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29 契約書がない、とは?

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「アンゼリカだって?!」

 ドロシーとタティオは仕事を放り出して走って来た。そして

「お嬢様に何という無礼!申し訳ございません!アンゼリカ様っ!!」

 周りの職人達は慌ててリルファを黙らせる。

「離して!アンゼリカ!アンゼリカお姉様!私はここです!リルファです!迎えに来たんでしょう!?早く何とかして!もうこんな暮らし耐えきれない!!早く、早く家に戻して!!」

 必死の形相で叫ぶリルファをアンゼリカは見もしなかった。

「あら?アンゼリカ。誰かに名前を呼ばれたようですわよ」

「そんな事ないわ、ダリア」

 アンゼリカの乗って来た馬車からもう一人令嬢が降り立つ。ダリア・ミルドレッド侯爵令嬢である。ダリアはマーク・アドレン侯爵令息と共に優雅に歩を進ませる。

「そんな事……ああ、そうね」

 ダリアはチラリと薄汚れた格好のリルファを見ただけだった。

「それよりどうかしら?急がせたからこんな感じなのだけれど?」

「私は良いと思うよ。前よりも品がある」

 薄くだけ笑ってアンゼリカの隣に立つのはセルドア・ルーアン公爵令息。

「何せ私のお隣さんだからね」

 この貴族の屋敷が立ち並ぶ区画、セルドアのルーアン公爵家は大きな庭を挟んではいるが、敷地的には隣に位置している。

「どう?マークは?」

「ああ、良いね。気に入ったよ、アンゼリカ。しかし本当に良いのかい?私とダリアがここで暮らしても」

「あら、当然じゃない。新ザザーラン公爵様?」

「は?!な、何を!何を言っているの?!ザザーラン公爵はお父様よ!!」

 堪らずリルファは大声を上げた。

「そ、そうだ!私がザザーラン公爵だ!!アンゼリカ、いい加減にしろ!」

「そうよ!アンゼリカ!私達を早くこの家にお戻しっ!!」

 タティオもドロシーも続けて叫ぶ。あまりの大声を流石に無視はせず静かにアンゼリカは問うた。

「何故?」

「え……だってお前は私達の為にこの家を直したんだろう?」

 聞き返すタティオにやはり静かに答える。

「いいえ、私はダリアとマークの為にこの屋敷を補修しました」

「し、しかしその屋敷はザザーラン家の屋敷だ……」

「ええ、だからザザーラン公爵、マーク・ザザーラン公爵が、婚約者のダリア・ミルドレッド侯爵令嬢と暮らす屋敷です」

「ザザーラン公爵は、わ、私だ……!」

「いいえ、ザザーラン公爵はマークです。あなたは爵位を手放したではありませんか」

 アンゼリカはとても静かに淡々と事実を述べて行く。交渉は感情的になった方が負けだと言う事を身を持って知っているからだ。
 声を荒げて何度失敗したことか。そうした小さな失敗を何度も繰り返し、アンゼリカは強くなっていったのだから。

「あれは!騙されて!!」

「どなたにです?」

「ドノバンと言う商人だ!」

「知りませんわ。それに、何故騙されるのです?爵位などと言う恐ろしく貴重な物、契約書があるでしょう?」

「……そんなものはない!!」

「お話になりませんわ」

 これにはセルドアもダリアもマークもくすくすと笑いを抑えられずにいた。

「け、契約書がない……?意味が分からないな」

「嘘ですわよね?小さな投資にも契約書がありますのに。ましてや国王様より与えられた爵位をそのように軽んじては……」

「何かの冗談だよな?アンゼリカ。契約書が無ければ誰に売ったかも分からないではないか……」

「な、な、な、な!!」

 笑い物にされ、タティオは頭のてっぺんから爪先まで真っ赤にして怒り狂ったが、正しいのは4人の紳士淑女だった。

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