痣の娘

綾里 ハスミ

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 夜中に、隣で眠っているとパトリシアの呻き声でアレクサンダーは目を覚ました。明かりをつければ、彼女が苦しそうに喉を掻いていた。白い皮膚にできた爪の痕に、胸が痛む。
「パトリシア、息苦しいのかい」
 彼女がアレクサンダーを見てうなずく。
「大丈夫だよ、パトリシア。ゆっくり息をして」
 体を起こさせて、背中をさする。すると彼女は苦しそうに息をする。彼女の呼吸が落ち着くまで、アレクサンダーは彼女の背を撫で続けた。彼女が寝た後、日が上ってもアレクサンダーはずっと一緒にいた。目を離した隙に彼女が死んでしまうように思えた。
「パトリシア、お水飲むかい」
 目を覚ますと、水を差し出して飲ませる。しかし、一口飲むとすぐに吐き出してしまう。
「ごほっごほっ」
「ごめん、無理させたね。大丈夫だよ」
 彼女の背をさすり落ち着かせる。
―かわいそうなパトリシア、こんなにやつれてしまって……。
 看護をする中でアレクサンダーの胸にわくのは、恐怖だった。彼女を失ってしまうかもしれないと言う恐怖で叫び出してしまいそうだった。
「パトリシア、大丈夫だからね。きっと、良くなる」
 自分に言い聞かせるように彼女を抱きしめ、背を撫で続けた。
 そして二日後、ようやく彼女は水を飲めるようになった。顔色は相変わらず悪かったが、ようやく離脱症状から抜けたようだった。
「パトリシア……」
 彼女の手を握る。すると、弱い力で彼女が握り返してくれた。それだけでアレクサンダーは胸が潰れる程の喜びがある。
―パトリシアが生きている……!
 彼女をそっと抱きしめて、頬にキスをした。
「ごめんなさい……」
 それが一番最初にパトリシアが口にした言葉だった。アレクサンダーは、その言葉の意味がわからずしばらく呆然としてしまった。
「私のせいで、あなたに迷惑をかけてしまったわ……やっぱり私は、結婚なんてするべきじゃなかったのよね……」
 さらに告げられる言葉にアレクサンダーの思考が混乱する。パトリシアが一番最初に口にする言葉は『ありがとう』だと思っていたので、その混乱も仕方無いだろう。
「私は、子供の頃に悪魔が憑いていました。祓ってもらったのだけど、その悪魔が復活してしまったそうよ……」
 彼女は遠い目をする。
「だから、離縁しましょう」
 告げられた言葉の意味がわからず、アレクサンダーは口を開いて何か言おうとしたが喉が引きつって言葉にならなかった。
「ごめんなさい……」
 再び彼女はその言葉を繰り返す。アレクサンダーは、叫び出したい激情にかられ、まずその感情を押さえ込むのに苦労した。その後は、彼女の言葉の意味と彼女の思考を理解するのに時間がかかった。
―自分に悪魔が憑いていると思っているから、俺と離縁すると?
