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現界ノ章:SECTION2『ルメリア襲来編』
EP:SWORD 043 禁忌の三日間
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——その日、『禁忌の三日間』という伝説が、世界中に知れ渡った。
*
「ふふんふーんっ、ターチタタターチスチスおねえっちゃんっ」
ターチスが白焔の翼を広げてどこかへ飛び立った後、ルメリアはヘンテコな鼻歌を口ずさみながら、自分の分の夕飯を作っていた。
雷鳥の卵を割ることも、三角獣の肉を焼くことも、鬼喰い草を始めとした野菜を切ってサラダにすることも、半魚竜の出汁をとって高級レストラン顔負けのスープを作ることも、剣能で生成した氷に甘糖やクリームを混ぜてデザートを作ることも。
全部ターチスから教わって、覚えて、一緒に作って食べてきた料理たちだ。今はもう、エプロン無しでも真っ白いローブを汚さなくて済むまでに極めている。
献立は日替わりで、ターチスの無限ともいえる知識の海から引き揚げた情報の塊を料理という形に昇華していく。それは料理だけに留まらず、様々なことにおいてそうだった。
と、知らずうちにここには居ない姉君のことを考えてしまっていた自分に気付き、ルメリアは首を強く振って料理を完成させる。
「出来上がり~! そうしたら、後はテーブルにどかぁんっと……」
そうして、また気付く。今ここには居ない人の分まで、無意識のうちに作ってしまっていたことに。
「あちゃぁ……」
白髪を掻いて、途方に暮れるルメリア。しかし、すぐに「よしっ」と拳を握ると、
「全部食べちゃえ! そして、お姉ちゃんが帰る頃には、ルメの背がうんと伸びていて、びっくりさせてやるのだ!」
今までの短い人生の中では前代未聞ともいえる量を、ルメリアは全て食すことを決意する。
そして、二人前の三口目に差し掛かったところで、「作り置き」という素晴らしい方法を思いつくのだった。
それからも、今まで通りにお風呂に入り、歯を磨いて。
ターチスが特別な力で制御している『異空間』に渡り、もはや一つの街といっても過言ではないほどに置いてある本棚の壁や本棚で作られた色々な家を見て回って、興味のある本を見つけたら師直伝の速読法を駆使して何十冊も読み耽り、
「あ、もう寝る時間だ」
魔時計の光針が『冥刻の十二』を示しているのに気付き、ルメリアは自分とターチスが使っている寝室に戻るため、読みかけの本にしおりを挟もうとして、
「あれ……?」
最後のページと裏表紙に挟んでいた厚紙のそれが、黒い粒子のようなものを発して消えていく瞬間を目にした。
どうして消えたのか。その原理が分からないまま、ルメリアは他のしおりを探そうと顔を上げて辺りを見回し、
「…………え?」
——空間が黒く崩壊し始めていることに気付く。
よく見れば、それはビキビキと音を立てた黒い薄氷だった。それがルメリアの足元から周囲へと行き渡っていて、この果てしない書斎空間を凍てつかせているのだ。
だが、どうしても理解が出来ないことがあった。
何故、『崩落』していくのか。
いや、それ以前に。ルメリアは、魔剣を顕現させてすらいない。あの氷剣が無ければ、当然ながら魔剣術士であるルメリアは剣能である『凍結』が実行できない筈なのだ。
それなのに、氷は、しかも黒く染まって辺り一帯を埋め尽くさんとしている。『黒い氷』には、ルメリアも心当たりがあった。
この世に産まれた瞬間。ターチスと初めて出会って戦闘した時。そして、つい最近では、学園の入学式の時。
いずれも、氷は黒く染まって威力も桁違いだった。しかし、どの瞬間においても、色が黒かっただけで物事を崩落させるなんてことは無かった。
それが今、どういう訳か目の前で起こっていて。
「や、やめて……ここは、お姉ちゃんの大事な書斎なの……」
ロユリの時とはまた別の恐怖が、ルメリアを襲う。
