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1巻
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もう十六歳だし、子供扱いされたくはない。たしかに一人で暮らせるかは不安だけれども、知らない人になんてついて行かないです!
「いやあ……これは御者のハンセンのお手柄だわ」
「こんな純粋な子が一人でうろついていたら、すぐに騙されるだろうな」
「だろう? 俺はそういうことによく気が付くんだよ」
ぐるりと振り返って御者さんまで他の人に同意してしまった。馬車の中では笑いが起きて、私もつられて笑ってしまう。
ふと、馬車の後方、進んできたほうへ視線を向ける。
今はまだ聞こえないけれど、きっと明日、起こる。私が国を出たのだから。きっとリアム王国では、とんでもないことが起きるはずだ。
でも深く考えることはやめた。
あの国がどうなっても……ノエル様やお姉様がどうなっても、ランドレイ家がどうなっても……私にはもう関係のないことなのだから。
馬車は不穏な雰囲気を漂わせる夜の森を走り、リアム王国とレッセルバーグ国との国境付近に着いた。
国境は森に囲まれている。聞き慣れた人々の喧騒はなく、ガラガラと大きく鳴り響く車輪の音や、風に揺れて葉が擦れる音が耳に入る。
時折聞こえる動物の遠吠えと、驚いて飛び立つ鳥らしきものの影。
王都で暮らしていた私は、全て初めて見聞きするもので……思わず不安と恐怖でスカートをぎゅっと握り込んだ。
「大丈夫よ、そのために私たちがいるんだから」
「ありがとう……ございます」
魔法使いさん――メリンダと名乗った女性は笑って、私が膝の上で握り締めていた手に手を重ねる。彼女の手のひらはほっとする温かさだった。
……本当に一人じゃなくてよかった。夜の森がこんなに怖いなんて知らなかった。
「見えた、国境警備所だ」
御者さん――ハンセンさんの声が聞こえた。
ここを越えて、私は生まれ育った国を出ていくんだ。それを意識すると、不安が大きく膨れ上がって襲い掛かってくる。
……どうしよう、私は一人で大丈夫なんだろうか。怖い、とても怖い……
揺れる馬車の中で戦士さん――カールさんが窓に手をかける。走る馬車の窓を開けるのは危険だと本で読んだけれど、彼は何の躊躇もなく窓を開けた。そしてさらに危ないことに、窓から半身を出し、遠くにある国境警備所に向かって大きく叫んだ。
「おーい! そっちの国に入れてくれ‼」
「は⁉」
国境の警備員さんたちの驚きの声が聞こえる。
「な! お前、そんなこと言っても身分と許可証を――」
「俺が入れろって言ってんだから入れろ! ほらこれ!」
カールさんは何かのカードを取り出して、遠くから警備員さんたちに見せる。どうやら冒険者証らしいが、なんだかとてもキラキラしている。冒険者証というものを初めて見たのだけれど、すごく綺麗で、思わず見入ってしまった。
「S級冒険者のカールだ!」
「カール? あの『双大剣のカール』か!」
カールさんの声を聞いて、警備員さんたちはすぐに道を開けた。
カールさんが警備員さんたちにお礼を言っている最中も馬車は速度を落とすことなく、私たちはあっさりと国境を越えてしまった。
S級という肩書きもそうだが、警備員さんたちとのやりとりを見るに、もしかしてカールさんってすごい実力者なんだろうか?
そんなことを思っていると、馬車が停まった。
本で読んだ限りでは、国境を越える時には身元確認や持ち物検査があるらしい。
でもそういうのは国境を越える前にやることで、通ってからではなかったはず。検査を後回しにしてまで、こちらの国に入りたい理由がカールさんにはあったのだろうか。
馬車の中で何が起きるのかとドキドキしていると、カールさんは慣れた様子で馬車から降りて、集まってきた警備員さんたちと話し始めた。
……やはり国境の越え方が普段とは違ったのだろうか。警備員さんの表情は芳しくない。
隣に座るメリンダさんは呪文のようなものを呟くと、誰かと話をし始めた。
「なぁに、皆に任せておけば問題ないですよ。カールさんはガサツだけど、ああ見えて頼りになりますから。よろしければ、歌でも歌いましょうか? 私の歌を聞けば大抵の魔物も一発で眠りにつきますよ、味方もだけど」
吟遊詩人さん――トリルさんが呑気に欠伸をしながら言うので、私は緊張がほぐれた。だが楽器を取り出して歌いそうだったので、それはやめてもらった。
そんなことをしていると、メリンダさんが話を切り上げて、カールさんに手を振る。
「カールさん、グラナッツ爺と連絡取れた~! この子に会わせろってさ」
「グラ爺か、いいな。兄ちゃんたち、無理に通って悪かったな。ちょいと訳アリでね……責任はグラナッツの爺さんが取ってくれるから、兄ちゃんたちは心配しなくていい」
少しだけざわざわしていた警備員さんたちは、顔を見合わせやれやれといった表情を浮かべる。さらにカールさんの大声を聞きつけて、警備員さんたちの詰所のような場所から、偉そうな身なりの大柄な男性がのそりと出てきた。
出てきた人はおっとりとした熊のようにも見えるけれど、きっと強い人なんだろう。男性は私やカールさん、皆さんの姿を一瞥して「ふむ」と一つため息をついて腕を組んだ。
「カールさんの連れなら通さないわけにもいかないが……急ぎなのか?」
「ああ。隊長さん、実はな……」
カールさんは隊長さんと呼んだ大柄な男性に近づき二言三言耳打ちをしたが、それを聞くなり隊長さんはすぐに頷いた。
「なるほど、なら歓迎だ。目的地までどうぞお気をつけて」
隊長さんは、笑顔で手を振ってくれた。どうやら怖い人ではなかったようだ。
「ありがとうございます!」
私もお礼を言うけれど、カールさんが戻ると馬車はすぐに走り始め、それ以上話はできなかった。馬車から身を乗り出し隊長さんを振り返ると、途切れ途切れに声が風に乗ってきた。
「近々お客さんが来るかもしれん、気を抜くなよ!」
「はっ!」
お客さん……一体誰なんだろう。国境は人がたくさん通過するし、こんな夜中でも高貴な人が来るのかな……?
