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現界ノ章:SECTION2『ルメリア襲来編』
EP:SOWRD 021 霞咲愛火
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美少女と美女二人を前に正座をするというプレイも、いつもの波月永絆なら二言返事で受けていただろう。
片や、赤みがかったセミロングを複雑に編み込み、小柄ながらも起伏に富んだ肢体を制服で包む花の女子高生。
元気一杯で子犬のように甘えてくる時もあれば、小鳥のように背伸びをする様子も見せる愛くるしい美少女だ。
そして片や、グラマラスな身体を強調するかのように紫紺に煌めくパーティードレスを纏う、薄緑の長髪を波打たせている美女。
ひとたび街を歩けば大勢の者を振り向かせるだろう艶やかな美貌を備えている。
しかし、激戦に続く激戦を経て、しかも碌に眠れないままに悪夢で目を覚まし、その直後に、望んでいたものの展開が急すぎて逃げ腰となってしまった果てに結局キスをされる直前にまで至った蓮花との逢瀬を経て、永絆は疲労困憊の真っ只中である。
だが事はそれだけに留まらず、
「それで、ナズ姉。この女は一体誰なのさ」
鬼神の如き形相で仁王立ちしながら初対面の美女に指差して説明を求める蓮花に、永絆より先に美女の方が答える。
「あらぁ。初対面の大人を『この女』呼ばわり? 最近の若い子供は礼儀がなってないわね。調教欲に火が付くわぁ」
頬に手を添えて困り顔でそう言った彼女に、蓮花は口撃を止めない。
「それって、自分が年増だっていう自己紹介? だとしたら、説明しないでも分かるようなことをわざわざご苦労様です」
「まあまあ、随分とご立腹のようねぇ。本来なら、私の方が憤慨する立場だと思うのだけれど……」
「生憎、世の中は早い者勝ちの仕組みでしてね。先に怒った方が勝ちなんですぅー!」
口を尖らせて子供じみた主張をぶつける蓮花に対し、永絆は正座のまま「子供かよ」と思わず突っ込む。
一方で、美女の方はと言うと、「早い者勝ち、ねぇ……」と何か企むような目付きで永絆を一瞥し、
「そうね、ひとまず自己紹介といきましょうか。ねえ、永絆ちゃん?」
満面な笑みでそう確認した後、蓮花に向き直って言った。
「私の名前は霞咲愛火《かすみざきまなか》。——永絆ちゃんと数え切れないほど共に夜を過ごした仲よ」
最後の「夜」のところだけをやけに強調し、とんでもない爆弾発言を投下したのだった。
*
「……で、猛犬は寝てしまったと」
あれほど愛火に噛み付いていた蓮花は、今やカウンターテーブルで永絆に寄りかかって爆睡してしまっている。
カウンターの向こうから、愛火は幸せそうな顔で眠る蓮花の頬を撫でてうっとりとした眼差しで甘い声を漏らす。
「可愛い寝顔……永絆ちゃんの彼女さんじゃなかったらつまみ食いしてたかも」
「ま、まだ彼女って訳じゃあ……っていうか、そういうこと普通に言うの止めて下さいよ」
「ごめんなさぁい。でも、流石にどこでも言ったりなんかしていないわよ? 今は永絆ちゃんの前でだけっ」
唇を人差し指で触れられてそう言われ、永絆はつい頬を赤く染めて「もう……」と他所を向いてオレンジカクテルを勢いよく飲んでいく。
あの後、爆弾発言の直後に奇声を上げて襲い掛かった蓮花を、愛火はチョコレートを一個取り出して食べさせることで半ば昏睡のような形で黙らせ、永絆たちは愛火が営む男子禁制女性限定のガールズバー『スパティフィラム』に招待された(蓮花は永絆におぶられて)のだった。
「まぁ、照れちゃって可愛い。そういうところ、蓮花ちゃんにはあまり見せていないんでしょ?」
「……そりゃあ、こいつより大人ですから。それなりの威厳っていうのを見せておかないと」
「意地を張りたいお年頃なのね」
「格好つけたいだけですよ。先輩風を吹かしたいとか、そう言う類のアレです」
「ふぅん……」
と、愛火は、今度は永絆の頬に手を添え、
「でも、愛火お姉さんの前ではあんなに甘えん坊さんだったんだから、可愛いものよね」
