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11.君がいない部屋で僕はひとり
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今日は仕事があまりなくて、試験もいよいよ明日だから、と早々に帰されてしまった。スーパーに寄って、お弁当を買って帰る。なんだか妙に久しぶりな気がする。家に調理器具も揃っていたし、自炊するようになったのだろうか。記憶が曖昧だ。仕事のことや試験のことはちゃんと覚えているのに。何か大事なことを忘れてしまっている気がする。
「ただいま」
誰もいない自分の部屋に向かってそう言った自分にも驚いた。自分が自分じゃないみたいで、こわい。温めて食べたお弁当はしょっぱくて、全然おいしいと思えなかった。味覚まで変わってしまったのだろうか。冷蔵庫にしまってあった餃子のことを思い出して、食べてみた。おいしくて、涙が出た。本当に僕はどうしてしまったんだろう。
気持ちを落ち着かせるために、湯船にお湯を張って肩まで浸かった。洗い場にはやはりというべきか、女性ものの試供品のシャンプーが置かれていた。だけど、さっきたくさん泣いたからだろうか。誰かの痕跡があることに、もはや驚くこともなかった。仮に、そういう相手がいたとして、その人のことを一切覚えていない自分が恐ろしくて仕方なかった。
誰かに相談したい気持ちもあったけれど、人に話したところで解決するとも思えなかった。それに、明日は試験だ。このことについては試験が終わってから向き合うことにしよう。たくさんの違和感から目を逸らすことにした。
田辺さんにもらった問題集を開き、自分用に付箋を貼りかえる。いまだに自信のない箇所が多いことにがっかりした。だけど、数年分解いた過去問は、どれも合格点以上は取れていたし、きっと大丈夫だろう。付箋を貼った部分を読み返し、早めに眠ることにした。
ベッドに横たわり、布団をかぶると、ふわりと甘い匂いがして胸がざわついた。ここにも彼女の痕跡がある。つい最近までここで暮らしていたとして、今は一体どこにいるのだろうか。覚えていない彼女に思いを馳せながら、いつの間にか眠りについていた。
――ちりりん、ちりりん。
『タクミ、大好きだ』
手を繋いで歩いている隣の彼女が笑顔でこちらを向いてそう言った。長い黒髪は赤いリボンで高い位置に結わえられ、彼女が動くたびにさらりと揺れる。誘われるように手を伸ばし、髪を梳けば、彼女は目を細めて照れたように顔を背けた。
幸せな夢を見ていた気がする。繋いだ手の柔らかさも温かさも、滑らかな髪の手触りも、夢の中のものとは思えなくて。僕にとって、きっと彼女は大切な存在だったに違いない。それなのに、夢から覚めた今では、彼女の顔は思い出せないし、名前もわからない。胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように痛かった。
――頑張れ、タクミ。
声が聞こえた気がした。けれど、部屋にはやっぱり僕ひとりしかいなかった。いつものように朝食を済ませ、出かける支度をする。昨晩のうちに準備しておいた荷物の中身を最終確認して、家を出る。
――タクミ、行ってらっしゃい。
僕は、君のことを思い出せるだろうか。行ってきます、と心の中で唱えながら部屋に鍵をかけた。
「ただいま」
誰もいない自分の部屋に向かってそう言った自分にも驚いた。自分が自分じゃないみたいで、こわい。温めて食べたお弁当はしょっぱくて、全然おいしいと思えなかった。味覚まで変わってしまったのだろうか。冷蔵庫にしまってあった餃子のことを思い出して、食べてみた。おいしくて、涙が出た。本当に僕はどうしてしまったんだろう。
気持ちを落ち着かせるために、湯船にお湯を張って肩まで浸かった。洗い場にはやはりというべきか、女性ものの試供品のシャンプーが置かれていた。だけど、さっきたくさん泣いたからだろうか。誰かの痕跡があることに、もはや驚くこともなかった。仮に、そういう相手がいたとして、その人のことを一切覚えていない自分が恐ろしくて仕方なかった。
誰かに相談したい気持ちもあったけれど、人に話したところで解決するとも思えなかった。それに、明日は試験だ。このことについては試験が終わってから向き合うことにしよう。たくさんの違和感から目を逸らすことにした。
田辺さんにもらった問題集を開き、自分用に付箋を貼りかえる。いまだに自信のない箇所が多いことにがっかりした。だけど、数年分解いた過去問は、どれも合格点以上は取れていたし、きっと大丈夫だろう。付箋を貼った部分を読み返し、早めに眠ることにした。
ベッドに横たわり、布団をかぶると、ふわりと甘い匂いがして胸がざわついた。ここにも彼女の痕跡がある。つい最近までここで暮らしていたとして、今は一体どこにいるのだろうか。覚えていない彼女に思いを馳せながら、いつの間にか眠りについていた。
――ちりりん、ちりりん。
『タクミ、大好きだ』
手を繋いで歩いている隣の彼女が笑顔でこちらを向いてそう言った。長い黒髪は赤いリボンで高い位置に結わえられ、彼女が動くたびにさらりと揺れる。誘われるように手を伸ばし、髪を梳けば、彼女は目を細めて照れたように顔を背けた。
幸せな夢を見ていた気がする。繋いだ手の柔らかさも温かさも、滑らかな髪の手触りも、夢の中のものとは思えなくて。僕にとって、きっと彼女は大切な存在だったに違いない。それなのに、夢から覚めた今では、彼女の顔は思い出せないし、名前もわからない。胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように痛かった。
――頑張れ、タクミ。
声が聞こえた気がした。けれど、部屋にはやっぱり僕ひとりしかいなかった。いつものように朝食を済ませ、出かける支度をする。昨晩のうちに準備しておいた荷物の中身を最終確認して、家を出る。
――タクミ、行ってらっしゃい。
僕は、君のことを思い出せるだろうか。行ってきます、と心の中で唱えながら部屋に鍵をかけた。
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