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一、巡り巡りてもう一度
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目が覚めて一番に感じたのは、痛みであった。
起きたことを若干、反射的に後悔する。
背中を中心に、全身に重苦しい痛みがあり痺れており。ついで、額と頬の燃えるような熱に気がついた。
反射的にもごつかせる口元に、針で刺されるような痛みを感じる。
じわりと口のなかに広がる鉄の味。おもわず口を浅く開いた。鼻孔を突き抜けるほどの濃厚な生臭さを、今更ながらに自覚したためであった。
それこそ、吐き気をもよおすほどのもの。
堪らずと。
「いッ……ぐ! っ、うぇぇェ、うぉ……ッ」
痛む体をおして転がり、反射的に床へと血を吐きだしていた。そんな少女――冒冽花にむけて。
『冽花! よかった、目が覚めて!』
息も絶え絶えなその身へと、涙ぐむ少女が縋りついたのであった。
今年で十七になる、歳の割には起伏にとぼしい――代わりに、獣を思わせるしなやかな冽花の体に縋って見下ろすのは、齢十にも満たぬ幼子であった。
甘い蜂蜜色の目は潤んで、今にも溶けて零れ落ちてしまいそうである。
まろい顎下で揃えられた髪――金茶に黒い筋の混じる、縞模様をえがく色みの頭には、ぺったり猫耳が伏せられていた。
よく見ると、少女の泣き顔を透かし、向こう側の風景が見える。
そんな人ならざる異形の少女を見上げて、冽花は弱々しく微笑みを浮かべるのだった。
「は。死んでたまるかよ……っ、これしきの、ことで。今、どうなってる?」
『周りの“気”に変化はないわ。哥哥は、まだお目覚めにはなられていない。でも、怖い帅哥たちも蟲人の人たちも、ずっと奥へ行ってしまったわ』
「休んでる暇は、ないってことか。ったく、本当に……」
呻きを飲んで、床に手をつき起きあがろうとする。が、下っ腹に引き攣るような鈍痛が走り、なかばで身を強張らせていた。腹を押さえ、舌打ちを漏らす。
「っ……他妈的、女の顔と腹殴りやがって。あの野郎、タダじゃすまさねえ……!」
薄く歯列すら剥きだして歯噛みし、冽花は行く手を睨みすえた。
脈打つ熱と痛みを訴えつづける頬をも押さえ。
天井や柱、跪拝台(神前の供物諸々を置く台。この前で跪いて礼拝する)に――転げる調度品。横倒しの香炉。首なしの武神像に至るまで。
すべてが厳格な黒と萌えるような緑色で彩られ、かつ荒らされた廟内から、最奥の壁に開かれた隠し扉を見据えたのであった。
ともにそちらを見た少女が頷く。そうして、ぱん、と硝子の弾けるような音を生んで、その身が薄紅色の光の粒子と化し、散る。
入れ替わるように冽花の、少女と同じ蜂蜜色の目の瞳孔が肥大した。円く肥大するやの、その頬に、じわりと浮かびあがってくる『絵図』があった。
赤く腫らした右頬と、左頬に咲く、艶やかな『杏の花』の絵図。
細い首筋をたどり、背中、それから袖より伸びる引き締まった両手の甲まで。柔らかい布靴に包まれた足の甲まで。その刺青めく痣は花開き、芳しい芳香がひろがった。
そうして、変化は終わらない。
冽花の頭上に猫耳が生えた。先端に房毛があり、先の少女の髪を思わせる、金茶と黒の縞模様がある。しゅるりと袍の裾から、しなやかな縞模様の尾も生えてくる。
生えた瞬間に『けば立つ玉蜀黍』よろしく膨れあがったものの。
苛立たしげに、その尾でタン! と柔く床を一打ちして、両手をついて尻を浮かせた。それこそ、伸びする猫よろしく。
尾は怒髪天を衝くまま激しく振られ始めて、耳は後ろに引かれていた。背を弓なりにし、飛びかかる寸前――臨戦態勢の、憤怒の猫の形相がそこにはあった。
尖る八重歯を剥きだしにし、人身・猫耳猫尾の冽花は、縞模様の風と化す。
騒ぎの渦中に飛び込むまで、あと幾ばくであった。
そうして、縞模様の風が迫る先では。今も一進一退の攻防が続けられていた。
そこは、表にも増して豪華絢爛なる広間であった。
すべてが濡れるような漆塗りの天井や梁で構成されており、極上の琅かん翡翠の彫刻と、孔雀石で描かれた絵図が、所狭しと飾られていた。
そんな『裏の廟』とも呼ばれる場所に祀られているのは、中央の祭壇へと『縦に埋めこまれている濃緑の棺』である。それを守るように四つの屈強な神像が並べられている。
そうして。そんな壮麗かつ異常をたたえる光景にたいし、異を唱える者はいない。
代わりに対面する者を睨みすえて、あるいは刃と爪を、槍と暗器を、拳と蹴りを交わし合っていた。
一進一退の攻防にひびを入れるためだろう。ここで裂ぱくの気合がその場に轟く。
声の主は一人の中肉中背の男であった。紅潮した顔の頬骨へと『赤く艶めく梅の花』の絵図がうかぶ。痣は両腕、その足にまで伝播していく。
広がる濃厚な花の香りに、「新たな『転化』だ! 退けッ」と鋭い声音が飛ぶ。
その声に応じて、対峙した者らの片割れ――『木造りの髑髏の半面をかぶる』黒ずくめ集団の一部が、距離をとった。
片やの『体の一部』、もしくは『全身を獣と化したモノ』達は笑う。紅梅の男は仲間たちの瞳に応じて、うおおおおッと吼え猛ったのである。
見る間にその身は膨れあがり、着ていた衣服がはじけ飛んだ。両腕に太い針めく黒毛が生えそろい、その手――否、前足はゆうに人の顔を覆えるほどにまで肥大していた。
身の丈、七尺(二メートル)余りはこえる、熊と化したのだった。
そうして、じろりと辺りを睥睨し、逃げ遅れた――人獣と今なお鍔迫り合いし拮抗していた黒尽くめを見咎める。前足をつけて、鈍い足音をあげながら直進したのである。
恐るべきはその重量。鋼のような筋肉である。
人獣は易々と、虚をつかれた黒尽くめの剣を弾き返す。早々に離脱していく。あわれ、黒尽くめのみが撥ね飛ばされることとなる。