「だからっ、そういうことを今ここで言うのは——」
「大丈夫よ。蓮花ちゃん、今寝ているじゃない」
「……っ」
互いに吐息が当たりそうな距離まで迫る愛火。気が付けば両手とも頬に添えられており、そのことに気を取られているうちにも、彼女の美貌が、甘い吐息を漏らす柔らかな薄ら紅い唇が、永絆の唇へと迫る。
心臓の鼓動が、馬鹿みたいにうるさい。キスを避けるより前に、自分の今の唇はカサついていないか、口臭は大丈夫か、なんてことを考えてしまう。
この人に、霞咲愛火に迫られると、いつも受け身になって、全てを委ねてしまう。
唇が、永絆のそれへと微かに触れ始める。
(あ……お母さん……)
幼き頃に見ていた若く美しい母の姿が脳裏を過るのも、いつものことだ。
そして、それは母に留まらず、家庭が崩壊した後に気にかけてくれていた中学の頃の親友、高校で永絆と共に青春を謳歌した友達、大学のサークルで仲良くなった先輩——その全て、彼女たち全員に、永絆は悔恨を覚えているが。
「——んう……ナズ姉……」
隣で自分を呼ぶ可愛らしい声が、鼓膜を震わせた。
でも、今は。
今だけは——彼女が、片喰蓮花が愛してくれると言った『ナズ姉』であることを止めさせて欲しい。
「ん……っ」
幸せな夢を見る少女の隣で、女二人は静かに口づけを交わしていた。
いつも、愛火が初めにきっかけを作ってくれる。
それが成されれば、後は永絆が小鳥のように愛火を求めて唇を貪り始め、やがて愛火が口腔に舌を捩じ込み出し、永絆もそれを受けてより一層情熱的になってゆく。
腕は愛火を引き寄せ、手はまさぐるように彼女の素肌を撫で回す。
花に似た香り、唾液とアルコールの臭いが鼻腔を満たし、微かな水跳ねの音が薄暗い店内に木霊する。
思考が、理性がふやけていくのを感じたら、それは終わりと始まりの合図。
「ぷはぁ……」
それを察したのだろう。先に愛火が唇を離し、互いの間に垂れる透明な糸を指で解いて舐めながら、艶やかな笑みを浮かべて言った。
「ねえ、今夜も泊ってくでしょ? ……シーツ、整えておいたから」
最後には耳元でそう呟かれ、頬を焦がす熱の温度がさらに上がっていく。
だが、
「き、今日は蓮花も居るし、それに……」
「それに?」
夢のようなひと時でさえ、あの狂人の恐怖は永絆を解き放ってはくれない。
何より、ここでこうしていると、永絆が持つヴァージ——『滅陽の短針』を狙って件のルメリア、もしくは別の魔剣使いやら魔獣やらが襲撃してくるのではないだろうか。
嫌な予感が、不確かな不安が、永絆の心中でとぐろを巻く。
「愛火さんは……私と居たら、不幸になってしまう……」
渇いた喉が、震える声音と共にそんな言葉を紡いだ。
違う、こんなことを言いたいのではない。しかし、だからと言って助けて欲しいと言えるわけでも無い。
だって、愛火は魔剣使いではなくただの人間なのだ。あの血みどろな剣戟を知る必要のない、ただの——、
「大丈夫よ、永絆ちゃん」
「————」
気が付けば、愛火はカウンター越しから永絆の隣に移動して、抱き締めてくれていた。
豊かな胸に埋まり、やさしく包まれ、得も言われぬ安堵が荒んだ心を満たす。
背中には、未だ蓮花が寄りかかって寝付いている。それでも、今自分を真っ向から抱き締めて受け止めてくれているのは愛火で。
二つの熱が一斉に、永絆へと注がれる。
しかし、それは紛れも無い愚者の愚行。重い罪だ。
激しい戦禍の只中で、蓮花は自分を守るために戦っていたと吐露してくれた。
当然、蓮花が自身の日常を守りたく、また、煮え滾っていた復讐の業火を掻き消すためでもあったが、それでも彼女の中にはいつだって波月永絆への情愛があった。
永絆が身の丈に合わない決意を下して藤実剛志を凄惨に殺した後の慟哭の果てに、全てを肯定し、血で汚れた手を握ってくれた。
ついさっきだって、永絆が困惑しなければ蓮花の欲をもっと満たせた筈で——、
そんな考えをしてしまう自分を、永絆は酷く嫌悪する。
「いい子、いい子……あなたはそうして、色々なことで悩んで苦しんで、心を摩耗してきたのね……」