弱々しい静止の声は黒氷には届かず、尚も崩落は続く。
「やめてッ!!」
一際、大きな声を出した。
直後、黒い凍結はピタリと止まった。共に崩落の衝動も止み、薄氷のようい辺りを覆うそれは徐々にルメリアの足元へと帰結し、集約されていく。
まるで、主の言いつけを守る眷属のように。
気が付けば、黒い凍結に飲み込まれていたしおりや本の数々は元に戻っており、何事も無かったかのような静寂が、そこにはあった。
「————」
ルメリアは、ただその場で震えていた。自分で自分の身を抱いて、ただただ恐怖していた。
何で。何で、こんなことが起きた。
あらゆる知識を師と共に貪り、生まれてまだ短い人生ながらも様々な経験をし、色々な物事を理解してきた『剣神ノ子』であっても。
この出来事は、災厄の前兆として、そして恐怖の象徴として胸の奥深くに刻まれたのだった。
*
眠れない夜だった。
震えが止まず、夜風が微かに窓を叩く音すら、やけに大きく聞こえてしまう。
自分を取り巻く全てを感覚が鋭敏に捉え、万象がルメリアの進化がために起こるような感覚。
全知全能を欲する者ならば、この神秘に酔いしれて超常を謳歌するだろう。だが、ルメリアはまだ子供で、ただ愛しい姉が一時的でも去ってしまって寂しがっている幼い妹で。
そんな彼女だからこそ、事態の大きさを理解することは出来なかった。
たとえ今、ターチスやロユリが『剣神ノ子』としての力が一段と進化する時期だと説明しても、ルメリアは理解しようと思わないだろう。
けれども。
産まれた瞬間から魔剣を顕現させ、息を吸うが如く剣を振るい、剣能を発してきた彼女にとって。
皮肉にも、一番の理解者は今もベッドの隅に立てかけてある、氷作りの剣だった。
溢れんばかりの膨大な魔気が、ルメリアに囁くのだ。
進化せよ、と。お前はまだ芽吹いたばかりの幼い蕾でしかない。さらなる力を欲し、己の身を磨き、世界そのものを斬る程の存在になれ、と。
「ふざ、けるな……」
か細く、神童は呟く。
「ルメは……ルメリア・ユーリップは、『剣神ノ子』であってもお前の奴隷なんかじゃない……!」
この世で自分を最も理解してくれるのは、愛してくれるのは、見てくれるのは、ターチス・ザミただ一人。
それだけで十分。たったそれだけの事実で、ルメリアは満足なのだ。
だから、これ以上の力なんて求めない。ターチスの教えを受けて自らを研磨することがあっても、魔剣術士としてのこれ以上の成長は望まない。ターチスも、それはよく分かっている筈だ。
だから、
「お前とは、決別する。もうこれ以上、『ルメリア』を穢すな」
決意する勇気すら必要無く、ルメリアはたった今、産まれた瞬間から共に過ごしてきた魔剣との繋がりを断ち斬った。
ルメリアにとって、それはいつでも出来た行為であり、眠るために灯りを消すような、そんな取り留めのないことだった。
自分を魔気で縛り付ける魔剣があるから、自分は『剣神ノ子』として在り続けなければならなかった。だったら、そんな呪縛、さっさと断ち斬ってしまえばよかった。
そして今、それを成し、ルメリアは解き放たれた。
氷剣はやがて霧散し、今までルメリアを覆っていた『剣神ノ子』としての彼女の姿と同時に音を立てて崩れ去る。
神童からただの子へと。
ターチスが愛してくれる、本当の意味でのルメリアへと。
彼女はしがらみを断ち、そして程無くして。
安心したように、眠りについた。
*
閉じたカーテンの隙間から差し込む陽光で目が覚めて、なんとはなしに枕の周りを手で探る。
「あ……」
そこでようやく、朧な意識が醒める。ルメリアは、無意識のうちにあの氷剣を探していた。
そのぐらいには大事で、長く共に居たのだろう。でも、もう関係は無い。ルメリアは、魔剣術士でも無ければ『剣神ノ子』でも無いのだから。
改めてその事実を認めた途端、急に気分は晴れ晴れとしてきて。
「お姉ちゃん、まだかな……ぁ?」
——窓から覗く世界が凍っているという事実に、心臓が激しく脈打った。