前足を振るう。木っ端のように黒尽くめが、壁に床にと打ちつけられて転がる。
あっという間に、より濃厚な血の香りがその場を満たした。
熊は勝ち誇ったように吼える。人獣らもまた、自慢の爪や、手にした武器を振り上げて喜んだ。
黒尽くめ側は微かにどよめきが生じる。
が、そのなかで、サッと片腕を伸ばし制する者がいた。
途端に、水を打ったように黒尽くめ達は静まり返る。
その注目のさきで、『唯一、飴色に黒ずんだ髑髏の半面をかぶる』者は口を開いた。
「俺が行く。十二鬼、十三鬼、続け。十四、十五、十六鬼は弩(クロスボウ)の準備を」
「お、長……!」
「老鬼様!」
「獣交じりなど恐るるに足らず。二度は言わん。俺に続け」
その言葉を最後に、飴色髑髏の黒尽くめ――老鬼は駆けだす。黒い長衣をたなびかせて走り、すぐ追いついてきた部下たちへと低い声で指示をだした。
「十二鬼、十三鬼、周りを牽制。後、『鬼殺し』を足、腰部の順に」
「御意」
声をあわせて散開する部下へは目もくれずに、顎をうかせて熊を見やる。
ひと目で『敵方の首魁』だと判じられる者の登場に、熊はやる気十分に迎え撃つ構えである。
そんな彼に、老鬼はそっと袖口から三つの鏢(鏃状の暗器)を抜いた。一つずつ両手に、一つの柄を口へ横ざまに咥える。
鋭く不規則な蛇行。狙いをつけづらくし――さらにこの間、熊の周りでは、老鬼の部下たちが剣を抜いて牽制を始めている。
高まる緊張感と、不規則な動きでの『獲物』の接近。
ゆらゆらと微かに、熊の頭と瞳が揺れた。老鬼は右のそれを素早く投じる。狙いは熊の鼻先である。
張り詰めきった緊張の糸を切られ――さらに、元は人の身であった。
急に視界に飛びこむ刃に軽く混乱をきたし、熊は右前足で弾く。だが、老鬼は時間差で左の鏢をも投じている。今度は左目ねらいで。
熊は『振るった足をつけ直さず』に『立ち上がる』。
本来の熊なら起こりうる隙をきらい、左前足で鏢を払いのけたのだ。
だが、その直後である。右目に間髪いれずに飛びこむ刃があり、悲鳴を轟かせていた。
痛みで刹那に強ばる身体。それを見て、老鬼の部下が動く。
潰れた右目の死角をぬって、側面に回りこまんとする。遅れて気付いて熊も反転せんとするものの、右足に激痛をかんじ、ぎくりと動きを止めていた。
深々と足を穿つ剣があり、それを手にしゃがみこむ、もう一人の黒尽くめがいた。
みるみるうちに傷つけられる体。怒りと悲壮に胸焦がされて、左前足を振り上げる。が、折り重なる衝撃が走る。弩の矢だ。反動で食い止められてしまう。
歯噛みする間もなく身をのけ反らせる。肉を割られる痛みが腰部から這いあがっていた。
ぎぁぁあ、と聞くに堪えない悲鳴をあげる。
先に見逃してしまった黒尽くめである。こちらも剣を振るっていた。
どうして。なぜだ、と熊は混乱する。
自分の肉は鋼のごとき硬さであるはずだ、と。身は重たく、腕も力強い。こんな木っ端など一捻りの。
はずなのに。
惑乱する頭は自然と助けを求め、周りを見回す。その首に、ひゅんと風切って錘付きの鋼糸が投げつけられた。首周りに巻きついて引かれる力へと、おもわず唸りが漏れる。
しかし、熊の頭の中はすでに、取り返しのつかぬほど荒れ果てていた。
味方はみな弩で牽制されている。近づけない。援護は望めない。なら、と足を穿つ者を見下ろした折に、ぐらりと眩暈を覚えた。
血を流し過ぎたか――否、それこそ、足元の黒尽くめを見て、思い出す。
こいつらは、さっきなんと言われていた?
獣なら分からなかったが、頭は人間なので解ってしまった。
“十二鬼、十三鬼、周りを牽制。後、『鬼殺し』を足、腰部の順に”
鬼殺しとはまさか。毒か、と。
熊は今更ながらに戦慄する。
最初から自分がこうなることを。熊を、こうさせることを見越して動いていたのなら。
なんと恐ろしいものに牙を剥いたのだ、と。だが、もうどうすることもできない。
脳や感覚器に繋がる目をやられており、まともに思考することすらできずにいる。
右目が焼けるように痛い。熱い血が噴き出ていて止まらなかった。
血が。ああ、血がこんなに噴きでて。おれの命がこんなにも、流れてしまい。
悲嘆にくれて見下ろすさきで、老鬼と目が合う。
涼しげで無機質、自分を傷つけたことを――自分に対する価値をこれっぽっちも抱いていない。路傍の石を見るような瞳に、なけなしの怒りが湧いた。
それが、最後の命の輝きとも言えたかもしれない。
なぜ老鬼が傍らに在るのか。熊の左前足が振りきられるだけで、ぐずぐずの肉の塊と化してしまう距離であるのに。
その理由を思考する余地が、もう熊にはなかったのである。
なけなしの自由意思にしたがい、左前足を――ひゅるんと巻きつけられた錘付きの鋼糸ごと、思いきり振りきろうとするだけであった。
そうして、首筋に熱い衝撃を覚える。視界が少しずつ下方へとずれていって。
みるみる近づく『自分を見上げている老鬼』が、『踵を返す』姿までは見ることなく。
その生を終えた。
が。熊の健闘にも意味はあった。ある意味では。
その首が体から離れて、ゆっくりと倒れこんでいく。切り口からおびただしい血と紅梅の花びらめく燐光を散らしながら、巨体が萎んでいく――中肉中背の首なし死体へと戻り、倒れ伏す。
その異様な光景を背に、祭壇へと老鬼が足を進めようとした。
その瞬間に、『彼女』を間に合わせたのであった。
「長ァ!」
部下の、切羽詰まった声を聞き届けるとどうじに、老鬼は足を止めた。
次々に打ち出される弩の射出音。だが、老鬼は振りむきざま、後足を退いて腰を落とし、腕を交差させた。
「老ぁぁぉぉ鬼ィィ――ッ!」
そう叫びながらぶっ飛んできた猫娘がいたためである。
烈しくまっすぐ愚直な――飛び蹴りであった。