 長い沈黙の後、アレクサンダーは口を開く。
「断る。俺は君と別れるつもりはない」
「アレクサンダー……!」
 彼女が眉を寄せる。
「まず、君に悪魔なんて憑いていない」
「でも……!」
「憑いていないんだよパトリシア。あれは、あいつらの妄信だ。君はただ麻薬漬けにされて、急性麻薬中毒になっていただけだ」
 パトリシアが黙る。
「あいつらには相応の罰を与えるから安心してくれ……それよりも」
 アレクサンダーは頭痛のする額を押さえる。   
「俺の愛は君に伝わっていなかったのか」 
 パトリシアが目を見開く。
「例え君に本当に悪魔が憑いていたとしても、俺は君を手放すつもりはない」
 彼女を見る。
「……ごめんなさい」
 するとパトリシアは震え、小さな声で謝った。それがさらにアレクサンダーにはつらかった。
「それとも、君にとって俺はその程度だったんだろうか……」
 別れないでくれと言ってくれたなら良かったのに。けれど、彼女はあっさりとアレクサンダーとの離縁を口にした。
「……」
 彼女は口を開いて何か言おうとして、しかし唇は震えるだけで何も言ってはくれなかった。アレクサンダーは、崖から突き落とされたような気分だった。
「……すまない」
 彼女から離れ、部屋を出た。その背に言葉が投げかけられる事はなかった。
 一人、書斎でソファに座って酒の入ったグラスを片手に物思いにふける。彼女の側にはメイドを一人付けた。何かあれば、メイドが呼ぶだろう。
 机の上に置いたシガレットケースから細巻きの葉巻を一本取って、口にくわえる。火をつけて軽く吸い込む。
「ふーーー」
 ランプ一つつけただけの薄暗い部屋に、白い煙が漂った。酒も葉巻も普段は全くやらなかったが、今回ばかりはこの緩和剤達が必要だった。葉巻の煙で、つらい思考を曇らせる。
「彼女は俺を愛しているか……」
 ぽつりとつぶやく。
―愛してはいるだろう。
 パトリシアは、アレクサンダーを愛している。トリッシュがアリーを愛していたように。
「それは、俺と同じくらいか……?」
―それはどうなんだろうな……。
 その疑問は、以前からうっすらと感じていた事だった。アレクサンダーは彼女を愛していたので、必死で彼女を探して結婚までたどり着いた。けれど、それ程の愛をパトリシアはアレクサンダーに抱いているのだろうか。いや、それでも良いと最初は思っていたのだ。彼女の愛がそこまで大きくなくても、彼女が自分の側に居てくれるなら。しかし、彼女はあんなにもあっさりとアレクサンダーの手を離そうとした。
 アレクサンダーは顔を覆う。肉体的にも、精神的にも痛みには強いつもりだった。けれど、今のアレクサンダーの胸は剣で貫かれたように痛かった。
 一夜空けて、アレクサンダーは酒の瓶を空にしていた。結局、全く酔う事はできず、無駄に時間を使っただけだった。けれど、気持ちは多少落ち着いた。諦めがついたとも言えるかもしれない。
―例え彼女が、俺の事を強く愛していないとしても……俺は彼女を愛している。それで良いじゃないか。
 それがアレクサンダーの結論だった。そろそろソファから立ち上がろうかと思った時、開け放たれた書斎のドアの前に白いネグリジェを着たパトリシアが立っているのに気づいて飛び起きた。
「パトリシア!!」
 アレクサンダーは慌てて、彼女の側に寄る。
「ダメじゃないか立ったりしちゃ、まだ君は本調子じゃないんだから」
 二階から下りて来るのは、つらかっただろう。
「アレクサンダー……」
 彼女がおずおずと、何かを差し出して来る。それは、赤い表紙の本だった。表紙に鍵がかけられている。
「これは?」
「私の日記帳よ……小さい時からずっと書いていた物なの」
 一緒に鍵を差し出される。
「読んで」
「良いのかい?」
「えぇ。『愛の証明』をする方法を考えたのだけど、私にはこの方法しか思いつかなかったわ」
 アレクサンダーが日記帳を手に取ると、彼女が手を離す。そしてそっと離れて、二階へ登って行った。
「……」
 アレクサンダーは渡された手帳を見る。
「旦那様……」
 離れた場所に居た執事が、声をかけて来る。
「朝食はどうなさいますか」
「あぁ、食べるとも」
