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過日

0.42 みな隠して忘れ去った

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「おかえりなさい先生」

 オレが真っ先にそう言うと、結姫先生は「ただいま」と笑って応えてくれた。中佐に向けていた表情の面影はなくて、いつもの優しい笑顔の先生に戻っていた。

 途端に、あはは、とシュンさんが隣で笑い声を上げる。

「結姫、あんな事言うのはやめてくれよ。また風当たりが強くなるじゃないか」

「だって本当の事でしょう? 今日は高級なお寿司を食べようって、委員長が仰ったんじゃないですか。しかも、委員長の奢りで」

 二人でお寿司を食べに行くのか。そんな話になってたのは知らなかったな。考えながら二人を眺めていたら、結姫先生がふふっ、と笑って「一緒に行こうね」と言ってくれた。

「オレも行っていいの?」そう尋ねようとしたオレの声が、シュンさんの大きなため息で掻き消される。

「奢るのはどってことないけれどね……」

 言いながらシュンさんが頭を掻いた。

 奢るいいのか。高級なお寿司。

 オレがまた首を傾げると、結姫先生がまた笑い声を上げた。

「羽振りがよろしくて結構ですね。……まぁ、委員長兼少佐ですからね」

「君ねぇ……少しはカッコつけさせてくれないかな」

「はいはい」

 なんだか、すごく仲がいいんだな。二人に色んなことを尋ねるのが途端に面倒になって、オレはさっきまで座っていた椅子に座り直す。

 シュンさんって、結姫先生ともこんなに仲が良かったんだな、と。ぼんやりと思って、なんだか複雑な気持ちになる。この複雑な気持ちを、わざわざ解読したいとも思わないけれど。

「お寿司の話はいいよ」

 言って、シュンさんが静かに椅子に座した。

「それで、どうだった? 今日の収穫は」

 シュンさんに尋ねられた結姫先生は真剣な顔になって「はい」と返事を返した。

「二つあります。一つ目は、今日は “メインディッシュ” まで辿り着けなかった、という残念なお知らせです」

「そう」

「二つ目はおめでたいお知らせです。暁星一也委員の正式な採用が決定しました」

「オレ?」言って、オレは思わず結姫先生の方を見た。

「どういうこと? 今まで正式じゃなかったんですか?」

 そうとも尋ねると、シュンさんが笑いながら「形式上ね」とオレに言った。

「通例として1ヶ月の検査検診期間、3ヶ月の試用期間を経て採用となる。まぁ、さっきも言ったけれどあくまで “形式上” の話だ。基本的に大きな問題がなければ今までと特段何も変わらない」

「……知らなかった」

「本人に言わない事になってるからね」

 シュンさんに言われてオレは下を向く。

『今までと特段何も変わらない』

 その言葉に半分安心して、半分落ち込んだ。

 試用期間だったから、シュンさんがオレと距離をとっていたのかも、と一瞬思ったから。そうだったら良いな。だから、もしかして、と少しだけ期待する。けれど、シュンさんの “特段変わらない” という言葉に含まれた意味は、恐らく本当に何も変わらないという意味のような気がした。

 変わらないのかな。何も。

 寂しい。多分、そう思う。

 きっと見当違いなところで落ち込んでいるのかも、と思わなくもないけれど。今はこれがオレにとって一番重要なことだ。

「 “そのためのお寿司” なんですよね? 委員長?」

 そんな結姫先生の声が聞こえて、オレは顔を上げる。

「 “そのためのおすし” ?」

 ぼさっとしていたから咄嗟に聞き取れなくて、オレは思わず聞き返した。

 すると、シュンさんが言いにくそうに目線を泳がせて、えっと、とオレに向かって呟いた。

「一也、正式採用おめでとう。特段変わりはないかも知れないけれど、その……お祝いに、お寿司を一緒に食べに行こう」

 口から、えっ、と声が漏れた。

「……先生とシュンさん二人で行くんじゃないの?」

 尋ねると、結姫先生が珍しく大きな声で「あはははは」と笑って、一方のシュンさんは困った顔でオレのことを眺めていた。

「ちがうの?」

 オレが聞くと、ひとしきり笑った結姫先生が「違うちがう!」と首を横に振る。

「私の方が “おまけ” 。本命は、一也君の正式採用のお祝い」

「オレの?」

「そう、一也君の」

 結姫先生に言われて、オレはどうしたらいいか分からなくて思わず下を向いた。

「もしかして、お寿司嫌い?」

 シュンさんが恐々こわごわと尋ねてくる。なんであんたが狼狽えてるんだよ。

「好き……です。けど」

「けど?」

「……そんな風に、してもらえると思わなかったから」

 オレが言って下を向くと、シュンさんが小さく息を吐いて、それから「結姫のせいだ」と呟いた。

「君がを追い払うダシに僕を引き合いに出すから。カッコつかなかったじゃないか」

「あはは、それは失礼しました」

 反省の色が少しも見えない結姫先生の言葉に、シュンさんは少し唇を尖らせる。そんな様子をよそに、結姫先生は何か思い出したように「そうだ!」と声を上げた。

「一也君、お寿司も大事なんだけどね」

「君って人は」シュンさんが呆れた声を上げた。けれど、そんなの気にする事なく、結姫先生が持っていた紙袋の中を漁り始める。

 そして中から小さなビニール袋を取り出して、はい、とオレに手渡した。

 中には、小さなピンバッジが入っていた。
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