その後ろには、弩の矢で無残にも破壊された孔雀石の絵図が幾つもあった。
だが、どれもこの烈しくも艶やかなる『杏色の風』を止めることはできなかったようだ。逆巻きそよぐそれに老鬼は目を細めた。
受け止めるものの踏んばり切れずに、老鬼は右へ体をひねる。衝撃で痺れる腕に密かに奥歯を噛みしめつつ、拳を握り締めた。
受け流しがてら、近づく娘の顔へと一発くれるべく。文字通り、鼻っ柱をへし折ってやろうとした。だが。
「っ、何度もボコボコ殴られてぇ……たまるかってんだよッ! オラ!」
「っむ」
ぺん! と強かに、柔らかくしなる、若干痛いもので逆に頬を張られてしまう。
流し見れば、彼女の尾である。
舌打ちを一度。裾をはらい、老鬼は身をひるがえした。
降り立つ冽花と相対する。
「太啰唆。あのまま寝ていればよかったものを」
「ハッ。そうすりゃ、お優しい老鬼様が……帰りしなについでに、痛みも感じさせずに、蓮葉の流れへ送ってくれるってえ寸法かい?」
「分かっているじゃないか。俺たちの争いに、横から首を突っ込んできた身の上で」
「ッ! っていうか……アンタらこそが横入りなんだっつーの!」
「ほう?」
おもわずと怪訝に首をかしげる老鬼に、冽花は指を突きつける。
「こちとら、十七年間この場所を夢に見てきたんだよ! 来る日も来る日もずっとな! 『今度こそ、やり残したことを果たすんだ』って……そう考えてた。そんで、ようやくだ。ようやく来れたってのに……ドンパチされてたんだよ!」
けば立つ玉蜀黍もかくやの尾とともに、ひどく興奮して吼えた。
老鬼は得心した。目の前の異形と化した少女。そうして、その物言い。なにより、突きつけられた細腕にうかぶ『杏の花』の痣。引き連れる薫風といい。
「お前、賤竜の縁者の蟲人か」
「ああ。――っ、ご明察だ、よッ、笨蛋ッ!」
「口も悪ければ足癖も悪い」
そうして老鬼が得心すると同時に、冽花は突きつけていた腕を横ざまに振るう。反動で回し蹴りを見舞ったのであった。
右側頭部を的確に狙う、勢いはあるものの分かりやすい軌道。老鬼は腕を差し入れて受け止め、無防備な軸足を払う。崩れ落ちてくる身の肩をつかみ、腹に、浮かせた膝を突き刺すつもりでいた。
が、目を見開く。すぐさま膝を退くや、冽花を突き飛ばしていた。
飛び退く彼女は、腕をひいて拳を握り締めていた。鋭く弓引くような姿勢。舌を打って睨みすえていたのは――老鬼の股間だ。
「手癖も悪いときている」
「へっ。女の顔と腹ァ殴る賎貨にゃあ、陽萎がお似合いだ!」
「下流」
「閉嘴!」
噛みつくように吼えたてる。
そんな冽花へと――老鬼は、目だし穴の目を針のように眇めていた。
消耗はしているはずだ。現に一度倒れ伏している。
が、血みどろながらも意気軒昂にまだまだ吼えたける彼女を見て、太い溜息をついた。
そうして瞳を横へと動かす。周囲の状況を見て――一刻の猶予もないと判じたのである。
事態は拮抗し、切迫していた。
同じ人獣とはいえ、同一集団ではない彼女の登場に、人獣らは浮足立っている。それを牽制する黒尽くめたちも、自身の指示を待っている状態であった。
老鬼は決断する。やっぱり溜息まじりだったが。片手を上げて素早く数度、人差し指を立て屈伸させて、部下らに符号を送る。その手を後頭部に回した。
「これだけはしたくなかったんだが」
「あァ?」
「後始末が啰唆だ。……『虱潰しに消す』必要が出てくる」
ぼやきつつ、後頭部で結わえている黒布の結び目を解いた。しゅるりと衣擦れをたてて、半面の下から細いそれを引き抜く。
目出し穴のおくで開かれる『右目』に、冽花は今更ながらに気付いた。
元よりの異相であった。まして、仮面の奥など気付きづらい。この男、片目をふさいで今まで戦っていたようだ。それだけでも化け物じみているのだが。
息を飲んだ。ぞわり、と耳の毛まで膨れ上がるのを感じた。
老鬼の右頬に、鮮やかな『桜の絵図』が浮かび上がったからであった。
見る間に纏われる薫香。柔らかい桜の花の香り。
そうして、その目のなかに切れ目がはいる。ぱちり、と白目のなかにもう一つ。『桜色に煌めく瞳』を開かせた。
増えたのは、『人の瞳』である。俗にいう重瞳だ。さらに深まる異相。
が、冽花は別な意味で戦慄を覚えていた。
「お、まえ……その目は」
「ああ」
老鬼は頷いた。
「俺も蟲人だ。……故に退けない。お前を、完膚なきまでに叩きつぶす」
その重たい決意に満ちた一言に、冽花はさらにまごついたのであった。
おもわず奥歯を噛み締めるなり、大振りな一撃を向けてしまう。
だが、それを見逃す老鬼ではない。
応じて突き入れる拳でその手を払い除けるなり、反動を利用し繰りだす拳と真っ直ぐな蹴りを、冽花の胸と腹に叩きこんでいた。
「ぐっ、ぁあ……! ァぐ! うぅ!」
みしり、と鈍い音をたてる肋骨。柔らかい腹。よろめく冽花の横っ面を横殴りの一撃が襲う。歯の欠片を吐いて、女の身は軽々と吹き飛ぶ。床へとはずんで倒れ伏す。
が、そんな彼女を追いたてる老鬼に容赦の一文字はない。
「いぎゃぁぁあ!」
振り上げた足が狙うのは、伏した体ではなく尾だ。
力強く踏みしめる靴底で、尾の骨が砕かれた。腰から目も眩むような痛みが伝播し、冽花は泣き叫んでいた。その身が固まってしまう。
また腹を蹴り上げられて息が詰まる。胃の内容物を吐き散らかし転がる。
収縮する胃と肺に苦しんでいる間に、肩と太腿に刺さる鏢(ひょう)があり――ここで老鬼は手を止めた。
目の前に薄紅色に煌めく光が散ったからである。冽花の猫耳と尻尾が失せる。
現れたのは、彼女をかばい、両腕をひろげる少女であった。
甘い蜂蜜色の瞳を潤ませて、大粒の涙をこぼす、くだんの少女だった。
わななく唇をひらき、老鬼へと切なる叫びをぶつけた。
『もうやめて! っ……冽花を、いじめないで!』