目を見開いて凍結世界に釘付けになるルメリアは、困惑の声を喉から漏らしていた。
有り得ない。
こんなこと、あっていい筈が無い。
「うそに、決まってる……!」
黒い花柄のネグリジェを纏ったまま、ルメリアは窓を開けて凍てついた庭に飛び出した。普段ならターチスに「はしたない」と叱られるのでやらない行為だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
裸足で氷面に降り立って、すぐにルメリアは周りを見渡したり、手を開閉したりした。魔気の繋がりを断ち斬った筈の、あの魔剣がひとりでに暴走したというのなら、まだ話はつく。
それで決して逃れられない定めにあるのだと分かったら、ルメリアは仕方なく氷剣と再び結びつく選択をするだろう。
だが、
「どこにも、剣が無い……それどころか」
それどころか。
『歩く』。たったそれだけの動作で、氷は黒く染まって彼女が歩んだ軌跡は消し炭のようにして崩れ去っていく。
昨晩、書斎空間で起きた異常。それがまた、ルメリアを中心に巻き起ころうとしている。
いや、それは既に起きていた。
「あ、お庭が、花が、木が……黒く、染まって……っ」
ルメリアが訳も分からず周りを見ているうちに、万物を凍らせている氷に黒が灯り、崩落が始まっていく。
それはまるで、いつしかターチスに読み聞かせてもらった本に出てくる『冥神』の伝説に酷似していた。
万物を創生する傍らで、万物を壊死させていた災厄の象徴。あくまで伝説の域は出ないが、同じく『神』の名を冠する力の一端を持つルメリアにとって、それは他人事だとは思えなかった。
『壊死』。さながら呪いめいたその術式がルメリア自身に宿っていて、それが今、本人の意志とは関係なく暴発しているのだとしたら。
「いや、だ……そんなのは、いやだ……嫌だっ!!」
頭の良いルメリアは、すぐにある結論に辿り着いてしまった。
もしこのまま暴発が続けば、すぐにでも警護騎士団が駆け付けてルメリアを抑えにかかる。しかし、いくら腕利きが集う騎士団であっても、『剣神ノ子』たる力を発動させているルメリアに勝てる見込みは無いに等しい。
そもそも、なぜ魔剣無くして剣能が発動しているのか。
その結論も、既に出ていた。
——『剣神ノ子』は、存在自体が魔剣である。
これもまた、あの膨大な量の書物の中から偶然引き抜いて呼んだ情報の一端。
魂、想念、意思事態が剣となり、肉体はその鞘である。
故に、魔剣と繋がろうが離れようが、当人の力に変化は無く。
それは、『魔裂大戦』より以前にこの『バーフェナ界』を統治していた『魔法』、そして今では他国家にて『聖導術』と称されているそれと似てはいるが、威力や発動過程における術式の構築・展開速度は比較にならないほどに優れている。
何故なら、ルメリアが扱う剣能には、まず『過程』という概念が無い。
身じろぎするだけの動作で、枕の周りを探るだけの動作で、困惑に駆られて思わず周りをきょろきょろとしてしまうだけの動作で。
広大の庭一帯を、瞬く間に凍り付かせてしまうのだから。
「街の方は、大丈夫かな……? 行って見に行った方が……でも、そのせいで凍結が広がったら……うう、どうすればいいの、お姉ちゃん……っ」
逡巡している間にも、破壊には漆黒が灯り、壮麗な庭を崩落させてゆく。その証拠に、たった今声を発しただけで、凍結が加速したのだ。
ルメリアは、思わず口を覆って膝をついてしまった。
息を吸って吐くだけでも、凍結と崩落に拍車を掛けてしまう。ならば、もういっそのこと、このまま息を止めて死ぬしかないのではないか。
だって、そうしなければ、ターチスに迷惑が掛かってしまうから。彼女が大切にしていた書斎空間も、屋敷も、庭も、それから街や国だって。
全部、ルメリアが壊しかねないのだから。
そう思って。
「——ッ!?」
目の前に巨大な火の玉が飛んできて、ルメリアは咄嗟に後方へ跳躍した。その反動でまた凍結が加速したが、瞬時に広がった火炎がそれらを相殺し、均衡が保たれる。