 こんな状態だが、腹は減っていた。日記帳を書斎の机に入れて、アレクサンダーはいったん朝食をとりに行った。サラダを食べ、ゆで卵を食べて、ベーコンを食べる間も頭には先程の日記の事が思い浮かんでいた。
―あれには、一体何が書いてあるんだ。
 小さい頃から書いている日記だと言っていた。
―なら、あれは彼女が『トリッシュ』と呼ばれていた頃の日記なのか……。
 食事を終えて、ナプキンで口を拭いて立ち上がる。やや足早に、書斎に戻る。引き出しから、日記帳を取り出す。渡された鍵を鍵穴に差し込むと、カチャリと音がする。
秘密の扉を開くようだった。
「……」
 日記帳を手に、一人がけのソファに座る。表紙を捲り、数枚紙を捲ると日記が始まる。
『親愛なるアリーへ』
 日記の一文はそう始まっていた。思わず辺りを見渡す。誰も見ていない。顔を戻して、続きを読む。
『親愛なるアリーへ。日記帳を買いました、せっかくだから会えない貴方に手紙を書いている形で書きたいと思います。貴方になら、なんだって素直に話せる気がするの』
 その短い文章を、アレクサンダーは何度も目で追い、指でなぞった。なんと、愛のこもった言葉だろうか。そこには、アレクサンダーがアリーと呼ばれていた頃に抱いていたのと同じ親愛が込められていた。
 ページを捲ると、毎日数行の日記が続いている。それは全て、『親愛なるアリーへ』と言う言葉で始まっているのだった。
『親愛なるアリーへ 今日はおねしょをしてしまったの、内緒よ』
 その文章にアレクサンダーは笑みをもらす。
『親愛なるアリーへ ナニー達はみんな、兄の世話ばかりにかまけて、ちっとも私を見てくれないから寂しいわ』
 その文章にアレクサンダーは顔を曇らせる。
『親愛なるアリーへ 今日はナニーがブラシをかけながら、私の髪を強く引っ張ったわ。どうして、あんな事するのかしら』
 アレクサンダーの顔はますます暗くなった。
『親愛なるアリーへ たまに食事に、変な物が混ざっているの。たまたまかしら、わざとなのかしら。どちらにしろ、食事の時は混ざった小さなゴミを選り分けるのが大変です』
 アレクサンダーは一旦、日記帳を閉じて深く息を吸い込んで吐いた。日記には、彼女が幼い頃に置かれていた環境が恐ろしい程に赤裸々に書かれていた。そしてそれはアレクサンダーがたまに、彼女に聞かされていた内容とも被る物だった。彼女はずっと虐待されて育って来たのだ。わかっていた事だが、その事実は酷くつらく、胸を突くものだった。今すぐ彼女の元に行って、抱きしめてやりたかった。アレクサンダーの感じている絶望なんて、彼女の受けた痛みに比べれば大した事はない。
 立ち上がろうとして、しかしアレクサンダーは座った。せっかく彼女が過去を教えてくれるなら、全て読もう。
 再び、日記のページをめくる。
『親愛なるアリーへ 服を作る時に、体に針が刺さるのはわざとなのかしら?』
『親愛なるアリーへ 兄のベッドは毎日のようにシーツが代えられるのに、私のベッドシーツはいつまで経っても代えられないのはなぜなのかしら』
『親愛なるアリーへ ナニー達は、私の事が嫌いみたい。近づくと怖い顔をするの』
 日記には、虐待の記述が続く。
『親愛なるアリーへ お父様は私が嫌いみたい。お客様がいらっしゃると、兄様は下に呼ばれるのに私は呼ばれないの。絶対に出て来るなと言われたわ。どうしてかしら』
『親愛なるアリーへ お母様も私の事が嫌いみたい。お兄様には優しいのに、私の顔を見るとお母様はいつも怒るの。髪を整えなさい、ちゃんと服を着なさい、お行儀よくしなさい』
『親愛なるアリーへ お兄様も私の事が嫌いみたい。たまにお兄様が私のところにやって来るのだけど、それはいつもイタズラするのが目的なの。ベッドの中に、虫の死骸が入っていて悲鳴をあげてしまったわ』
『親愛なるアリーへ 貴方に会いたいわ。どこにいるのかしら、貴方が公園に姿を見せなくなって一年以上経ちました。私の生活は変わりません、毎日つらいばかり。アリー、貴方に会いたいわ。貴方に会えたら、私少しはつらさが忘れられると思うの』 
 アレクサンダーはその一文を読んで、涙が落ちるのを感じた。小さな彼女が必死に自分に、助けを求めているのがわかった。この頃、アレクサンダーは十才になって寮へと入れられていた。だから、公園に行けなくなっていたのだ。