「……お前が、この娘の前世の」
『ええ、わたしがこの子の前世……わたしが頼んだの。わたしのせいなのよ! だから!』
「聞けんな」
『え……?』
「ただでさえにも蟲人は……獣の蟲人は、その身体能力の高さに比例し、生命力も強い。回復力も旺盛《おうせい》であり……ゆえに完全に息の根を止めねばならない。まずもって、俺のこの姿を見た時点で、その娘に生きる余地はない」
『そんな……』
「冽花と言ったか。これが蟲人の戦いだ。互いに譲れないものがある以上、容赦をされることはない。『お前だけではない』のだ」
透ける少女の体ごしに垣間見る、冽花は。腹を押さえたまま、身じろぐことはなかった。
そんな彼女に溜息をつくなり、老鬼はとどめを刺しに――だが、ふと聞こえてくる声に、呟きに、足を止めた。
「……でも……」
「……?」
「それ、でも、あたしは……っ、退くわけには……いかない。今度、こそ」
今度こそ。
老鬼は、目出し穴のおくの両目を眇めた。
「……そう思い、俺も生きている」
低く切り捨てる。そうして、その晒された首筋に鏢《ひょう》を投じようとした。
それで終いである。実際にそれは振るわれかけるところまでいった。
少女が身をひるがえし、冽花の身へと縋りつく。透けた体では到底盾になどなりようがないというのに、冽花の上体にしっかとしがみついて、その身を伏せたのであった。
終わらせることに重きを置いた老鬼は気付かず、知り得なかった。
密に触れ合った二人が、こんな囁きを交わしたことを。
「妹妹」
『うん』
「少し、だけ……『削る』」
『っ……うん』
涙を振りしぼる少女――妹妹の、体が弾けた。再び薄紅色の光の粒となって散り。
冽花の体が、黒く燃え上がったのだった。体の内側から黒い炎が噴き出ているのである。
その奔流は老鬼の手を止めて、飛び退らせるのに十分であった。
炎に押しだされるように傷口から鏢が転がり落ち、ふらつきつつ冽花は起き上がる。
床に手をついて、燃える――獣身を起こし、炯々と輝く目をむけるのであった。
距離をあけた老鬼は目をより眇めて、首を傾いだ。
「なんだ、その炎は。どこから出ている?」
解らない。……視えない。理解ができない。
そう言って目を凝らす老鬼の視界には、傷ついた冽花が、『骨身を透きとおらせる』形で立ち上がる姿が映りこんでいた。
これこそが、老鬼の力であった。
他者の身体……骨、筋肉、血管と、つぶさに透かして俯瞰《ふかん》しうる。
ゆえに、その生物の弱みを知ることができ、また行動の予兆を知ることができる。
『こうしよう』と考えた折に、すでに生き物は無意識に身を反応させているのだから。
ゆえに老鬼は、獣の動体視力をもつ冽花と相対することができていた。
が、その老鬼をして視えない。先が読めずにいる。
怪訝をあらわにする老鬼に、冽花は薄く血のついた唇で笑ってみせた。
「これも、前世からの借りものさ」
「……っ、もしや、お前……」
「ああ。そうさ。……あたしは『二つ』混じってるんだ。正確には、一人と一匹だけどね」
その事実に絶句する。
自分ですらも――固まる老鬼に、冽花は両拳を握り締めて、高々と吼えたのであった。
「おら、どうしたァ!? ビビってんじゃねえぞ! 『お前だけじゃない』……譲れないモンがあるんだろう!?」
「……!」
その言葉を聞くなり顎をひく老鬼に、獰猛に歯を覗かせてみせた。
「お互い大事なモンのためにやり合おうや、老鬼!」
その言葉に老鬼は応えなかったけれど、微かに滲ませた|畏怖(いふ)をも飲みこんで目を眇めた。
そうして二人はぶつかった。
黒き炎に巻かれる冽花に、臆すことなく老鬼は立ち向かっていった。
炎の理屈は解らないけれど、冽花の体は傷ついたままだ。ならば、支障はあると判じて、それまで通りに攻めることを決めたのであった。
鏢を交えがてらに、冽花の傷口を中心に攻めたてる。初めは袖の内側へと手を引っこめ、炎を警戒していたものの、冽花の炎が『熱をもたずに燃やさぬ』ものだとすぐに知って、それまで通りの攻め手に切り替えた。
冽花も負けてはいない。炎を――再び立ち上がって戦うための活力を噴きあがらせて、拳と蹴りで応戦したのであった。
一進一退、紙一重。互いに互いの急所を狙い、守り、また攻める。立ち位置をかえて、飛んで跳ねて、二匹の獣が相食むように二人は戦った。
その様子を、周りは呆けたように眺めているしかできなかった。
それほどまでに二人の戦いは熱く、拮抗していたのである。
だが、長いとも短いともつかない戦いは、やがてお互いに消耗を招き始める。
老鬼は、ずきりと左側頭部に走る痛みに奥歯を嚙みしめた。右目の酷使のしすぎだ。
冽花は、ぐらりと眩暈を感じていた。血を流しすぎていた。
だが。二人は拳を、蹴りを、見舞いあった。
「うぉおおおおおお!」
「おおおおおおおォ!」
そうして。二人は押し合いへし合い――互いの力の合一に、後ろへとそれぞれ弾かれたのであった。
老鬼はたたらを踏みつつ飛び退って着地、事なきを得る。
だが、冽花は。
冽花は。弾き飛ばされた末、それまで自然と背にする形でいた――中央の祭壇に。『縦に埋めこまれている濃緑の棺』へと背から突っ込むなり、盛大に叩き壊したのである。
それを見るなり、ハッと老鬼と周りの者らは息を飲んだ。とくに老鬼は、慌てて一歩を踏み出していた。しかし。
遅かった。
黒い炎もかき消えた冽花は、盛大に咳き込んだ。
口元から新たに血液を溢れさせながら、ぐらりとその身が前へと傾ごうとする。だが、後ろから『緑の差し色を入れた黒籠手の腕』に抱きすくめられていた。
冽花はハッとする。そうして、にわかに泣き笑いめく表情を浮かべる。
体を捻らせるなり。わずかに眉尻をさげて笑い。
「ああ。……迎えにきたぜ、賤竜」
かすかに瞼をもたげている眠たげな硝子球の瞳に、笑いかけながら。