愛火が、優しく頭を撫でてくれる。優しく、永絆の傷を癒してくれる。
(ごめん、蓮花……ターチス……今は、今だけは——)
現実と、自己嫌悪から目を逸らし、一抹の至福へと身と心を委ねようと。
そう、思った瞬間。
「……っ!」
悪寒が背筋を駆け抜け、胃の奥底から吐き気のようなものが込み上げてくる感覚に見舞われた。
次いで、耳朶を叩きつける咆哮。
間違いない、魔獣のそれだ。
であれば、今すぐヴァージを顕現させ、念のため蓮花も起こしてから臨戦態勢に入るべきで。
「……う、うぅ……っ」
そこまで考えが及んでいるにもかかわらず、未だに身体は愛火の抱擁から離れようとはしていなくて。
反射的に、情けないと。どうしようもないと、弾丸のように卑下の情が永絆を襲う。
どうして、どうして。
度続く激戦で疲弊しきってしまったのか、それとも、こんな序盤でもう魔剣を握りたくなと拒絶してしまっているのか。
「大丈夫よ、大丈夫」
優しく甘い声が降り注ぐ。
そうじゃない、そうじゃないんだと、永絆は叫びたい。
でも、それが言葉を成すことは無く。
咆哮は近付き、やがて扉が破砕され、牙や爪を飼い慣らす音と獰猛な息遣いが迫り、
「大丈夫」
頭上で、そして眼前で。
淡い光が生じた刹那。
「——『アイスピック』、剣能発動」
空気が悲鳴を上げ、時の流れが緩慢になったのを何となく感じた。
「『一突連閃』」
低く逞しい声がそう唱えたと同時。
――けたたましい衝撃音が一斉に響き渡った。
金属音や断絶音が合わさったような狂騒が場を支配し、永絆は何が何だか分からないまま、ただただ愛火にしがみついていた。
噴煙が、辺りに蔓延する。音の嵐が徐々に小さくなり、程なくして消えた。
自分の嗚咽と絹擦れの音がやけにうるさく聞こえ、自然、永絆は愛火の腕の中から顔を出し、ゆっくりと立ち上がって後ろを振り向く。
——ハチの巣となった魔獣の死骸が、無数の瓦礫と共に転がっていた。
「……愛火、さん……?」
もう一度、今度は愛火の方を振り向いて、それを目にした。
「私が守ってあげるわ、永絆ちゃん。……こんな魔獣共なんかに、あなたを傷付けさせないから」
淡い光を放つアイスピックを片手で器用に回しながら、聖母のような笑みを浮かべてそう言ったのだった。
片や、赤みがかったセミロングを複雑に編み込み、小柄ながらも起伏に富んだ肢体を制服で包む花の女子高生。
元気一杯で子犬のように甘えてくる時もあれば、小鳥のように背伸びをする様子も見せる愛くるしい美少女だ。
そして片や、グラマラスな身体を強調するかのように紫紺に煌めくパーティードレスを纏う、薄緑の長髪を波打たせている美女。
ひとたび街を歩けば大勢の者を振り向かせるだろう艶やかな美貌を備えている。
しかし、激戦に続く激戦を経て、しかも碌に眠れないままに悪夢で目を覚まし、その直後に、望んでいたものの展開が急すぎて逃げ腰となってしまった果てに結局キスをされる直前にまで至った蓮花との逢瀬を経て、永絆は疲労困憊の真っ只中である。
だが事はそれだけに留まらず、
「それで、ナズ姉。この女は一体誰なのさ」
鬼神の如き形相で仁王立ちしながら初対面の美女に指差して説明を求める蓮花に、永絆より先に美女の方が答える。
「あらぁ。初対面の大人を『この女』呼ばわり? 最近の若い子供は礼儀がなってないわね。調教欲に火が付くわぁ」
頬に手を添えて困り顔でそう言った彼女に、蓮花は口撃を止めない。
「それって、自分が年増だっていう自己紹介? だとしたら、説明しないでも分かるようなことをわざわざご苦労様です」
「まあまあ、随分とご立腹のようねぇ。本来なら、私の方が憤慨する立場だと思うのだけれど……」
「生憎、世の中は早い者勝ちの仕組みでしてね。先に怒った方が勝ちなんですぅー!」
口を尖らせて子供じみた主張をぶつける蓮花に対し、永絆は正座のまま「子供かよ」と思わず突っ込む。
一方で、美女の方はと言うと、「早い者勝ち、ねぇ……」と何か企むような目付きで永絆を一瞥し、
「そうね、ひとまず自己紹介といきましょうか。ねえ、永絆ちゃん?」