それにしても、国境越えは想像以上にあっさりで、拍子抜けしてしまった。カールさんがここの隊長と知り合いだったようだから、きっとそのおかげで簡単に通れたんだろう。
他の冒険者さんたちも強そうで頼りがいがあるし、私はとても幸運なんだ、と馬車に揺られながら、私はしみじみと実感していた。
◆◇◆
そうして私たちは、メリンダさんとカールさんが話していた「グラナッツ爺さん」という方のお家――いえ、お屋敷に着き、豪華な応接間に通された。
お屋敷の内装や調度品は……どれも洗練されていて高価なものばかり。
侯爵邸にも家具や絵画、置物などは値の張るものが置いてあったけれど……このお屋敷はなんというか、格が違う。
廊下に置かれている飾り壺も、廊下にかかっている絵画もすべて一流のもので、王宮にあってもおかしくないものばかりだ。
そして私たちが通された応接間もまたすごい。
座ってくれと言われて腰を下ろしたこのソファも相当高級品ですよ、これ!
座り心地は柔らかすぎず、かといって硬い訳でもない。しかも使ってある表材が一流のものなので、手触りがとてもいい。腰を下ろすのをためらうほどだ。
目の前にいるおじいちゃんは、そのソファにどっかりと座り、私に優しげな視線を向けた。
「さて、このお嬢さんがリアム王国の天才薬師、マーガレッタ・ランドレイさん、かのう?」
「あ、あの……私はたしかにリアム王国に住んでいたマーガレッタですが、天才ではなく、ただの薬師で……」
天才薬師って誰ですか? 私はポーションの類しか作れません。
「ほ……?」
おじいちゃん――グラナッツさんは、目を丸くする。驚くグラナッツさんはなんだかとっても可愛らしくて見ていて飽きない。
グラナッツさんは年配の方で、真っ白い髪を後ろに撫でつけている。貫禄があるのに笑い皺のある目元がとても優しいおじいちゃんだ。
お年のせいもあるのか、ちょっとだけ身長が低く見えて、それが可愛らしさに拍車をかけている。
「グラ爺。どうやら『知らぬは制作者ばかりなり』みたいだぜ。この花がついてるポーションが、普通のポーションの五十倍の値がついてるのを知らなかったし」
「いや、カール坊。我が国レッセルバーグではその二百倍の値段が普通じゃよ。特級ポーションにいたっては王家に献上するレベルじゃ」
カールさんが自分の鞄から取り出した初級ポーションには、マーガレットの花の刻印がある。それは間違いなく私が作ったものだ。
でも私のポーションが二百倍の高値になるなんてある訳がない。
あ、そうか。二人とも私が小娘だからからかっているんだ!
そっちがその気なら、からかってみましょうか。
私だってやる時はやるんです。
「あら、そんなにお高いなら、手持ちのポーションを買い取ってもらえませんか?」
通常の二百倍なんて値段で売れたら私は大金持ちになってしまうし、王家に献上とか本当にあり得ない。
毎週何百本もお父様が卸していてその全部が家の収入になっていたから、私には一ゴールドも入ってきたことはないから値段は良くわからないけれど……
そんなに高額だったのなら、少しくらい私にお小遣いをくれるはずだ。
私は家を出る時に持ってきた在庫のポーションを、コトリ、コトリとこれまた高級な一枚板のテーブルの上に並べていく。テーブルに傷をつけないように、ゆっくりゆっくりと。
しかしその私の気遣いもむなしく、カールさんとグラナッツさんは勢いよく立ち上がった。ガタガタとテーブルの上のポーションが倒れてしまった。
テーブルに傷がついてしまう!
「ポ、ポーションを持ってるのか⁉ 買う! 全部俺が買う!」
「カール、黙れ! わしが全部買うんじゃッ‼」
「ひぃっ⁉」
な、なんですか、二人とも。急に目の色を変えて立ち上がって怖いです!
私は彼らの迫力に竦み上がり、持っていたポーションを手から滑らせた。
「あっ!」
「うわああああああああ! 俺のポーション!」
ポーションが床に叩きつけられる前に、素早い動きでカールさんがキャッチして事なきを得た。けれどカールさん、私のポーションです、それ。
「特級が二本に……最高級が五本、高級が十本、残りは初級が十本……グラ爺、半分――」
「馬鹿抜かせ、もう少しわしに譲らんかい」
「いや待て、俺らはこれからこれが必要になるんだよ」
「いやいや、特級はすぐ王宮へ持っていく。妃殿下が体調を崩して久しいからのう……」
あれ、さっきのは冗談なんですよね?
