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浮上

0.04 僕たちの深いところに

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 翌朝。オレは東藤おじさんに連れられて病院を退院した。正しくは都心にある国立病院への再入院という手続きらしいけれど、そこのところはオレの知った事じゃなかった。

 病院の正面出口を出て後ろを振り向くと『岸吹区立中央病院』という大きな文字が見えた。崩壊事故があったビルから近い病院だ。母さんがよくヘルプで出向していた病院で、名前を聞いたことがあった。

 オレは救出されてすぐ、現場から近いこの病院に運ばれたらしい。

 そうか。オレだけ、生き残ったんだ。そのことを、何を見ても考えてしまう。考えても仕方ないのに。悲しさと後悔と、苛立ちが追いかけてくる。

 ふいに、おじさんが立ち止まってこちらを向いた。

「本当にいいんだね?」

 考え込んでいたオレは少しビクッとして、おじさんの方を向いた。

 おじさんの顔は優しかった。

「…………協力します」

 ぼそっと呟いたオレに、おじさんは「そうか」と言って、ポケットから車の鍵を取り出しながら歩き始める。

「それなら、寄り道したいんだけれど、いいかな?」

 車に辿り着いたおじさんは、言いながら後部座席のドアを開けてオレに乗るように促す。

「寄り道?」

 オレが尋ねると「挨拶ついでにね」と告げられた。

 移動中、車の中は静かだった。タイヤが地面と擦れ合う音と、車が風を切る音だけが耳に届く。おじさんもオレに話しかけてこなかった。オレはドアに寄りかかって静かに目を閉じた。

 背中がひりひりして、ふと目を開ける。少し眠っていた。左腕に付けた腕時計を横目で見る。病院を出発して30分くらい経っていた。

 事故が起きる直前に持っていた荷物は、全てなくなってしまっていた。オレに残された唯一の持ち物はこの腕時計だけ。紺色のボディ、文字板は薄いグレーの板に控えめな金色で目盛が入っている。

 オレの誕生日に、人生で唯一と言っていい親友がプレゼントしてくれた時計だ。

 おじさんに着いて行くことを決めた時、絶対に後悔しないと強く思っていたけれど。あいつに、もう会えないのかと思うと、寂しさが込み上げる。唯一の心残りだ。

 視線を上げるとフロントガラス越しに大きな道路標識が見えて、そこに柊角筈しゅうつのはずという文字を見つける。

 体を少し起こして寄りかかっていた方の窓から外を覗くと、テレビで見た事がある大きな家電量販店の看板と、商店街の入口のアーチが見えた。都心一番の繁華街の入口だ。

 初めて来た。柊角筈。ホストクラブと風俗店、違法カジノが乱立する治安の悪い街。性犯罪の温床。犯罪報道特集で必ず名前が上がる場所だけれど、すぐ近くには都庁や有名企業が入った高層ビル群がある。なんだか「世界を濃縮したみたいな場所だ」と、ニュースを見ながらオレらしくないことを思ったのを思い出す。

 とはいえ、郊外に住むオレにとって柊角筈は、どこか現実味のない場所でもあった。遠い戦場か、都市伝説で語られる深海神殿にも似た感覚がしていた。そんな場所が今目の前にある。

 そっと、窓から街並みを観察する。怖いもの見たさ、というやつだった。

 けれどオレの予想と違って、覗いた窓の外は閑散としていた。

 もっと人が多くて、怪しい人たちが所狭しと闊歩かっぽしている場所だと思っていたのに。

 朝の光に照らされたその場所はとても綺麗で、表現し難い、ひんやりした落ち着きさえ感じた。快晴で朝日が綺麗だったせいかもしれない。

 大通りを走っていた車が、脇道に入った。そして少し進んだところで、ゆっくりと停車する。サイドブレーキを引く音が聞こえた。

「着いたよ」

 おじさんに促されて、俺は車から降りた。続いて降りてきたおじさんに「あそこだよ」と指差された先には『Cafe Dawn』と書かれた吊り看板が見えた。木製の看板に、文字が焼印で刻まれている。頭が悪いオレは “カフェ” の文字しか読み取ることができなかった。

「カフェですか?」

 オレが尋ねると、おじさんは「そう。少し休憩していこう、挨拶もかねてね」と笑った。

 オレはよく分からず、はい、と生返事をする。

 吊り看板の掛けられた建物は2階建てで、壁は黒い。重そうな焦げ茶色の両開きの大きいドアと、その横に大きな窓も見えた。

 だけど、ドアもカーテンも閉まっていて中の様子は伺えない。営業中には思えなかった。

 こんなところに何の用だろう。そう思いながらもおじさんについてゆく。

 入口までたどり着いたおじさんが、躊躇なく締め切られたドアを開けた。

「おいで」

 おじさんに促されて一緒に中に入る。コーヒーと木の匂いがした。木造のように思える。古そうな建物だ。

 入ってすぐ左手に古い木製のレジカウンターがあって、廊下の奥にゴツいテーブルと高そうな肘掛椅子、ヤケにお洒落なソファなんかが並んでいるのが見える。部屋の一番奥に、天井から床まで一面ガラス張りの窓があって、中庭も見えた。なんだか不思議な内装だ。

 きょろきょろしながら、薄暗い廊下をおじさんについて進んでいく。

「東藤ですー。誰かいる?」

 部屋の中まで進んだところで、おじさんが奥に向かって声を掛けた。すると、奥から階段を駆け下りてくるような音がして、中庭の見える大きな窓の脇にあるドアが開いた。

 厨房らしき場所から出てきたその人は、暗いピンク色の髪を後ろでまとめた、若い男の人の
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