白くない、ごく普通の、威力が高いだけの火球。
それをすぐに分析して顔を上げたルメリアの先に、それは居た。
——巨大な、黒竜が。
*
「ふふんふーんっ、ターチタタターチスチスおねえっちゃんっ」
ターチスが白焔の翼を広げてどこかへ飛び立った後、ルメリアはヘンテコな鼻歌を口ずさみながら、自分の分の夕飯を作っていた。
雷鳥の卵を割ることも、三角獣の肉を焼くことも、鬼喰い草を始めとした野菜を切ってサラダにすることも、半魚竜の出汁をとって高級レストラン顔負けのスープを作ることも、剣能で生成した氷に甘糖やクリームを混ぜてデザートを作ることも。
全部ターチスから教わって、覚えて、一緒に作って食べてきた料理たちだ。今はもう、エプロン無しでも真っ白いローブを汚さなくて済むまでに極めている。
献立は日替わりで、ターチスの無限ともいえる知識の海から引き揚げた情報の塊を料理という形に昇華していく。それは料理だけに留まらず、様々なことにおいてそうだった。
と、知らずうちにここには居ない姉君のことを考えてしまっていた自分に気付き、ルメリアは首を強く振って料理を完成させる。
「出来上がり~! そうしたら、後はテーブルにどかぁんっと……」
そうして、また気付く。今ここには居ない人の分まで、無意識のうちに作ってしまっていたことに。
「あちゃぁ……」
白髪を掻いて、途方に暮れるルメリア。しかし、すぐに「よしっ」と拳を握ると、
「全部食べちゃえ! そして、お姉ちゃんが帰る頃には、ルメの背がうんと伸びていて、びっくりさせてやるのだ!」
今までの短い人生の中では前代未聞ともいえる量を、ルメリアは全て食すことを決意する。
そして、二人前の三口目に差し掛かったところで、「作り置き」という素晴らしい方法を思いつくのだった。
それからも、今まで通りにお風呂に入り、歯を磨いて。
ターチスが特別な力で制御している『異空間』に渡り、もはや一つの街といっても過言ではないほどに置いてある本棚の壁や本棚で作られた色々な家を見て回って、興味のある本を見つけたら師直伝の速読法を駆使して何十冊も読み耽り、
「あ、もう寝る時間だ」
魔時計の光針が『冥刻の十二』を示しているのに気付き、ルメリアは自分とターチスが使っている寝室に戻るため、読みかけの本にしおりを挟もうとして、
「あれ……?」
最後のページと裏表紙に挟んでいた厚紙のそれが、黒い粒子のようなものを発して消えていく瞬間を目にした。
どうして消えたのか。その原理が分からないまま、ルメリアは他のしおりを探そうと顔を上げて辺りを見回し、
「…………え?」
——空間が黒く崩壊し始めていることに気付く。
よく見れば、それはビキビキと音を立てた黒い薄氷だった。それがルメリアの足元から周囲へと行き渡っていて、この果てしない書斎空間を凍てつかせているのだ。
だが、どうしても理解が出来ないことがあった。
何故、『崩落』していくのか。
いや、それ以前に。ルメリアは、魔剣を顕現させてすらいない。あの氷剣が無ければ、当然ながら魔剣術士であるルメリアは剣能である『凍結』が実行できない筈なのだ。
それなのに、氷は、しかも黒く染まって辺り一帯を埋め尽くさんとしている。『黒い氷』には、ルメリアも心当たりがあった。
この世に産まれた瞬間。ターチスと初めて出会って戦闘した時。そして、つい最近では、学園の入学式の時。
いずれも、氷は黒く染まって威力も桁違いだった。しかし、どの瞬間においても、色が黒かっただけで物事を崩落させるなんてことは無かった。
それが今、どういう訳か目の前で起こっていて。
「や、やめて……ここは、お姉ちゃんの大事な書斎なの……」
ロユリの時とはまた別の恐怖が、ルメリアを襲う。
弱々しい静止の声は黒氷には届かず、尚も崩落は続く。
「やめてッ!!」
一際、大きな声を出した。
直後、黒い凍結はピタリと止まった。共に崩落の衝動も止み、薄氷のようい辺りを覆うそれは徐々にルメリアの足元へと帰結し、集約されていく。
