぁ、とにかく俺は君に命を救われて、あの時俺を助けてくれた強い瞳を持った君に惚れちゃったわけさ」
 パトリシアは頬が熱くなるのを感じる。
「そんなの知らなかったわ」
「ずっと、黙っていたからね。でも俺の内緒話もコレで最後だよ」
 彼がパトリシアの顔を覗き込んで来る。
「本当に?」
「うん、本当に」
 アレクサンダーがパトリシアにキスをする。
「まだまだ、内緒にしている事がありそうだわ」
「もう、さすがに無いよ。後はそうだな、子供の頃君に貰った物を大事に取っている宝箱ぐらいかな」
「なにからしらそれ」
「今度、見せてあげるよ。アイスの包装紙までとってあるよ」
「まぁ!」
 二人はくすくす笑いあった。


***


 十ヶ月後、庭を散歩していたパトリシアは急な陣痛にみまわれる。すぐに寝室に運びこまれ、呼び寄せた産婆の力を借りて出産を頑張る。うーうーと唸って、長い時間をかけてついに生まれた。産婆に、我が子を抱かせてもらい、初めて母乳を与える。それは、とても心の動かされる感動的な光景である。
(私の赤ちゃん!)
 小さな我が子を抱いていると、自然と笑みが浮かび幸せな気持ちになった。すぐ部屋に、アレクサンダーが入って来る、
「パトリシア、大丈夫かい!」
 外で待っていた彼は、まだ青い顔をしている。
「えぇ、もう大丈夫よ。ほら見て、あなたとの子よ」
 一生懸命に母乳を飲む小さな命を彼に見せる。彼は目を見開き、我が子を見る。
「なんて、小さくて愛しいんだ」
 彼は震える指先で、赤子の手に触れる。
「女の子だったわ」
「女の子か……」
 ずっと名前を考えていたのだけど、実はまだ決まっていなかった。
「貴方さえ良いのなら、この子の名前は『アリー』にしたいわ。良いかしら?」
 パトリシアはおずおずと尋ねる。
「『アリー』か! それは、ちょっと照れるけど、もちろん構わないよ!」
 パトリシアはほほ笑んで彼と手を握る。
「アリー、貴方の名前はアリーよ。私達と一緒に幸せになりましょうね」
 パトリシアは、小さく優しい声でそう娘に語りかけた。


つづく

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