ポーションの取り分を相談している二人があまりにも真剣で、笑いが引っ込んでしまった。なんだか怖くなってきて、私は恐る恐る二人に声をかけた。
「あ、あの……」
「すぐ金を持ってくるから、安心してくれ。いやまさかやっぱり売りたくないとか⁉ 頼むよー、実物を出しておいてそりゃないだろう?」
カールさんが頭を抱えて慌てる。そして、テーブルの上に並べたポーションを太くて長い両腕で囲う。
いや、別に売りたくないとかは言いませんって……
「いえ、そうではないのですが」
「では遠慮なく! ウェルス、金を持ってきてくれ。しかしこれを全部金にするとかさばるのう……マーガレッタ嬢、どこかのギルドの通帳などは持っておるかね?」
グラナッツさんも、優しくそう言うけれど、目だけは真剣だ。本当に冗談……じゃないんでしょうか……
私のお金はすべてお父様が管理していたから、通帳は持っていない。それにしても、かさばるほどのお金って一体いくらなのだろう。
私は首を横に振って答える。
「申し訳ありません。実はそういうものを持っていなくて……」
「では早急に作ったほうがいい。マーガレッタ嬢に支払うポーション代は少しの間、我が家で預かっておこう。ウェルス、証書用の紙とペンを」
グラナッツさんがそう言うと、グラナッツさんの執事、ウェルスさんが、明らかに高そうな紙とペンを持ってくる。
そしてその紙に見た事もない桁の金額をサラサラと書いた。
私は一瞬で大金持ちになったみたいだけど、実感がない。こんな大きなお金、生まれて初めて手にするし……
でもそんなことより、私は自分自身の今後についてのほうが気になっている。
この国では、私は受け入れてもらえるだろうか。
こんなに大量のお金があったら、しばらくはどこかの宿に泊まれると思うけど、それも一生は続かないだろうし……
「あの……」
私の不安が伝わったのか、私を見ていたカールさんはハッとして、グラナッツさんを見た。
「あ、グラ爺! ポーションに夢中になって俺たちお嬢さんの話を聞くの忘れてるぜ」
「おお、そうだった! すまん、マーガレッタ嬢。……どうかマーガレッタ嬢の身に何が起こったか教えてもらえんじゃろうか……必ず力になるぞ」
二人の優しい視線に、どうしようか、悩んだ。私はこの国に知り合いがいないから、頼れるのはグラナッツさんやカールさんたちだけ。
皆さん初めて会った人たちだけど、なんとなく信じられそうだと思ったから、私の身に起きたことを話すことにした。
話すうちに二人の表情がどんどん曇っていく。
「……なんと、リアム王国の有名貴族、ランドレイ侯爵家のご息女の一人がマーガレッタ嬢だったとは……」
「そして色々な事情で国を出ることになった、と」
「マーガレッタ嬢は、このレッセルバーグに居を移したい、ということでいいのかね?」
グラナッツさんとカールさんは真剣に私の話を聞いてくれて、私が言いたくなくてぼかしたところは、深く聞かないでいてくれた。
この人たちは、追い出された私に、こんなに親身になってくれる。しかもリアム王国の婚約者や、長い間一緒に暮らしてきた家族よりも、ずっと。――悲しいけれどそうだった。
私は目頭が熱くなるのを感じながら、二人の言葉に頷いた。
「ええ、そのつもりで来ました。この国は森に囲まれて魔獣が多く、さらに大きなダンジョンもあると本で読んだんです。それなら私が唯一作れるポーションがよく売れるのではないかと……」
「それは正しい認識じゃ。ポーション不足は我が国が抱える大問題だからのう」
「そうだな、神殿の癒し手たちも毎日毎日大忙しだから、怪我をしても頼みづらいんだよなあ」
グラナッツさんとカールさんは顔を見合わせて「はぁ」と大きくため息をつく。
「しかし、冒険者たちに退治してもらわねばならぬ魔獣はとても多く、ポーションの需要は上がるばかりじゃ……もしマーガレッタ嬢がこの国に移住するのであれば、大歓迎はしても反対する者などおらんよ。もちろんわしらもな」
「こっちから頼みたいぜ。あ、でも、住んでから決めたほうがいいと思うぜ。思ってたのと違う、ってこともあるしな」
「そうじゃのう、カール坊にしてはいいこと言うのう」
「だろうだろう!」とカールさんは気持ちよさそうに笑う。グラナッツさんも愉快そうに笑っている。
きっと不安でいっぱいの私に、気を遣ってわざと明るく振舞ってくれてるんだ。
こんなに優しい人が住んでいる国なら私も暮らしていけそうな気がして、少しだけ未来が明るくなった気がした。
「いえ、ぜひ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私は立ち上がってぺこりと頭を下げる。ここに住んでこの人たちの力になれるなら、ぜひ移住させてもらいたい。
その後、これからの住まいやら仕事やらを三人で考えた結果、しばらくの間は、このお年の割に溌剌としたお爺ちゃんこと、グラナッツさんの家に居候させてもらうことになった。
「可愛い孫ができた! いや、本当に孫にならんかのう……?」
「孫だなんて、そんな……」
居候するにあたってお話を聞くと、グラナッツさんは貴族のご隠居様だった。
「あの、姓のほうをお聞きしても?」
「それはそのうち、な。ところで、わしには孫が一人いるのだが男でのう~……女の子の孫がおったら華やかでいいんじゃが……どうかの?」