冷たい頬に手を添え、血まみれの唇を重ね合わせたのだった。
起きたことを若干、反射的に後悔する。
背中を中心に、全身に重苦しい痛みがあり痺れており。ついで、額と頬の燃えるような熱に気がついた。
反射的にもごつかせる口元に、針で刺されるような痛みを感じる。
じわりと口のなかに広がる鉄の味。おもわず口を浅く開いた。鼻孔を突き抜けるほどの濃厚な生臭さを、今更ながらに自覚したためであった。
それこそ、吐き気をもよおすほどのもの。
堪らずと。
「いッ……ぐ! っ、うぇぇェ、うぉ……ッ」
痛む体をおして転がり、反射的に床へと血を吐きだしていた。そんな少女――冒冽花にむけて。
『冽花! よかった、目が覚めて!』
息も絶え絶えなその身へと、涙ぐむ少女が縋りついたのであった。
今年で十七になる、歳の割には起伏にとぼしい――代わりに、獣を思わせるしなやかな冽花の体に縋って見下ろすのは、齢十にも満たぬ幼子であった。
甘い蜂蜜色の目は潤んで、今にも溶けて零れ落ちてしまいそうである。
まろい顎下で揃えられた髪――金茶に黒い筋の混じる、縞模様をえがく色みの頭には、ぺったり猫耳が伏せられていた。
よく見ると、少女の泣き顔を透かし、向こう側の風景が見える。
そんな人ならざる異形の少女を見上げて、冽花は弱々しく微笑みを浮かべるのだった。
「は。死んでたまるかよ……っ、これしきの、ことで。今、どうなってる?」
『周りの“気”に変化はないわ。哥哥は、まだお目覚めにはなられていない。でも、怖い帅哥たちも蟲人の人たちも、ずっと奥へ行ってしまったわ』
「休んでる暇は、ないってことか。ったく、本当に……」
呻きを飲んで、床に手をつき起きあがろうとする。が、下っ腹に引き攣るような鈍痛が走り、なかばで身を強張らせていた。腹を押さえ、舌打ちを漏らす。
「っ……他妈的、女の顔と腹殴りやがって。あの野郎、タダじゃすまさねえ……!」
薄く歯列すら剥きだして歯噛みし、冽花は行く手を睨みすえた。
脈打つ熱と痛みを訴えつづける頬をも押さえ。
天井や柱、跪拝台(神前の供物諸々を置く台。この前で跪いて礼拝する)に――転げる調度品。横倒しの香炉。首なしの武神像に至るまで。
すべてが厳格な黒と萌えるような緑色で彩られ、かつ荒らされた廟内から、最奥の壁に開かれた隠し扉を見据えたのであった。
ともにそちらを見た少女が頷く。そうして、ぱん、と硝子の弾けるような音を生んで、その身が薄紅色の光の粒子と化し、散る。
入れ替わるように冽花の、少女と同じ蜂蜜色の目の瞳孔が肥大した。円く肥大するやの、その頬に、じわりと浮かびあがってくる『絵図』があった。
赤く腫らした右頬と、左頬に咲く、艶やかな『杏の花』の絵図。
細い首筋をたどり、背中、それから袖より伸びる引き締まった両手の甲まで。柔らかい布靴に包まれた足の甲まで。その刺青めく痣は花開き、芳しい芳香がひろがった。
そうして、変化は終わらない。
冽花の頭上に猫耳が生えた。先端に房毛があり、先の少女の髪を思わせる、金茶と黒の縞模様がある。しゅるりと袍の裾から、しなやかな縞模様の尾も生えてくる。
生えた瞬間に『けば立つ玉蜀黍』よろしく膨れあがったものの。
苛立たしげに、その尾でタン! と柔く床を一打ちして、両手をついて尻を浮かせた。それこそ、伸びする猫よろしく。
尾は怒髪天を衝くまま激しく振られ始めて、耳は後ろに引かれていた。背を弓なりにし、飛びかかる寸前――臨戦態勢の、憤怒の猫の形相がそこにはあった。
尖る八重歯を剥きだしにし、人身・猫耳猫尾の冽花は、縞模様の風と化す。
騒ぎの渦中に飛び込むまで、あと幾ばくであった。
そうして、縞模様の風が迫る先では。今も一進一退の攻防が続けられていた。
そこは、表にも増して豪華絢爛なる広間であった。
すべてが濡れるような漆塗りの天井や梁で構成されており、極上の琅かん翡翠の彫刻と、孔雀石で描かれた絵図が、所狭しと飾られていた。
そんな『裏の廟』とも呼ばれる場所に祀られているのは、中央の祭壇へと『縦に埋めこまれている濃緑の棺』である。それを守るように四つの屈強な神像が並べられている。
そうして。そんな壮麗かつ異常をたたえる光景にたいし、異を唱える者はいない。
代わりに対面する者を睨みすえて、あるいは刃と爪を、槍と暗器を、拳と蹴りを交わし合っていた。
一進一退の攻防にひびを入れるためだろう。ここで裂ぱくの気合がその場に轟く。
声の主は一人の中肉中背の男であった。紅潮した顔の頬骨へと『赤く艶めく梅の花』の絵図がうかぶ。痣は両腕、その足にまで伝播していく。
広がる濃厚な花の香りに、「新たな『転化』だ! 退けッ」と鋭い声音が飛ぶ。
その声に応じて、対峙した者らの片割れ――『木造りの髑髏の半面をかぶる』黒ずくめ集団の一部が、距離をとった。
片やの『体の一部』、もしくは『全身を獣と化したモノ』達は笑う。紅梅の男は仲間たちの瞳に応じて、うおおおおッと吼え猛ったのである。
見る間にその身は膨れあがり、着ていた衣服がはじけ飛んだ。両腕に太い針めく黒毛が生えそろい、その手――否、前足はゆうに人の顔を覆えるほどにまで肥大していた。
身の丈、七尺(二メートル)余りはこえる、熊と化したのだった。
そうして、じろりと辺りを睥睨し、逃げ遅れた――人獣と今なお鍔迫り合いし拮抗していた黒尽くめを見咎める。前足をつけて、鈍い足音をあげながら直進したのである。
恐るべきはその重量。鋼のような筋肉である。
人獣は易々と、虚をつかれた黒尽くめの剣を弾き返す。早々に離脱していく。あわれ、黒尽くめのみが撥ね飛ばされることとなる。
前足を振るう。木っ端のように黒尽くめが、壁に床にと打ちつけられて転がる。
あっという間に、より濃厚な血の香りがその場を満たした。
