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三つ目がとおる その3

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 時は流れた。

 1991年、平成3年、春。

 雅人も五十五歳になろうとしていた。

 一昔前ならもう定年退職の年齢だ。

 この数十年間はマンガやアニメとはまったく縁のない生活を送っている。

 虫プロで治美のマネージャーをしていた頃が夢のようだった。

 本当に手塚治美という娘が存在したのかさえ疑わしくなってきた。

 手塚治虫こと岡田悦子は最近はまったく新作を書いてはいなかった。

 たしか「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」「ネオ・ファウスト」等の長編がまだ残っているはずだが、すべて未完のため彼女ももはや描く気はないのだろう。

 芦屋の自宅に作った書庫には「火の鳥 太陽編」を最後に蔵書は増えてはいない。

 いつもこの書庫にこもって手塚作品を読みふけっていた息子の雅之も家を出て今はいない。

 雅之は東京の私立大学入学したのはいいが、留年を繰り返していまだに二回生のままだった。

 大学では漫研に入って同人誌を描いているのだが、最年長なので名誉会長をしているらしい。

(まったく、あの不詳の息子は…………)

 雅人がいろいろと思いを巡らせていると、目の前の白いプッシュホンの呼び出し音が鳴った。

 雅之はひとつ深呼吸をすると受話器を取った。

 雅人は自宅の書斎でずっとこの一本の電話を待ち続けていたのだ。

「もしもし。ホフマン商会の手塚さんのお宅ですか?」

 聞き覚えのない若い男性の声だった。

「そうですが、どちらさまですか?」

「僕です、おじさん。横山正太郎です」

 それは横山浩一と小森章子の遺児からの電話であった。




 電話のあった翌日、雅人は都内の高級ホテルのロビーで正太郎たちが現れるのを待っていた。

「お待たせしました」

 雅人の前に現れた正太郎はブランド物に身を包んだ一端の青年実業家であった。

 その兄の背後にはまだ大学生の大作が少し緊張した面持ちで立っていた。

 雅人が正太郎、大作兄弟に会うのは十数年ぶりだった。

 正太郎は横山光輝の「鉄人28号」の主人公金田正太郎から、大作は「ジャイアントロボ」の主人公草間大作から取って名付けられた。

 小森章子は長女を出産後、生まれ故郷の鳥取県出雲市に引っ越した。

 数年後章子は故郷で再婚したのだが、彼女が恐れていたようにある日、何の前触れもなく突然失踪してしまった。

 雅人は彼女との約束を守って子供たちが大きくなるまで何かと気にかけて養育費を援助していたのだった。

 長男の正太郎はそのことをよく覚えていて、雅人のことを神戸のおじさんと呼び慕ってくれていた。

「おじさん、お久しぶりです」

「正太郎君も大作君も随分と立派になられて。正太郎君は仕事の方は順調かね?」

「ぼちぼちですね。亡くなった父が残した予言の書のおかげで助かっています」

「予言の書?」

「ええ。父が僕ら子供のために残してくれた未来の出来事を予想した物です。これが結構当たるので、父は予知能力があったのじゃないかって本気で考えています」

「ほう。横山さんはこの先どんな時代になると予言しているのかね」

「今年はバブル景気の終焉の年だそうです。失われた十年の始まりとも書いていました」

「それはいいことを聞いた。私も気を付けるとするよ」

 雅人と正太郎は笑い合った。

 正太郎が弟に目配せをすると、待ってましたとばかりに大作が興奮して早口で話し始めた。

「おじさん。早速で悪いのですがコミケ会場の件ですが……」

「実は私はその界隈の話には疎くてね。今はどんな状況なのか説明してくれないか」

「わかりました。おじさんは『コミケ』という言葉はご存じですよね?」

「ああ。『コミックマーケット』の通称で日本最大、すなわち世界最大の同人誌即売会のことだろう。うちのバカ息子も毎年参加しているよ」

「僕は両親ともに漫画家だったこともあり、現在ボランティアでコミケ準備会の委員をしています」

「ふむふむ」

「以前はコミケは東京国際見本市会場で行っていたのですが収容能力の限界に達したため、一昨年から千葉県の幕張メッセに会場を移しました。今年も8月16日、17日にコミケの開催が決まっていたのです。それで僕たちは開催日を告知してサークル申請も終わっていました。それなのに幕張メッセが今になって一方的に会場を貸せないと言ってきたのです」

「そりゃまたどうしてだね?」

「些細な事なんですよ。この前の冬コミが終わった時、忘れ物が幕張メッセを管轄する千葉西警察署に届けられたんです。それが無修正の男性向けの18禁同人誌だったんです」

 プッと思わず雅人は噴き出してしまった。

「笑い事じゃないんですよ、おじさん!これがきっかけでコミケで無修正のアダルト本が堂々と売られていると大騒ぎになって、コミケ準備会と幕張メッセが事情聴取を受けたんです。これに幕張メッセが激怒して、コミケには会場を貸さないと追放されたんです」

「なるほど。これが『コミケ幕張メッセ追放事件』というやつなのか」

「あれ?おじさん、ご存じでしたか」

「いや。ニュースで見た覚えがあるよ」

「例の連続幼女誘拐殺人事件を発端にしてオタクバッシングが始まり、アニメやマンガやゲームは青少年に悪影響を及ぼす有害物だとマスコミが騒いでいますからね」

「だけども大昔からこんな騒動は定期的に何度も起きたよ」

「そんな時はどうしたらよいのですか?」

「ただ静かに嵐が通り過ぎるのを待っていればいい。本物は決してなくなりはしないよ」

「でも、もう待っている時間がないのです!僕は兄の広告代理店を通じてどこか別のイベント会場を捜したのですが、あれだけの規模の会場はそうはありません。そこで古巣の晴海の東京国際見本市会場に問い合わせてみたところ、既に8月16日と17日はすべて一つの貿易会社に押えられていました」

「それが私のホフマン商会だったというわけだ」

「その通りです。僕が晴海に問い合わせをするとおじさんの連絡先を教えられました。まるでおじさんはコミケ準備会から電話がかかってくるのが分かっていたみたいに…」

「まさか横山さんの息子さんがコミケ準備会にいるとは思わなかったがね」

「それで手塚さん!本当に東京国際見本市会場をコミケのために貸していただけるのですか?」

「もちろんだとも。わしはそのためにずっと前からあそこの会場を押えていたんだ。逆にコミケで使ってもらわないと会場は二日間空いてしまうからな」

 正太郎と大作は唖然とし、お互いの顔を見つめていた。

「お父さんと言い、おじさんたちは予知能力を持ったエスバーのようだ!?」

「まるでおじさんは『超人ロック』だね!」

 大作が面白そうにそう言うと、正太郎が彼の後頭部を殴った。

「バカ!それを言うなら『バビル二世』だろうが!」

 どちらのマンガも読んだことのない雅人は、横山兄弟のやり取りを面白そうに見ていた。

(治美!遂に念願のコミケが開催されるぞ!いよいよアレを公開する日がやって来た!)
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