『親愛なるアリーへ どうやら私は、醜い子供みたい。私の顔には大きな痣があって、それが彼らを恐れさせるのね』
 日記帳に珍しく絵が書かれていた。それは、彼女の痣の形を描いた物だった。
『親愛なるアリーへ 今日、部屋の暖炉の火が燃え移って部屋が半分燃えました。今日から私はしばらく客間に寝る事になります』
 ランドリーメイドの話を思い出す。
『親愛なるアリーへ みんなが私の側から離れて行きます。なぜかしら』
 そして、数日日記が抜けた。
『親愛なるアリーへ しばらく怪我で動けなかったの。ごめんなさいね。三日前、私は知らない場所へ連れて行かれました。とても暗い部屋でした。そこで私は悪魔が憑いていると言われました。だから、みんな怖がっていたのね。それで、黒い司祭様は私から悪魔を祓ってくれたそうです。凄く痛かったけど、これで私の悪魔は祓われました。だから、もう何もつらい事は起きないわ』
 アレクサンダーはその日記を、指でなぞり、何度も読んだ。気が狂うようだった。純粋な子供を掴まえて、悪魔が憑いているなどと嘘をついた大人達への怒りで叫び出しそうだった。彼女はイケニエに選ばれたのだ。この新興宗教団体は、自らの団体の力の正しさを証明するために小さな子どもに罪を押し付けたのだ。そして彼女は、自らの悪魔が祓われたのだと喜んだ。これで、平穏な生活ができるのだと。
『親愛なるアリーへ 私の悪魔はまだ祓わていないみたい、毎日のように知らない大人が来て私の体を調べて行きます。私の悪魔はいつ祓われるのかしら』
 アレクサンダーはつらい気持ちになりながら、ページを捲る。
『親愛なるアリーへ 今日から家庭教師が私につきました。語学と、数学と、マナーを習っています。いずれ、すてきな淑女になるために必要な事なんですって』
 しばらく、勉強についての報告が続く。
『親愛なるアリーへ 少し間違うと家庭教師は、私の手をつねります。酷い時は鞭で打ちます。おかげで私の手の甲は、たくさんの鞭の痕で赤く腫れています』
『親愛なるアリーへ 書斎に置いてある本を読むのが、私の密かな楽しみです。でもお父さまに見つかると怖いので、みんな見ていない時にこっそりと本を取りに行きます。私は、家ではいつも息を殺して生きています。そうするのが一番、安全だからです』
『親愛なるアリーへ 十一才になりました。兄は、大きな誕生日パーティーを開いてもらったみたいだけど。私は一人で静かに過ごしました。でも、ランドリーメイドがお人形を作ってくれました。赤いフロント帽子を被った金の髪に、青い目の貴方によく似たお人形よ。だから私は、この子にアリーと言う名前を付けました。私のアリー、お休みなさい』
 アレクサンダーは、「私のアリー」と言う一文を指でなぞる。
「俺のトリッシュ。叶うのなら、君を抱きしめに行きたかったよ」
 アレクサンダーが側にいれば、彼女にこんなにつらい思いはさせなかっただろう。
『親愛なるアリーへ 私に良くしてくれていたランドリーメイドが辞めたようです。どこへ行ってしまったのかしら』
『親愛なるアリーへ 最近、庭によく出るようになりました。庭師の人達に会いに行くの。それに、庭師の子に、私と同じくらいの年の子がいるの。名前はオルガ。彼らは、他の使用人達とは違って私に普通に接しくれるの。避けたり、怖い顔したり、叩いたりしないのよ。だから私は庭師の皆が大好き』  
 アレクサンダーは笑みをもらす。
『親愛なるアリーへ 今日は庭師のみんなと薔薇を植えたわ。春になったら、蕾をつけて花を咲かせてくれるそうよ。すてきね』
『親愛なるアリーへ 庭師のオルガに、花束を貰ったわ。私、誰かにお花を貰うの初めて!』
 日記を読みながら、額に皺が寄るのを感じた。
『親愛なるアリーへ 庭師のみんなと、庭の設計を一緒に考えるようになりました。お庭作りってとっても楽しいわね』
 しばらくは、勉強の話と庭作りの話が交互に続く日記が続く。相変わらず使用人や家族の彼女への扱いは酷かったが、それでも少しはまともな生活を送っているように思えた。
『親愛なるアリーへ 十五才になりました。一年後には、私も成人です。そうしたら、髪を上げて長いドレスを着て社交界デビューしなくてはいけません。でも、私はその時が怖いのです。私はすてきな方と結婚できるのかしら?』