熊は勝ち誇ったように吼える。人獣らもまた、自慢の爪や、手にした武器を振り上げて喜んだ。
黒尽くめ側は微かにどよめきが生じる。
が、そのなかで、サッと片腕を伸ばし制する者がいた。
途端に、水を打ったように黒尽くめ達は静まり返る。
その注目のさきで、『唯一、飴色に黒ずんだ髑髏の半面をかぶる』者は口を開いた。
「俺が行く。十二鬼、十三鬼、続け。十四、十五、十六鬼は弩(クロスボウ)の準備を」
「お、長……!」
「老鬼様!」
「獣交じりなど恐るるに足らず。二度は言わん。俺に続け」
その言葉を最後に、飴色髑髏の黒尽くめ――老鬼は駆けだす。黒い長衣をたなびかせて走り、すぐ追いついてきた部下たちへと低い声で指示をだした。
「十二鬼、十三鬼、周りを牽制。後、『鬼殺し』を足、腰部の順に」
「御意」
声をあわせて散開する部下へは目もくれずに、顎をうかせて熊を見やる。
ひと目で『敵方の首魁』だと判じられる者の登場に、熊はやる気十分に迎え撃つ構えである。
そんな彼に、老鬼はそっと袖口から三つの鏢(鏃状の暗器)を抜いた。一つずつ両手に、一つの柄を口へ横ざまに咥える。
鋭く不規則な蛇行。狙いをつけづらくし――さらにこの間、熊の周りでは、老鬼の部下たちが剣を抜いて牽制を始めている。
高まる緊張感と、不規則な動きでの『獲物』の接近。
ゆらゆらと微かに、熊の頭と瞳が揺れた。老鬼は右のそれを素早く投じる。狙いは熊の鼻先である。
張り詰めきった緊張の糸を切られ――さらに、元は人の身であった。
急に視界に飛びこむ刃に軽く混乱をきたし、熊は右前足で弾く。だが、老鬼は時間差で左の鏢をも投じている。今度は左目ねらいで。
熊は『振るった足をつけ直さず』に『立ち上がる』。
本来の熊なら起こりうる隙をきらい、左前足で鏢を払いのけたのだ。
だが、その直後である。右目に間髪いれずに飛びこむ刃があり、悲鳴を轟かせていた。
痛みで刹那に強ばる身体。それを見て、老鬼の部下が動く。
潰れた右目の死角をぬって、側面に回りこまんとする。遅れて気付いて熊も反転せんとするものの、右足に激痛をかんじ、ぎくりと動きを止めていた。
深々と足を穿つ剣があり、それを手にしゃがみこむ、もう一人の黒尽くめがいた。
みるみるうちに傷つけられる体。怒りと悲壮に胸焦がされて、左前足を振り上げる。が、折り重なる衝撃が走る。弩の矢だ。反動で食い止められてしまう。
歯噛みする間もなく身をのけ反らせる。肉を割られる痛みが腰部から這いあがっていた。
ぎぁぁあ、と聞くに堪えない悲鳴をあげる。
先に見逃してしまった黒尽くめである。こちらも剣を振るっていた。
どうして。なぜだ、と熊は混乱する。
自分の肉は鋼のごとき硬さであるはずだ、と。身は重たく、腕も力強い。こんな木っ端など一捻りの。
はずなのに。
惑乱する頭は自然と助けを求め、周りを見回す。その首に、ひゅんと風切って錘付きの鋼糸が投げつけられた。首周りに巻きついて引かれる力へと、おもわず唸りが漏れる。
しかし、熊の頭の中はすでに、取り返しのつかぬほど荒れ果てていた。
味方はみな弩で牽制されている。近づけない。援護は望めない。なら、と足を穿つ者を見下ろした折に、ぐらりと眩暈を覚えた。
血を流し過ぎたか――否、それこそ、足元の黒尽くめを見て、思い出す。
こいつらは、さっきなんと言われていた?
獣なら分からなかったが、頭は人間なので解ってしまった。
“十二鬼、十三鬼、周りを牽制。後、『鬼殺し』を足、腰部の順に”
鬼殺しとはまさか。毒か、と。
熊は今更ながらに戦慄する。
最初から自分がこうなることを。熊を、こうさせることを見越して動いていたのなら。
なんと恐ろしいものに牙を剥いたのだ、と。だが、もうどうすることもできない。
脳や感覚器に繋がる目をやられており、まともに思考することすらできずにいる。
右目が焼けるように痛い。熱い血が噴き出ていて止まらなかった。
血が。ああ、血がこんなに噴きでて。おれの命がこんなにも、流れてしまい。
悲嘆にくれて見下ろすさきで、老鬼と目が合う。
涼しげで無機質、自分を傷つけたことを――自分に対する価値をこれっぽっちも抱いていない。路傍の石を見るような瞳に、なけなしの怒りが湧いた。
それが、最後の命の輝きとも言えたかもしれない。
なぜ老鬼が傍らに在るのか。熊の左前足が振りきられるだけで、ぐずぐずの肉の塊と化してしまう距離であるのに。
その理由を思考する余地が、もう熊にはなかったのである。
なけなしの自由意思にしたがい、左前足を――ひゅるんと巻きつけられた錘付きの鋼糸ごと、思いきり振りきろうとするだけであった。
そうして、首筋に熱い衝撃を覚える。視界が少しずつ下方へとずれていって。
みるみる近づく『自分を見上げている老鬼』が、『踵を返す』姿までは見ることなく。
その生を終えた。
が。熊の健闘にも意味はあった。ある意味では。
その首が体から離れて、ゆっくりと倒れこんでいく。切り口からおびただしい血と紅梅の花びらめく燐光を散らしながら、巨体が萎んでいく――中肉中背の首なし死体へと戻り、倒れ伏す。
その異様な光景を背に、祭壇へと老鬼が足を進めようとした。
その瞬間に、『彼女』を間に合わせたのであった。
「長ァ!」
部下の、切羽詰まった声を聞き届けるとどうじに、老鬼は足を止めた。
次々に打ち出される弩の射出音。だが、老鬼は振りむきざま、後足を退いて腰を落とし、腕を交差させた。
「老ぁぁぉぉ鬼ィィ――ッ!」
そう叫びながらぶっ飛んできた猫娘がいたためである。
烈しくまっすぐ愚直な――飛び蹴りであった。
その後ろには、弩の矢で無残にも破壊された孔雀石の絵図が幾つもあった。
だが、どれもこの烈しくも艶やかなる『杏色の風』を止めることはできなかったようだ。逆巻きそよぐそれに老鬼は目を細めた。