満面な笑みでそう確認した後、蓮花に向き直って言った。
「私の名前は霞咲愛火《かすみざきまなか》。——永絆ちゃんと数え切れないほど共に夜を過ごした仲よ」
最後の「夜」のところだけをやけに強調し、とんでもない爆弾発言を投下したのだった。
*
「……で、猛犬は寝てしまったと」
あれほど愛火に噛み付いていた蓮花は、今やカウンターテーブルで永絆に寄りかかって爆睡してしまっている。
カウンターの向こうから、愛火は幸せそうな顔で眠る蓮花の頬を撫でてうっとりとした眼差しで甘い声を漏らす。
「可愛い寝顔……永絆ちゃんの彼女さんじゃなかったらつまみ食いしてたかも」
「ま、まだ彼女って訳じゃあ……っていうか、そういうこと普通に言うの止めて下さいよ」
「ごめんなさぁい。でも、流石にどこでも言ったりなんかしていないわよ? 今は永絆ちゃんの前でだけっ」
唇を人差し指で触れられてそう言われ、永絆はつい頬を赤く染めて「もう……」と他所を向いてオレンジカクテルを勢いよく飲んでいく。
あの後、爆弾発言の直後に奇声を上げて襲い掛かった蓮花を、愛火はチョコレートを一個取り出して食べさせることで半ば昏睡のような形で黙らせ、永絆たちは愛火が営む男子禁制女性限定のガールズバー『スパティフィラム』に招待された(蓮花は永絆におぶられて)のだった。
「まぁ、照れちゃって可愛い。そういうところ、蓮花ちゃんにはあまり見せていないんでしょ?」
「……そりゃあ、こいつより大人ですから。それなりの威厳っていうのを見せておかないと」
「意地を張りたいお年頃なのね」
「格好つけたいだけですよ。先輩風を吹かしたいとか、そう言う類のアレです」
「ふぅん……」
と、愛火は、今度は永絆の頬に手を添え、
「でも、愛火お姉さんの前ではあんなに甘えん坊さんだったんだから、可愛いものよね」
「だからっ、そういうことを今ここで言うのは——」
「大丈夫よ。蓮花ちゃん、今寝ているじゃない」
「……っ」
互いに吐息が当たりそうな距離まで迫る愛火。気が付けば両手とも頬に添えられており、そのことに気を取られているうちにも、彼女の美貌が、甘い吐息を漏らす柔らかな薄ら紅い唇が、永絆の唇へと迫る。
心臓の鼓動が、馬鹿みたいにうるさい。キスを避けるより前に、自分の今の唇はカサついていないか、口臭は大丈夫か、なんてことを考えてしまう。
この人に、霞咲愛火に迫られると、いつも受け身になって、全てを委ねてしまう。
唇が、永絆のそれへと微かに触れ始める。
(あ……お母さん……)
幼き頃に見ていた若く美しい母の姿が脳裏を過るのも、いつものことだ。
そして、それは母に留まらず、家庭が崩壊した後に気にかけてくれていた中学の頃の親友、高校で永絆と共に青春を謳歌した友達、大学のサークルで仲良くなった先輩——その全て、彼女たち全員に、永絆は悔恨を覚えているが。
「——んう……ナズ姉……」
隣で自分を呼ぶ可愛らしい声が、鼓膜を震わせた。
でも、今は。
今だけは——彼女が、片喰蓮花が愛してくれると言った『ナズ姉』であることを止めさせて欲しい。
「ん……っ」
幸せな夢を見る少女の隣で、女二人は静かに口づけを交わしていた。
いつも、愛火が初めにきっかけを作ってくれる。
それが成されれば、後は永絆が小鳥のように愛火を求めて唇を貪り始め、やがて愛火が口腔に舌を捩じ込み出し、永絆もそれを受けてより一層情熱的になってゆく。
腕は愛火を引き寄せ、手はまさぐるように彼女の素肌を撫で回す。
花に似た香り、唾液とアルコールの臭いが鼻腔を満たし、微かな水跳ねの音が薄暗い店内に木霊する。
思考が、理性がふやけていくのを感じたら、それは終わりと始まりの合図。
「ぷはぁ……」
それを察したのだろう。先に愛火が唇を離し、互いの間に垂れる透明な糸を指で解いて舐めながら、艶やかな笑みを浮かべて言った。
「ねえ、今夜も泊ってくでしょ? ……シーツ、整えておいたから」
最後には耳元でそう呟かれ、頬を焦がす熱の温度がさらに上がっていく。
だが、
「き、今日は蓮花も居るし、それに……」
「それに?」