もしかしたら名のある貴族かも……と思い、聞いてみたが、濁されてしまった。
グラナッツさんにも事情があるのかもしれないけれど、今の私は知らなくてもいいのだろう。だって、目の前のグラナッツさんは私を騙そうとか、自分の都合のいいようにこき使ってやろうとか、そんな感じはまったくないから。
私はにこにこと笑うグラナッツさんに釣られて、笑いながら過ごした。
お話が一段落すると、このお屋敷のメイド、ロジーさんがやってきた。
「大旦那様、お嬢様は旅でお疲れですよ。お話ならまた明日になさってはいかがでしょう?」
「そうか、ならちょうどいい。俺も宿に戻るぜ」
カールさんは立ち上がり、伸びをした。
「カールさんはグラナッツさんのお屋敷に泊まるわけではないんですね」
「まぁな。貴族の屋敷のやわらけぇベッドじゃ、寝た気がしねえんだ!」
私にはよくわからない理由だったけれど、カールさんが言うならそうなんだろう。カールさんは、じゃあな、と手を振って出て行ってしまった。
「マーガレッタ様。お部屋をご用意いたしました。お風呂の準備もできておりますので、お手伝いいたします。どうぞ、こちらへ」
「そ、そんなお風呂なんてもったいない……」
ロジーさんは素敵な提案をしてくれたのだけれど、私にそんな手間をかけてくれるなんて、なんだか申し訳ない。
私が首を横に振ろうとすると、グラナッツさんがにこにこと声をかけてきた。
「マーガレッタ嬢。どうかロジーに世話をさせてやっておくれ。普段、ロジーは爺の世話しかせんから、同じくらいの女の子の世話がしたいんじゃろう、な?」
「そうですわ、マーガレッタ様。お若い令嬢のお世話なんて久しぶりでワクワクいたします! ささ、こちらへ!」
「あの、あの……⁉」
私はロジーさんに連れられて応接間を退出した。どうやら私の遠慮は完全に無視されたようだ。
そして、実家にいる時より好待遇でお世話をされてしまった。
実家にいる時も使用人の皆は大事にしてくれたけれど、それがお姉様やお母様にバレると嫌味を言われたり、辛く当たられたりするので、申し訳ない気持ちでいっぱいになったものだ。
ありがたくお風呂をいただき持ってきた服に着替えようとすると、ロジーさんが新しいワンピースを何着も持ってきてくれた。
「流行りのものを見繕いましたが、お気に召すものはございますか?」
動きやすそうな服から、ゆったりできそうな寝間着まであって、びっくりしてしまう。しかもこの服、私がお父様に与えられた服より何倍も良い物だ。
シンプルな作りながら手触りがいいし、襟元や袖口に細かなレースや刺繍が施されている。きっとどこかの有名なお店の一点ものだ。
「……ありがとうございます……‼」
ロジーさんが持ってきてくれた服のうち、私は、自分には少し可愛すぎるかも、というワンピースに着替える。きっとグラナッツさんがロジーさんに言ってくれたんだ、とグラナッツさんにお礼を言いに行くと、目を細めて笑ってくれた。
「いいんじゃよ。それにしても可愛いのう~……やっぱりわしの孫に……」
「あははは……」
そんなグラナッツさんの隣で、お疲れでしょう、とロジーさんが軽食を用意してくれて、その後はとても綺麗に整えられた部屋に案内してもらった。
そっとベッドに腰を下ろすととってもふかふかで、あまりの気持ちよさに思わず寝転び、うんと大きく伸びをする。
「いいのかな……」
外はもう夜になっていて、月が昇り、動き……そして今日が終わる。今日という日が終われば、契約が切れる。十年前、騙されるように結んだ契約が、完全に終了する。
「ううん、いいんだよね。だって、お父様もお兄様もお姉様もノエル様も……私はいらないとおっしゃった。つまり、契約はもう必要ないってことなんだよね」
リアム王国やお父様たちにとってどうしても契約が必要なものだったなら、私を国から追い出したりなどしないはず。
かなり大きくて強いものをノエル様やお父様たちにお貸ししていたけれど、もう必要なくなったのだろう。だから契約の更新をしなかったのだ。
ベッドに寝転ぶ私の視界に、カーテンの隙間越しの夜空が見える。
まん丸の月が少しずつ夜空を昇っていく。そして天頂にたどり着いた。それは、日を跨いだ、ということだ。
それと同時に、視界はふわふわと光が現れ、たくさんの声が聞こえ始めた。
〈マーガレッタ……久しぶりね〉
〈やっとマーガレッタの所に戻ってこれた〉
〈今度はあんな契約しちゃだめよ……。もうわかってると思うけれど〉
〈あの頃のマーガレッタには拒否できなかったよな……〉
「ああ、お帰りなさいませ……みなさま。ええ、もう大丈夫。十年前の私とは違います。今度はもう……あんな契約は結びません」
〈それを聞いて安心したわ。今度は自分の為に上手に使ってね〉
〈あなたのための力なんだから、あなたは使っていいのよ?〉
〈そうだぞ、マーガレッタ。お前が使うんだ〉
〈ま、間違いも時には仕方なし。そうやって人間は成長するんだからな〉
『みなさま』の声が聞こえ安心した私は、そのまま目をつむり、夢の世界に旅立った。
「いやあ……これは御者のハンセンのお手柄だわ」
「こんな純粋な子が一人でうろついていたら、すぐに騙されるだろうな」
「だろう? 俺はそういうことによく気が付くんだよ」
ぐるりと振り返って御者さんまで他の人に同意してしまった。馬車の中では笑いが起きて、私もつられて笑ってしまう。