 アレクサンダーはページを捲る。
『親愛なるアリーへ 私は毎日レッスンを頑張っています。けれど、母は毎日怒ってばかり、来るべき社交界デビューに向けて準備を整えているのだけど、母は私の顔の痣がどうしたら隠れるのかいつもイライラしながら考えています。すてきなドレスを着ても、輝くネックレスを付けても私の痣は目立つばかり』
『親愛なるアリーへ 母は、いろいろなところから白粉を仕入れて来たわ、私の顔に塗ります。残念ながら、私の顔から痣は消えません。最近は痣を消すお薬などを塗ったり飲んでいるのですが、皮膚が痒くなったりおなかが痛くなるばかりで痣は消える様子もありません』
『親愛なるアリーへ。母がヒステリックに叫んでいます。私は怖くなったので、お庭に逃げて来ました。母の機嫌が落ち着くまで、庭の隅に隠れている事にします』
 アレクサンダーはため息をつく。
『親愛なるアリーへ ついに今日、私は十六才になりました。成人です! けれど、家族は誰も祝ってはくれません。その代わり、庭師の一家が私に花のケーキをくれました』
『親愛なるアリーへ 成人したけれど、私の社交界デビューはできていません。女王様のいらっしゃる宮殿に、ご挨拶へ向かわなければいけないのですが、いつまで経ってもその返事が来ないのです』
『親愛なるアリーへ 宮殿からお返事が来ました。私が宮殿に行って女王様にお会いするのは、ダメなようです。私の痣が不吉過ぎるのだとか』
『親愛なるアリーへ 正式に社交界デビューできなかった私は、無為に毎日をお屋敷で過ごしています。成人したのなら結婚しなければいけないのだけど、私には結婚相手を探す機会が無いのです』
『親愛なるアリーへ 母が、仮面舞踏会の招待状を持って来ました。これなら、私も出席できるそうです。なにしろ、顔を隠す事ができますから』
『親愛なるアリーへ 舞踏会ってすてきね。きらびやかな人がたくさん居て、みんな楽しそう! おまけに、誰も私を見て気味悪がらないのです。だって、痣を隠していますから』
『親愛なるアリーへ あなたはどうしてるのかしら。私は仮面舞踏会に行く度に貴方を探しています』
『親愛なるアリーへ ダメね、私ったら。結婚相手は見つかりません。だって、顔を隠して深いお付き合いなんてできないもの』
『親愛なるアリーへ 私が二十になっても結婚相手が見つけられたなかったら、私を修道院に入れると兄は言っています。その日がとても怖いの』
『親愛なるアリーへ 私を愛してくれる人はいるのかしら、どこにもいないのかしら。最近は、少し疲れてしまいました。修道院へ行くのも良いように思っています』
『親愛なるアリーへ 私は貴方の事をまだ想っているけど、貴方はもう忘れてしまったかしら。それも仕方のない事ね。あなたの幸せを願っているわ』
『親愛なるアリーへ ついに明日、修道院へ行く日です。二十になっても私は誰とも結婚できませんでした』
『親愛なるアリーへ 今日、兄がとある貴族の元へ私を連れて行きました。その方は、金の髪と青い瞳をした背の高いとってもかっこいい方でした。そして驚く事に、彼は私に求婚をしたのです!』
 アレクサンダーは思わず、日記帳を閉じる。部屋の周囲を見渡す。当たり前だが、誰もいない。自分の熱くなった頬を押さえる。小さい頃から書いている日記帳だと言っていた。それはつまりアレクサンダーに会った後の事も書かれていると言う事だ。アレクサンダーは気持ちを落ち着けて、再び日記帳を開く。
『親愛なるアリーへ 彼は「痣のある娘と結婚すると運が開く」と言う占い師の言葉を信じているようです。だから、私と結婚してくれるのだとか。なんだか、それは寂しいわ』
『親愛なるアリーへ 彼は「痣」以外の私も見てくれる方のようです。その事に気づいた私は、天にも昇るような気持ちでした』
『親愛なるアリーへ 屋敷は彼との結婚式で大忙しです。試着でウェディングドレスを着ました。美しい白い布地を身にまとうと、なんだか不思議な気持ちになります。私は本当に結婚するのです』
『親愛なるアリーへ 結婚式をあげました。互いの親戚を呼んだだけの、小さな式です。けれど、とても幸福な結婚式でした』