まるで、主の言いつけを守る眷属のように。
気が付けば、黒い凍結に飲み込まれていたしおりや本の数々は元に戻っており、何事も無かったかのような静寂が、そこにはあった。
「————」
ルメリアは、ただその場で震えていた。自分で自分の身を抱いて、ただただ恐怖していた。
何で。何で、こんなことが起きた。
あらゆる知識を師と共に貪り、生まれてまだ短い人生ながらも様々な経験をし、色々な物事を理解してきた『剣神ノ子』であっても。
この出来事は、災厄の前兆として、そして恐怖の象徴として胸の奥深くに刻まれたのだった。
*
眠れない夜だった。
震えが止まず、夜風が微かに窓を叩く音すら、やけに大きく聞こえてしまう。
自分を取り巻く全てを感覚が鋭敏に捉え、万象がルメリアの進化がために起こるような感覚。
全知全能を欲する者ならば、この神秘に酔いしれて超常を謳歌するだろう。だが、ルメリアはまだ子供で、ただ愛しい姉が一時的でも去ってしまって寂しがっている幼い妹で。
そんな彼女だからこそ、事態の大きさを理解することは出来なかった。
たとえ今、ターチスやロユリが『剣神ノ子』としての力が一段と進化する時期だと説明しても、ルメリアは理解しようと思わないだろう。
けれども。
産まれた瞬間から魔剣を顕現させ、息を吸うが如く剣を振るい、剣能を発してきた彼女にとって。
皮肉にも、一番の理解者は今もベッドの隅に立てかけてある、氷作りの剣だった。
溢れんばかりの膨大な魔気が、ルメリアに囁くのだ。
進化せよ、と。お前はまだ芽吹いたばかりの幼い蕾でしかない。さらなる力を欲し、己の身を磨き、世界そのものを斬る程の存在になれ、と。
「ふざ、けるな……」
か細く、神童は呟く。
「ルメは……ルメリア・ユーリップは、『剣神ノ子』であってもお前の奴隷なんかじゃない……!」
この世で自分を最も理解してくれるのは、愛してくれるのは、見てくれるのは、ターチス・ザミただ一人。
それだけで十分。たったそれだけの事実で、ルメリアは満足なのだ。
だから、これ以上の力なんて求めない。ターチスの教えを受けて自らを研磨することがあっても、魔剣術士としてのこれ以上の成長は望まない。ターチスも、それはよく分かっている筈だ。
だから、
「お前とは、決別する。もうこれ以上、『ルメリア』を穢すな」
決意する勇気すら必要無く、ルメリアはたった今、産まれた瞬間から共に過ごしてきた魔剣との繋がりを断ち斬った。
ルメリアにとって、それはいつでも出来た行為であり、眠るために灯りを消すような、そんな取り留めのないことだった。
自分を魔気で縛り付ける魔剣があるから、自分は『剣神ノ子』として在り続けなければならなかった。だったら、そんな呪縛、さっさと断ち斬ってしまえばよかった。
そして今、それを成し、ルメリアは解き放たれた。
氷剣はやがて霧散し、今までルメリアを覆っていた『剣神ノ子』としての彼女の姿と同時に音を立てて崩れ去る。
神童からただの子へと。
ターチスが愛してくれる、本当の意味でのルメリアへと。
彼女はしがらみを断ち、そして程無くして。
安心したように、眠りについた。
*
閉じたカーテンの隙間から差し込む陽光で目が覚めて、なんとはなしに枕の周りを手で探る。
「あ……」
そこでようやく、朧な意識が醒める。ルメリアは、無意識のうちにあの氷剣を探していた。
そのぐらいには大事で、長く共に居たのだろう。でも、もう関係は無い。ルメリアは、魔剣術士でも無ければ『剣神ノ子』でも無いのだから。
改めてその事実を認めた途端、急に気分は晴れ晴れとしてきて。
「お姉ちゃん、まだかな……ぁ?」
——窓から覗く世界が凍っているという事実に、心臓が激しく脈打った。
目を見開いて凍結世界に釘付けになるルメリアは、困惑の声を喉から漏らしていた。
有り得ない。
こんなこと、あっていい筈が無い。
「うそに、決まってる……!」