ふと、馬車の後方、進んできたほうへ視線を向ける。
今はまだ聞こえないけれど、きっと明日、起こる。私が国を出たのだから。きっとリアム王国では、とんでもないことが起きるはずだ。
でも深く考えることはやめた。
あの国がどうなっても……ノエル様やお姉様がどうなっても、ランドレイ家がどうなっても……私にはもう関係のないことなのだから。
馬車は不穏な雰囲気を漂わせる夜の森を走り、リアム王国とレッセルバーグ国との国境付近に着いた。
国境は森に囲まれている。聞き慣れた人々の喧騒はなく、ガラガラと大きく鳴り響く車輪の音や、風に揺れて葉が擦れる音が耳に入る。
時折聞こえる動物の遠吠えと、驚いて飛び立つ鳥らしきものの影。
王都で暮らしていた私は、全て初めて見聞きするもので……思わず不安と恐怖でスカートをぎゅっと握り込んだ。
「大丈夫よ、そのために私たちがいるんだから」
「ありがとう……ございます」
魔法使いさん――メリンダと名乗った女性は笑って、私が膝の上で握り締めていた手に手を重ねる。彼女の手のひらはほっとする温かさだった。
……本当に一人じゃなくてよかった。夜の森がこんなに怖いなんて知らなかった。
「見えた、国境警備所だ」
御者さん――ハンセンさんの声が聞こえた。
ここを越えて、私は生まれ育った国を出ていくんだ。それを意識すると、不安が大きく膨れ上がって襲い掛かってくる。
……どうしよう、私は一人で大丈夫なんだろうか。怖い、とても怖い……
揺れる馬車の中で戦士さん――カールさんが窓に手をかける。走る馬車の窓を開けるのは危険だと本で読んだけれど、彼は何の躊躇もなく窓を開けた。そしてさらに危ないことに、窓から半身を出し、遠くにある国境警備所に向かって大きく叫んだ。
「おーい! そっちの国に入れてくれ‼」
「は⁉」
国境の警備員さんたちの驚きの声が聞こえる。
「な! お前、そんなこと言っても身分と許可証を――」
「俺が入れろって言ってんだから入れろ! ほらこれ!」
カールさんは何かのカードを取り出して、遠くから警備員さんたちに見せる。どうやら冒険者証らしいが、なんだかとてもキラキラしている。冒険者証というものを初めて見たのだけれど、すごく綺麗で、思わず見入ってしまった。
「S級冒険者のカールだ!」
「カール? あの『双大剣のカール』か!」
カールさんの声を聞いて、警備員さんたちはすぐに道を開けた。
カールさんが警備員さんたちにお礼を言っている最中も馬車は速度を落とすことなく、私たちはあっさりと国境を越えてしまった。
S級という肩書きもそうだが、警備員さんたちとのやりとりを見るに、もしかしてカールさんってすごい実力者なんだろうか?
そんなことを思っていると、馬車が停まった。
本で読んだ限りでは、国境を越える時には身元確認や持ち物検査があるらしい。
でもそういうのは国境を越える前にやることで、通ってからではなかったはず。検査を後回しにしてまで、こちらの国に入りたい理由がカールさんにはあったのだろうか。
馬車の中で何が起きるのかとドキドキしていると、カールさんは慣れた様子で馬車から降りて、集まってきた警備員さんたちと話し始めた。
……やはり国境の越え方が普段とは違ったのだろうか。警備員さんの表情は芳しくない。
隣に座るメリンダさんは呪文のようなものを呟くと、誰かと話をし始めた。
「なぁに、皆に任せておけば問題ないですよ。カールさんはガサツだけど、ああ見えて頼りになりますから。よろしければ、歌でも歌いましょうか? 私の歌を聞けば大抵の魔物も一発で眠りにつきますよ、味方もだけど」
吟遊詩人さん――トリルさんが呑気に欠伸をしながら言うので、私は緊張がほぐれた。だが楽器を取り出して歌いそうだったので、それはやめてもらった。
そんなことをしていると、メリンダさんが話を切り上げて、カールさんに手を振る。
「カールさん、グラナッツ爺と連絡取れた~! この子に会わせろってさ」
「グラ爺か、いいな。兄ちゃんたち、無理に通って悪かったな。ちょいと訳アリでね……責任はグラナッツの爺さんが取ってくれるから、兄ちゃんたちは心配しなくていい」
少しだけざわざわしていた警備員さんたちは、顔を見合わせやれやれといった表情を浮かべる。さらにカールさんの大声を聞きつけて、警備員さんたちの詰所のような場所から、偉そうな身なりの大柄な男性がのそりと出てきた。
出てきた人はおっとりとした熊のようにも見えるけれど、きっと強い人なんだろう。男性は私やカールさん、皆さんの姿を一瞥して「ふむ」と一つため息をついて腕を組んだ。
「カールさんの連れなら通さないわけにもいかないが……急ぎなのか?」
「ああ。隊長さん、実はな……」
カールさんは隊長さんと呼んだ大柄な男性に近づき二言三言耳打ちをしたが、それを聞くなり隊長さんはすぐに頷いた。
「なるほど、なら歓迎だ。目的地までどうぞお気をつけて」
隊長さんは、笑顔で手を振ってくれた。どうやら怖い人ではなかったようだ。
「ありがとうございます!」
私もお礼を言うけれど、カールさんが戻ると馬車はすぐに走り始め、それ以上話はできなかった。馬車から身を乗り出し隊長さんを振り返ると、途切れ途切れに声が風に乗ってきた。
「近々お客さんが来るかもしれん、気を抜くなよ!」
「はっ!」
お客さん……一体誰なんだろう。国境は人がたくさん通過するし、こんな夜中でも高貴な人が来るのかな……?