『親愛なるアリーへ 始めて男性と夜をともにしました。とても恥ずかしかったです』
『親愛なるアリーへ 貴方に会いたいです。貴方はどこにいるのかしら』
『親愛なるアリーへ ハネムーンへ出かけました。異国の地のなんと魅力的な事。旅行に行った事のなかった私にとって、どれも珍しい物ばかりでした』
『親愛なるアリーへ 私の夫の名前はアレクサンダーと言います。正直彼は、見れば見る程かっこいい方です。きっと、「痣」なんて条件が無ければ、もっとすてきな娘と結婚できたでしょう。ですから、私も彼の名に恥じないように努力したいです』
『親愛なるアリーへ 悲しい報告があります。私は、社交界で失敗しました。やはり髪を下ろしているのは失礼にあたるようです。彼に申し訳ないので、今後は欠席する事にしました』
『親愛なるアリーへ 一日中屋敷にいると暗い気分になります。いずれ彼も私を、遠ざけたくなるかもしれません』
『親愛なるアリーへ 庭作りを再び頑張る事にしました。庭師のオルガと協力して、すてきな庭にしたいです』
『親愛なるアリーへ アレクサンダーの弟のユーリスさんは変わった方みたい。お話すると面白いわ』
 アレクサンダーは日記帳を閉じる。
 ユーリスと、オルガの名前が日記に出て来た瞬間、自分の腹の中にマグマでも煮え渡っているような気持ちになった。日記を飛ばして、二人の記述が無いページまで飛ぶ。
『親愛なるアリーへ いいえ、あなたはアレクサンダーだったのね。驚きました。本当にびっくりして、今も呆然としてるの』
『親愛なるアリーへ 驚きの告白を聞いて時間が経って、私の中には静かに喜びの気持ちがたまっています。アリー! 私のアリー! 貴方ともう一度出会えて嬉しいわ!! 私を探してくれてありがとう!!』
 アレクサンダーは目を見開く。その言葉は、アレクサンダーが欲しかった言葉だ。
『あなたがどれ程の時間をかけて私を探してくれたのかを思うと、私は幸福で体が震えます。だって、貴方は私が孤独に震えている時も私を愛していてくれたのだから。ありがとうアリー、少しでも貴方の愛に私は報いたい、どうすれば、貴方の愛に応えられるのかしら』
 そこから日記は空白のページが続く。
『親愛なるアレクサンダー 私は貴方を深く愛しています。この心を見せて差し上げる事ができたら良いのに。でもそれができないので、私はこの日記を貴方に捧げます。私の愛を見てください』
 最後のページにそう書かれていた。
 アレクサンダーは日記帳を閉じて、呆然とする。気づけば、日が落ちて夕方になっていた。長い時間彼女の日記を読んでいたのだ。アレクサンダーはいても立ってもいられなくなって、彼女の元に走った。
「パトリシア!」
 ベッドに座る彼女を抱きしめる。
「アレクサンダー……読んでくれた?」
「読んだとも!」
 アレクサンダーは彼女の顔を見る。
「俺も君を愛している」
「えぇ、知っているわ。私も貴方を愛している」
「……あぁ知っている」
 彼女の背を抱く。
「ごめんなさいアレクサンダー。私は、貴方に迷惑をかけたくなかったの。だから、離縁するべきだと思った。けれど、それは貴方を裏切る言葉でもあったのね」
 パトリシアが、アレクサンダーにささやく。
「いや……君の優しさを汲んでやれなかった、俺が悪いんだ。すまない……」
 互いに体を優しく抱いて、心が深いところで混じり合ったように思えた。
「アレクサンダー……貴方が私を愛しているように、私だって貴方の事を深く愛しているのよ」
 パトリシアが顔をあげて、アレクサンダーを見つめる。
「あぁ、あぁ、そうだとも。ありがとうパトリシア」
 疑いの心は晴れて、ただ彼女を愛しいと思う気持ちだけが溢れた。
「幼い君の日記は胸に痛かったよ。俺が側に居たなら、君を抱きしめてあげられたのに」
「……ありがとう。今、こうして貴方が抱きしめてくれているから、もう大丈夫よ。小さな私は救われたわ」
―彼女を幸せにしよう。
 何度も何度も願いのように思い浮かぶ言葉が、再び胸の内にわく。それは、さらに重く強い物となってアレクサンダーの胸に刻まれた。誓いはけして、破られる事はないだろう。


つづく

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