黒い花柄のネグリジェを纏ったまま、ルメリアは窓を開けて凍てついた庭に飛び出した。普段ならターチスに「はしたない」と叱られるのでやらない行為だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
裸足で氷面に降り立って、すぐにルメリアは周りを見渡したり、手を開閉したりした。魔気の繋がりを断ち斬った筈の、あの魔剣がひとりでに暴走したというのなら、まだ話はつく。
それで決して逃れられない定めにあるのだと分かったら、ルメリアは仕方なく氷剣と再び結びつく選択をするだろう。
だが、
「どこにも、剣が無い……それどころか」
それどころか。
『歩く』。たったそれだけの動作で、氷は黒く染まって彼女が歩んだ軌跡は消し炭のようにして崩れ去っていく。
昨晩、書斎空間で起きた異常。それがまた、ルメリアを中心に巻き起ころうとしている。
いや、それは既に起きていた。
「あ、お庭が、花が、木が……黒く、染まって……っ」
ルメリアが訳も分からず周りを見ているうちに、万物を凍らせている氷に黒が灯り、崩落が始まっていく。
それはまるで、いつしかターチスに読み聞かせてもらった本に出てくる『冥神』の伝説に酷似していた。
万物を創生する傍らで、万物を壊死させていた災厄の象徴。あくまで伝説の域は出ないが、同じく『神』の名を冠する力の一端を持つルメリアにとって、それは他人事だとは思えなかった。
『壊死』。さながら呪いめいたその術式がルメリア自身に宿っていて、それが今、本人の意志とは関係なく暴発しているのだとしたら。
「いや、だ……そんなのは、いやだ……嫌だっ!!」
頭の良いルメリアは、すぐにある結論に辿り着いてしまった。
もしこのまま暴発が続けば、すぐにでも警護騎士団が駆け付けてルメリアを抑えにかかる。しかし、いくら腕利きが集う騎士団であっても、『剣神ノ子』たる力を発動させているルメリアに勝てる見込みは無いに等しい。
そもそも、なぜ魔剣無くして剣能が発動しているのか。
その結論も、既に出ていた。
——『剣神ノ子』は、存在自体が魔剣である。
これもまた、あの膨大な量の書物の中から偶然引き抜いて呼んだ情報の一端。
魂、想念、意思事態が剣となり、肉体はその鞘である。
故に、魔剣と繋がろうが離れようが、当人の力に変化は無く。
それは、『魔裂大戦』より以前にこの『バーフェナ界』を統治していた『魔法』、そして今では他国家にて『聖導術』と称されているそれと似てはいるが、威力や発動過程における術式の構築・展開速度は比較にならないほどに優れている。
何故なら、ルメリアが扱う剣能には、まず『過程』という概念が無い。
身じろぎするだけの動作で、枕の周りを探るだけの動作で、困惑に駆られて思わず周りをきょろきょろとしてしまうだけの動作で。
広大の庭一帯を、瞬く間に凍り付かせてしまうのだから。
「街の方は、大丈夫かな……? 行って見に行った方が……でも、そのせいで凍結が広がったら……うう、どうすればいいの、お姉ちゃん……っ」
逡巡している間にも、破壊には漆黒が灯り、壮麗な庭を崩落させてゆく。その証拠に、たった今声を発しただけで、凍結が加速したのだ。
ルメリアは、思わず口を覆って膝をついてしまった。
息を吸って吐くだけでも、凍結と崩落に拍車を掛けてしまう。ならば、もういっそのこと、このまま息を止めて死ぬしかないのではないか。
だって、そうしなければ、ターチスに迷惑が掛かってしまうから。彼女が大切にしていた書斎空間も、屋敷も、庭も、それから街や国だって。
全部、ルメリアが壊しかねないのだから。
そう思って。
「——ッ!?」
目の前に巨大な火の玉が飛んできて、ルメリアは咄嗟に後方へ跳躍した。その反動でまた凍結が加速したが、瞬時に広がった火炎がそれらを相殺し、均衡が保たれる。
白くない、ごく普通の、威力が高いだけの火球。
それをすぐに分析して顔を上げたルメリアの先に、それは居た。
——巨大な、黒竜が。
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