それにしても、国境越えは想像以上にあっさりで、拍子抜けしてしまった。カールさんがここの隊長と知り合いだったようだから、きっとそのおかげで簡単に通れたんだろう。
他の冒険者さんたちも強そうで頼りがいがあるし、私はとても幸運なんだ、と馬車に揺られながら、私はしみじみと実感していた。
◆◇◆
そうして私たちは、メリンダさんとカールさんが話していた「グラナッツ爺さん」という方のお家――いえ、お屋敷に着き、豪華な応接間に通された。
お屋敷の内装や調度品は……どれも洗練されていて高価なものばかり。
侯爵邸にも家具や絵画、置物などは値の張るものが置いてあったけれど……このお屋敷はなんというか、格が違う。
廊下に置かれている飾り壺も、廊下にかかっている絵画もすべて一流のもので、王宮にあってもおかしくないものばかりだ。
そして私たちが通された応接間もまたすごい。
座ってくれと言われて腰を下ろしたこのソファも相当高級品ですよ、これ!
座り心地は柔らかすぎず、かといって硬い訳でもない。しかも使ってある表材が一流のものなので、手触りがとてもいい。腰を下ろすのをためらうほどだ。
目の前にいるおじいちゃんは、そのソファにどっかりと座り、私に優しげな視線を向けた。
「さて、このお嬢さんがリアム王国の天才薬師、マーガレッタ・ランドレイさん、かのう?」
「あ、あの……私はたしかにリアム王国に住んでいたマーガレッタですが、天才ではなく、ただの薬師で……」
天才薬師って誰ですか? 私はポーションの類しか作れません。
「ほ……?」
おじいちゃん――グラナッツさんは、目を丸くする。驚くグラナッツさんはなんだかとっても可愛らしくて見ていて飽きない。
グラナッツさんは年配の方で、真っ白い髪を後ろに撫でつけている。貫禄があるのに笑い皺のある目元がとても優しいおじいちゃんだ。
お年のせいもあるのか、ちょっとだけ身長が低く見えて、それが可愛らしさに拍車をかけている。
「グラ爺。どうやら『知らぬは制作者ばかりなり』みたいだぜ。この花がついてるポーションが、普通のポーションの五十倍の値がついてるのを知らなかったし」
「いや、カール坊。我が国レッセルバーグではその二百倍の値段が普通じゃよ。特級ポーションにいたっては王家に献上するレベルじゃ」
カールさんが自分の鞄から取り出した初級ポーションには、マーガレットの花の刻印がある。それは間違いなく私が作ったものだ。
でも私のポーションが二百倍の高値になるなんてある訳がない。
あ、そうか。二人とも私が小娘だからからかっているんだ!
そっちがその気なら、からかってみましょうか。
私だってやる時はやるんです。
「あら、そんなにお高いなら、手持ちのポーションを買い取ってもらえませんか?」
通常の二百倍なんて値段で売れたら私は大金持ちになってしまうし、王家に献上とか本当にあり得ない。
毎週何百本もお父様が卸していてその全部が家の収入になっていたから、私には一ゴールドも入ってきたことはないから値段は良くわからないけれど……
そんなに高額だったのなら、少しくらい私にお小遣いをくれるはずだ。
私は家を出る時に持ってきた在庫のポーションを、コトリ、コトリとこれまた高級な一枚板のテーブルの上に並べていく。テーブルに傷をつけないように、ゆっくりゆっくりと。
しかしその私の気遣いもむなしく、カールさんとグラナッツさんは勢いよく立ち上がった。ガタガタとテーブルの上のポーションが倒れてしまった。
テーブルに傷がついてしまう!
「ポ、ポーションを持ってるのか⁉ 買う! 全部俺が買う!」
「カール、黙れ! わしが全部買うんじゃッ‼」
「ひぃっ⁉」
な、なんですか、二人とも。急に目の色を変えて立ち上がって怖いです!
私は彼らの迫力に竦み上がり、持っていたポーションを手から滑らせた。
「あっ!」
「うわああああああああ! 俺のポーション!」
ポーションが床に叩きつけられる前に、素早い動きでカールさんがキャッチして事なきを得た。けれどカールさん、私のポーションです、それ。
「特級が二本に……最高級が五本、高級が十本、残りは初級が十本……グラ爺、半分――」
「馬鹿抜かせ、もう少しわしに譲らんかい」
「いや待て、俺らはこれからこれが必要になるんだよ」
「いやいや、特級はすぐ王宮へ持っていく。妃殿下が体調を崩して久しいからのう……」
あれ、さっきのは冗談なんですよね?