夢のようなひと時でさえ、あの狂人の恐怖は永絆を解き放ってはくれない。
何より、ここでこうしていると、永絆が持つヴァージ——『滅陽の短針』を狙って件のルメリア、もしくは別の魔剣使いやら魔獣やらが襲撃してくるのではないだろうか。
嫌な予感が、不確かな不安が、永絆の心中でとぐろを巻く。
「愛火さんは……私と居たら、不幸になってしまう……」
渇いた喉が、震える声音と共にそんな言葉を紡いだ。
違う、こんなことを言いたいのではない。しかし、だからと言って助けて欲しいと言えるわけでも無い。
だって、愛火は魔剣使いではなくただの人間なのだ。あの血みどろな剣戟を知る必要のない、ただの——、
「大丈夫よ、永絆ちゃん」
「————」
気が付けば、愛火はカウンター越しから永絆の隣に移動して、抱き締めてくれていた。
豊かな胸に埋まり、やさしく包まれ、得も言われぬ安堵が荒んだ心を満たす。
背中には、未だ蓮花が寄りかかって寝付いている。それでも、今自分を真っ向から抱き締めて受け止めてくれているのは愛火で。
二つの熱が一斉に、永絆へと注がれる。
しかし、それは紛れも無い愚者の愚行。重い罪だ。
激しい戦禍の只中で、蓮花は自分を守るために戦っていたと吐露してくれた。
当然、蓮花が自身の日常を守りたく、また、煮え滾っていた復讐の業火を掻き消すためでもあったが、それでも彼女の中にはいつだって波月永絆への情愛があった。
永絆が身の丈に合わない決意を下して藤実剛志を凄惨に殺した後の慟哭の果てに、全てを肯定し、血で汚れた手を握ってくれた。
ついさっきだって、永絆が困惑しなければ蓮花の欲をもっと満たせた筈で——、
そんな考えをしてしまう自分を、永絆は酷く嫌悪する。
「いい子、いい子……あなたはそうして、色々なことで悩んで苦しんで、心を摩耗してきたのね……」
愛火が、優しく頭を撫でてくれる。優しく、永絆の傷を癒してくれる。
(ごめん、蓮花……ターチス……今は、今だけは——)
現実と、自己嫌悪から目を逸らし、一抹の至福へと身と心を委ねようと。
そう、思った瞬間。
「……っ!」
悪寒が背筋を駆け抜け、胃の奥底から吐き気のようなものが込み上げてくる感覚に見舞われた。
次いで、耳朶を叩きつける咆哮。
間違いない、魔獣のそれだ。
であれば、今すぐヴァージを顕現させ、念のため蓮花も起こしてから臨戦態勢に入るべきで。
「……う、うぅ……っ」
そこまで考えが及んでいるにもかかわらず、未だに身体は愛火の抱擁から離れようとはしていなくて。
反射的に、情けないと。どうしようもないと、弾丸のように卑下の情が永絆を襲う。
どうして、どうして。
度続く激戦で疲弊しきってしまったのか、それとも、こんな序盤でもう魔剣を握りたくなと拒絶してしまっているのか。
「大丈夫よ、大丈夫」
優しく甘い声が降り注ぐ。
そうじゃない、そうじゃないんだと、永絆は叫びたい。
でも、それが言葉を成すことは無く。
咆哮は近付き、やがて扉が破砕され、牙や爪を飼い慣らす音と獰猛な息遣いが迫り、
「大丈夫」
頭上で、そして眼前で。
淡い光が生じた刹那。
「——『アイスピック』、剣能発動」
空気が悲鳴を上げ、時の流れが緩慢になったのを何となく感じた。
「『一突連閃』」
低く逞しい声がそう唱えたと同時。
――けたたましい衝撃音が一斉に響き渡った。
金属音や断絶音が合わさったような狂騒が場を支配し、永絆は何が何だか分からないまま、ただただ愛火にしがみついていた。
噴煙が、辺りに蔓延する。音の嵐が徐々に小さくなり、程なくして消えた。
自分の嗚咽と絹擦れの音がやけにうるさく聞こえ、自然、永絆は愛火の腕の中から顔を出し、ゆっくりと立ち上がって後ろを振り向く。
——ハチの巣となった魔獣の死骸が、無数の瓦礫と共に転がっていた。
「……愛火、さん……?」
もう一度、今度は愛火の方を振り向いて、それを目にした。
「私が守ってあげるわ、永絆ちゃん。……こんな魔獣共なんかに、あなたを傷付けさせないから」
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