受け止めるものの踏んばり切れずに、老鬼は右へ体をひねる。衝撃で痺れる腕に密かに奥歯を噛みしめつつ、拳を握り締めた。
受け流しがてら、近づく娘の顔へと一発くれるべく。文字通り、鼻っ柱をへし折ってやろうとした。だが。
「っ、何度もボコボコ殴られてぇ……たまるかってんだよッ! オラ!」
「っむ」
ぺん! と強かに、柔らかくしなる、若干痛いもので逆に頬を張られてしまう。
流し見れば、彼女の尾である。
舌打ちを一度。裾をはらい、老鬼は身をひるがえした。
降り立つ冽花と相対する。
「太啰唆。あのまま寝ていればよかったものを」
「ハッ。そうすりゃ、お優しい老鬼様が……帰りしなについでに、痛みも感じさせずに、蓮葉の流れへ送ってくれるってえ寸法かい?」
「分かっているじゃないか。俺たちの争いに、横から首を突っ込んできた身の上で」
「ッ! っていうか……アンタらこそが横入りなんだっつーの!」
「ほう?」
おもわずと怪訝に首をかしげる老鬼に、冽花は指を突きつける。
「こちとら、十七年間この場所を夢に見てきたんだよ! 来る日も来る日もずっとな! 『今度こそ、やり残したことを果たすんだ』って……そう考えてた。そんで、ようやくだ。ようやく来れたってのに……ドンパチされてたんだよ!」
けば立つ玉蜀黍もかくやの尾とともに、ひどく興奮して吼えた。
老鬼は得心した。目の前の異形と化した少女。そうして、その物言い。なにより、突きつけられた細腕にうかぶ『杏の花』の痣。引き連れる薫風といい。
「お前、賤竜の縁者の蟲人か」
「ああ。――っ、ご明察だ、よッ、笨蛋ッ!」
「口も悪ければ足癖も悪い」
そうして老鬼が得心すると同時に、冽花は突きつけていた腕を横ざまに振るう。反動で回し蹴りを見舞ったのであった。
右側頭部を的確に狙う、勢いはあるものの分かりやすい軌道。老鬼は腕を差し入れて受け止め、無防備な軸足を払う。崩れ落ちてくる身の肩をつかみ、腹に、浮かせた膝を突き刺すつもりでいた。
が、目を見開く。すぐさま膝を退くや、冽花を突き飛ばしていた。
飛び退く彼女は、腕をひいて拳を握り締めていた。鋭く弓引くような姿勢。舌を打って睨みすえていたのは――老鬼の股間だ。
「手癖も悪いときている」
「へっ。女の顔と腹ァ殴る賎貨にゃあ、陽萎がお似合いだ!」
「下流」
「閉嘴!」
噛みつくように吼えたてる。
そんな冽花へと――老鬼は、目だし穴の目を針のように眇めていた。
消耗はしているはずだ。現に一度倒れ伏している。
が、血みどろながらも意気軒昂にまだまだ吼えたける彼女を見て、太い溜息をついた。
そうして瞳を横へと動かす。周囲の状況を見て――一刻の猶予もないと判じたのである。
事態は拮抗し、切迫していた。
同じ人獣とはいえ、同一集団ではない彼女の登場に、人獣らは浮足立っている。それを牽制する黒尽くめたちも、自身の指示を待っている状態であった。
老鬼は決断する。やっぱり溜息まじりだったが。片手を上げて素早く数度、人差し指を立て屈伸させて、部下らに符号を送る。その手を後頭部に回した。
「これだけはしたくなかったんだが」
「あァ?」
「後始末が啰唆だ。……『虱潰しに消す』必要が出てくる」
ぼやきつつ、後頭部で結わえている黒布の結び目を解いた。しゅるりと衣擦れをたてて、半面の下から細いそれを引き抜く。
目出し穴のおくで開かれる『右目』に、冽花は今更ながらに気付いた。
元よりの異相であった。まして、仮面の奥など気付きづらい。この男、片目をふさいで今まで戦っていたようだ。それだけでも化け物じみているのだが。
息を飲んだ。ぞわり、と耳の毛まで膨れ上がるのを感じた。
老鬼の右頬に、鮮やかな『桜の絵図』が浮かび上がったからであった。
見る間に纏われる薫香。柔らかい桜の花の香り。
そうして、その目のなかに切れ目がはいる。ぱちり、と白目のなかにもう一つ。『桜色に煌めく瞳』を開かせた。
増えたのは、『人の瞳』である。俗にいう重瞳だ。さらに深まる異相。
が、冽花は別な意味で戦慄を覚えていた。
「お、まえ……その目は」
「ああ」
老鬼は頷いた。
「俺も蟲人だ。……故に退けない。お前を、完膚なきまでに叩きつぶす」
その重たい決意に満ちた一言に、冽花はさらにまごついたのであった。
おもわず奥歯を噛み締めるなり、大振りな一撃を向けてしまう。
だが、それを見逃す老鬼ではない。
応じて突き入れる拳でその手を払い除けるなり、反動を利用し繰りだす拳と真っ直ぐな蹴りを、冽花の胸と腹に叩きこんでいた。
「ぐっ、ぁあ……! ァぐ! うぅ!」
みしり、と鈍い音をたてる肋骨。柔らかい腹。よろめく冽花の横っ面を横殴りの一撃が襲う。歯の欠片を吐いて、女の身は軽々と吹き飛ぶ。床へとはずんで倒れ伏す。
が、そんな彼女を追いたてる老鬼に容赦の一文字はない。
「いぎゃぁぁあ!」
振り上げた足が狙うのは、伏した体ではなく尾だ。
力強く踏みしめる靴底で、尾の骨が砕かれた。腰から目も眩むような痛みが伝播し、冽花は泣き叫んでいた。その身が固まってしまう。
また腹を蹴り上げられて息が詰まる。胃の内容物を吐き散らかし転がる。
収縮する胃と肺に苦しんでいる間に、肩と太腿に刺さる鏢(ひょう)があり――ここで老鬼は手を止めた。
目の前に薄紅色に煌めく光が散ったからである。冽花の猫耳と尻尾が失せる。
現れたのは、彼女をかばい、両腕をひろげる少女であった。
甘い蜂蜜色の瞳を潤ませて、大粒の涙をこぼす、くだんの少女だった。
わななく唇をひらき、老鬼へと切なる叫びをぶつけた。
『もうやめて! っ……冽花を、いじめないで!』
「……お前が、この娘の前世の」
『ええ、わたしがこの子の前世……わたしが頼んだの。わたしのせいなのよ! だから!』
「聞けんな」
『え……?』