ポーションの取り分を相談している二人があまりにも真剣で、笑いが引っ込んでしまった。なんだか怖くなってきて、私は恐る恐る二人に声をかけた。
「あ、あの……」
「すぐ金を持ってくるから、安心してくれ。いやまさかやっぱり売りたくないとか⁉ 頼むよー、実物を出しておいてそりゃないだろう?」
カールさんが頭を抱えて慌てる。そして、テーブルの上に並べたポーションを太くて長い両腕で囲う。
いや、別に売りたくないとかは言いませんって……
「いえ、そうではないのですが」
「では遠慮なく! ウェルス、金を持ってきてくれ。しかしこれを全部金にするとかさばるのう……マーガレッタ嬢、どこかのギルドの通帳などは持っておるかね?」
グラナッツさんも、優しくそう言うけれど、目だけは真剣だ。本当に冗談……じゃないんでしょうか……
私のお金はすべてお父様が管理していたから、通帳は持っていない。それにしても、かさばるほどのお金って一体いくらなのだろう。
私は首を横に振って答える。
「申し訳ありません。実はそういうものを持っていなくて……」
「では早急に作ったほうがいい。マーガレッタ嬢に支払うポーション代は少しの間、我が家で預かっておこう。ウェルス、証書用の紙とペンを」
グラナッツさんがそう言うと、グラナッツさんの執事、ウェルスさんが、明らかに高そうな紙とペンを持ってくる。
そしてその紙に見た事もない桁の金額をサラサラと書いた。
私は一瞬で大金持ちになったみたいだけど、実感がない。こんな大きなお金、生まれて初めて手にするし……
でもそんなことより、私は自分自身の今後についてのほうが気になっている。
この国では、私は受け入れてもらえるだろうか。
こんなに大量のお金があったら、しばらくはどこかの宿に泊まれると思うけど、それも一生は続かないだろうし……
「あの……」
私の不安が伝わったのか、私を見ていたカールさんはハッとして、グラナッツさんを見た。
「あ、グラ爺! ポーションに夢中になって俺たちお嬢さんの話を聞くの忘れてるぜ」
「おお、そうだった! すまん、マーガレッタ嬢。……どうかマーガレッタ嬢の身に何が起こったか教えてもらえんじゃろうか……必ず力になるぞ」
二人の優しい視線に、どうしようか、悩んだ。私はこの国に知り合いがいないから、頼れるのはグラナッツさんやカールさんたちだけ。
皆さん初めて会った人たちだけど、なんとなく信じられそうだと思ったから、私の身に起きたことを話すことにした。
話すうちに二人の表情がどんどん曇っていく。
「……なんと、リアム王国の有名貴族、ランドレイ侯爵家のご息女の一人がマーガレッタ嬢だったとは……」
「そして色々な事情で国を出ることになった、と」
「マーガレッタ嬢は、このレッセルバーグに居を移したい、ということでいいのかね?」
グラナッツさんとカールさんは真剣に私の話を聞いてくれて、私が言いたくなくてぼかしたところは、深く聞かないでいてくれた。
この人たちは、追い出された私に、こんなに親身になってくれる。しかもリアム王国の婚約者や、長い間一緒に暮らしてきた家族よりも、ずっと。――悲しいけれどそうだった。
私は目頭が熱くなるのを感じながら、二人の言葉に頷いた。
「ええ、そのつもりで来ました。この国は森に囲まれて魔獣が多く、さらに大きなダンジョンもあると本で読んだんです。それなら私が唯一作れるポーションがよく売れるのではないかと……」
「それは正しい認識じゃ。ポーション不足は我が国が抱える大問題だからのう」
「そうだな、神殿の癒し手たちも毎日毎日大忙しだから、怪我をしても頼みづらいんだよなあ」
グラナッツさんとカールさんは顔を見合わせて「はぁ」と大きくため息をつく。
「しかし、冒険者たちに退治してもらわねばならぬ魔獣はとても多く、ポーションの需要は上がるばかりじゃ……もしマーガレッタ嬢がこの国に移住するのであれば、大歓迎はしても反対する者などおらんよ。もちろんわしらもな」
「こっちから頼みたいぜ。あ、でも、住んでから決めたほうがいいと思うぜ。思ってたのと違う、ってこともあるしな」
「そうじゃのう、カール坊にしてはいいこと言うのう」
「だろうだろう!」とカールさんは気持ちよさそうに笑う。グラナッツさんも愉快そうに笑っている。
きっと不安でいっぱいの私に、気を遣ってわざと明るく振舞ってくれてるんだ。
こんなに優しい人が住んでいる国なら私も暮らしていけそうな気がして、少しだけ未来が明るくなった気がした。
「いえ、ぜひ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私は立ち上がってぺこりと頭を下げる。ここに住んでこの人たちの力になれるなら、ぜひ移住させてもらいたい。
その後、これからの住まいやら仕事やらを三人で考えた結果、しばらくの間は、このお年の割に溌剌としたお爺ちゃんこと、グラナッツさんの家に居候させてもらうことになった。
「可愛い孫ができた! いや、本当に孫にならんかのう……?」
「孫だなんて、そんな……」
居候するにあたってお話を聞くと、グラナッツさんは貴族のご隠居様だった。
「あの、姓のほうをお聞きしても?」
「それはそのうち、な。ところで、わしには孫が一人いるのだが男でのう~……女の子の孫がおったら華やかでいいんじゃが……どうかの?」
もしかしたら名のある貴族かも……と思い、聞いてみたが、濁されてしまった。
グラナッツさんにも事情があるのかもしれないけれど、今の私は知らなくてもいいのだろう。だって、目の前のグラナッツさんは私を騙そうとか、自分の都合のいいようにこき使ってやろうとか、そんな感じはまったくないから。
私はにこにこと笑うグラナッツさんに釣られて、笑いながら過ごした。
お話が一段落すると、このお屋敷のメイド、ロジーさんがやってきた。
「大旦那様、お嬢様は旅でお疲れですよ。お話ならまた明日になさってはいかがでしょう?」
「そうか、ならちょうどいい。俺も宿に戻るぜ」
カールさんは立ち上がり、伸びをした。
「カールさんはグラナッツさんのお屋敷に泊まるわけではないんですね」
「まぁな。貴族の屋敷のやわらけぇベッドじゃ、寝た気がしねえんだ!」
私にはよくわからない理由だったけれど、カールさんが言うならそうなんだろう。カールさんは、じゃあな、と手を振って出て行ってしまった。
「マーガレッタ様。お部屋をご用意いたしました。お風呂の準備もできておりますので、お手伝いいたします。どうぞ、こちらへ」
「そ、そんなお風呂なんてもったいない……」
ロジーさんは素敵な提案をしてくれたのだけれど、私にそんな手間をかけてくれるなんて、なんだか申し訳ない。
私が首を横に振ろうとすると、グラナッツさんがにこにこと声をかけてきた。
「マーガレッタ嬢。どうかロジーに世話をさせてやっておくれ。普段、ロジーは爺の世話しかせんから、同じくらいの女の子の世話がしたいんじゃろう、な?」
「そうですわ、マーガレッタ様。お若い令嬢のお世話なんて久しぶりでワクワクいたします! ささ、こちらへ!」
「あの、あの……⁉」
私はロジーさんに連れられて応接間を退出した。どうやら私の遠慮は完全に無視されたようだ。
そして、実家にいる時より好待遇でお世話をされてしまった。
実家にいる時も使用人の皆は大事にしてくれたけれど、それがお姉様やお母様にバレると嫌味を言われたり、辛く当たられたりするので、申し訳ない気持ちでいっぱいになったものだ。
ありがたくお風呂をいただき持ってきた服に着替えようとすると、ロジーさんが新しいワンピースを何着も持ってきてくれた。
「流行りのものを見繕いましたが、お気に召すものはございますか?」
動きやすそうな服から、ゆったりできそうな寝間着まであって、びっくりしてしまう。しかもこの服、私がお父様に与えられた服より何倍も良い物だ。
シンプルな作りながら手触りがいいし、襟元や袖口に細かなレースや刺繍が施されている。きっとどこかの有名なお店の一点ものだ。
「……ありがとうございます……‼」
ロジーさんが持ってきてくれた服のうち、私は、自分には少し可愛すぎるかも、というワンピースに着替える。きっとグラナッツさんがロジーさんに言ってくれたんだ、とグラナッツさんにお礼を言いに行くと、目を細めて笑ってくれた。
「いいんじゃよ。それにしても可愛いのう~……やっぱりわしの孫に……」
「あははは……」
そんなグラナッツさんの隣で、お疲れでしょう、とロジーさんが軽食を用意してくれて、その後はとても綺麗に整えられた部屋に案内してもらった。
そっとベッドに腰を下ろすととってもふかふかで、あまりの気持ちよさに思わず寝転び、うんと大きく伸びをする。
「いいのかな……」
外はもう夜になっていて、月が昇り、動き……そして今日が終わる。今日という日が終われば、契約が切れる。十年前、騙されるように結んだ契約が、完全に終了する。
「ううん、いいんだよね。だって、お父様もお兄様もお姉様もノエル様も……私はいらないとおっしゃった。つまり、契約はもう必要ないってことなんだよね」
リアム王国やお父様たちにとってどうしても契約が必要なものだったなら、私を国から追い出したりなどしないはず。
かなり大きくて強いものをノエル様やお父様たちにお貸ししていたけれど、もう必要なくなったのだろう。だから契約の更新をしなかったのだ。
ベッドに寝転ぶ私の視界に、カーテンの隙間越しの夜空が見える。
まん丸の月が少しずつ夜空を昇っていく。そして天頂にたどり着いた。それは、日を跨いだ、ということだ。
それと同時に、視界はふわふわと光が現れ、たくさんの声が聞こえ始めた。
〈マーガレッタ……久しぶりね〉
〈やっとマーガレッタの所に戻ってこれた〉
〈今度はあんな契約しちゃだめよ……。もうわかってると思うけれど〉
〈あの頃のマーガレッタには拒否できなかったよな……〉
「ああ、お帰りなさいませ……みなさま。ええ、もう大丈夫。十年前の私とは違います。今度はもう……あんな契約は結びません」
〈それを聞いて安心したわ。今度は自分の為に上手に使ってね〉
〈あなたのための力なんだから、あなたは使っていいのよ?〉
〈そうだぞ、マーガレッタ。お前が使うんだ〉
〈ま、間違いも時には仕方なし。そうやって人間は成長するんだからな〉
『みなさま』の声が聞こえ安心した私は、そのまま目をつむり、夢の世界に旅立った。
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