「ただでさえにも蟲人は……獣の蟲人は、その身体能力の高さに比例し、生命力も強い。回復力も旺盛《おうせい》であり……ゆえに完全に息の根を止めねばならない。まずもって、俺のこの姿を見た時点で、その娘に生きる余地はない」
『そんな……』
「冽花と言ったか。これが蟲人の戦いだ。互いに譲れないものがある以上、容赦をされることはない。『お前だけではない』のだ」
透ける少女の体ごしに垣間見る、冽花は。腹を押さえたまま、身じろぐことはなかった。
そんな彼女に溜息をつくなり、老鬼はとどめを刺しに――だが、ふと聞こえてくる声に、呟きに、足を止めた。
「……でも……」
「……?」
「それ、でも、あたしは……っ、退くわけには……いかない。今度、こそ」
今度こそ。
老鬼は、目出し穴のおくの両目を眇めた。
「……そう思い、俺も生きている」
低く切り捨てる。そうして、その晒された首筋に鏢《ひょう》を投じようとした。
それで終いである。実際にそれは振るわれかけるところまでいった。
少女が身をひるがえし、冽花の身へと縋りつく。透けた体では到底盾になどなりようがないというのに、冽花の上体にしっかとしがみついて、その身を伏せたのであった。
終わらせることに重きを置いた老鬼は気付かず、知り得なかった。
密に触れ合った二人が、こんな囁きを交わしたことを。
「妹妹」
『うん』
「少し、だけ……『削る』」
『っ……うん』
涙を振りしぼる少女――妹妹の、体が弾けた。再び薄紅色の光の粒となって散り。
冽花の体が、黒く燃え上がったのだった。体の内側から黒い炎が噴き出ているのである。
その奔流は老鬼の手を止めて、飛び退らせるのに十分であった。
炎に押しだされるように傷口から鏢が転がり落ち、ふらつきつつ冽花は起き上がる。
床に手をついて、燃える――獣身を起こし、炯々と輝く目をむけるのであった。
距離をあけた老鬼は目をより眇めて、首を傾いだ。
「なんだ、その炎は。どこから出ている?」
解らない。……視えない。理解ができない。
そう言って目を凝らす老鬼の視界には、傷ついた冽花が、『骨身を透きとおらせる』形で立ち上がる姿が映りこんでいた。
これこそが、老鬼の力であった。
他者の身体……骨、筋肉、血管と、つぶさに透かして俯瞰《ふかん》しうる。
ゆえに、その生物の弱みを知ることができ、また行動の予兆を知ることができる。
『こうしよう』と考えた折に、すでに生き物は無意識に身を反応させているのだから。
ゆえに老鬼は、獣の動体視力をもつ冽花と相対することができていた。
が、その老鬼をして視えない。先が読めずにいる。
怪訝をあらわにする老鬼に、冽花は薄く血のついた唇で笑ってみせた。
「これも、前世からの借りものさ」
「……っ、もしや、お前……」
「ああ。そうさ。……あたしは『二つ』混じってるんだ。正確には、一人と一匹だけどね」
その事実に絶句する。
自分ですらも――固まる老鬼に、冽花は両拳を握り締めて、高々と吼えたのであった。
「おら、どうしたァ!? ビビってんじゃねえぞ! 『お前だけじゃない』……譲れないモンがあるんだろう!?」
「……!」
その言葉を聞くなり顎をひく老鬼に、獰猛に歯を覗かせてみせた。
「お互い大事なモンのためにやり合おうや、老鬼!」
その言葉に老鬼は応えなかったけれど、微かに滲ませた|畏怖(いふ)をも飲みこんで目を眇めた。
そうして二人はぶつかった。
黒き炎に巻かれる冽花に、臆すことなく老鬼は立ち向かっていった。
炎の理屈は解らないけれど、冽花の体は傷ついたままだ。ならば、支障はあると判じて、それまで通りに攻めることを決めたのであった。
鏢を交えがてらに、冽花の傷口を中心に攻めたてる。初めは袖の内側へと手を引っこめ、炎を警戒していたものの、冽花の炎が『熱をもたずに燃やさぬ』ものだとすぐに知って、それまで通りの攻め手に切り替えた。
冽花も負けてはいない。炎を――再び立ち上がって戦うための活力を噴きあがらせて、拳と蹴りで応戦したのであった。
一進一退、紙一重。互いに互いの急所を狙い、守り、また攻める。立ち位置をかえて、飛んで跳ねて、二匹の獣が相食むように二人は戦った。
その様子を、周りは呆けたように眺めているしかできなかった。
それほどまでに二人の戦いは熱く、拮抗していたのである。
だが、長いとも短いともつかない戦いは、やがてお互いに消耗を招き始める。
老鬼は、ずきりと左側頭部に走る痛みに奥歯を嚙みしめた。右目の酷使のしすぎだ。
冽花は、ぐらりと眩暈を感じていた。血を流しすぎていた。
だが。二人は拳を、蹴りを、見舞いあった。
「うぉおおおおおお!」
「おおおおおおおォ!」
そうして。二人は押し合いへし合い――互いの力の合一に、後ろへとそれぞれ弾かれたのであった。
老鬼はたたらを踏みつつ飛び退って着地、事なきを得る。
だが、冽花は。
冽花は。弾き飛ばされた末、それまで自然と背にする形でいた――中央の祭壇に。『縦に埋めこまれている濃緑の棺』へと背から突っ込むなり、盛大に叩き壊したのである。
それを見るなり、ハッと老鬼と周りの者らは息を飲んだ。とくに老鬼は、慌てて一歩を踏み出していた。しかし。
遅かった。
黒い炎もかき消えた冽花は、盛大に咳き込んだ。
口元から新たに血液を溢れさせながら、ぐらりとその身が前へと傾ごうとする。だが、後ろから『緑の差し色を入れた黒籠手の腕』に抱きすくめられていた。
冽花はハッとする。そうして、にわかに泣き笑いめく表情を浮かべる。
体を捻らせるなり。わずかに眉尻をさげて笑い。
「ああ。……迎えにきたぜ、賤竜」
かすかに瞼をもたげている眠たげな硝子球の瞳に、笑いかけながら。
冷たい頬に手を添え、血まみれの唇を重ね合わせたのだった。
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