上 下
71 / 128

トキワ荘物語 その3

しおりを挟む
 金子が心配していた通り治美はトキワ荘に引っ越した翌朝、さっそく音を上げた。

 正確には音ではなく叫び声をあげたのだ。

 治美の叫び声を聞いて、両隣の部屋で寝ていた雅人と金子が慌てて飛び起きた。

 二人が治美の部屋に入ると、治美は恐怖でひきつった顔で「部屋にゴキブリが出たから他所に引っ越したい」と雅人に訴えたのだ。

「ゴキブリぐらいどこでもいるさ」

「それだけじゃありません。南京虫に噛まれました!痒くて痒くて仕事になりません!」

 治美は噛まれて赤くなった太ももをポリポリとかきながら言った。

「本物の手塚治虫はトキワ荘に1年半も住んでいたというじゃないか」

「でも昭和30年の頃なら、もう雑司が谷ぞうしがやの並木ハウスというアパートに引っ越していたはずです」

 そう言いながら、治美はコミックグラスを起動して年表を調べ始めた。

「ほら!年表によると昭和29年10月にトキワ荘から並木ハウスに引っ越ししています」

「いや、ほらって言われても俺には年表が見えないし…」

「雑誌『少年』の昭和30年新年号別冊付録として付いた『鉄腕アトム 電光人間の巻』の表紙裏のページでアトムがこう言っています。『いま、ぼくは東京の雑司ヶ谷に、一年あとで生まれた、ロボットのおとうさんとおかあさんといっしょにすんでいます』。ほら!ほら!昭和30年の頃は手塚先生は雑司ヶ谷に住んでいないといけないわ」

「だから、ほらって言われても見えないし」

 二人のやり取りを黙って聞いていた金子が口を挟んだ。

「雅人くん。手塚先生は平成生まれの繊細な女子高生なんだよ。昭和生まれの我々には耐えられても、手塚先生には耐えられないんだ。私がどこかもっと綺麗な新築マンションを探すので、引っ越してもらいましょう」

「また、そうやって金子さんはすぐに治美を甘やかす」

「私は治美さんを甘やかしているわけではない。手塚治虫先生を崇拝しているだけだよ」

 治美と同じく根っからの手塚治虫ファンだった金子は、手塚作品を次々と描いている治美を本物の手塚治虫と同一視し、崇拝していた。

 そのため金子は治美に頼まれたら舞い上がってどんなことでもホイホイと言うとおりにした。

「それじゃ空いたこの17号室には誰が住むんだよ?」

「あのう…、うちが住んでもええですか?」

 みんなが驚いて振り返ると小森章子が部屋の入口に立っていた。

 小森章子と望月玲奈の二人は治美と一緒に上京したのだがまだ下宿が決まっておらず、近所の旅館に連泊しながら治美の手伝いをしていたのだった。

「いいの、小森さん?もっと綺麗なアパート、探してあげるわよ」

「うちが大阪で住んでいた寮に比べたらずっと立派なアパートです」

「それじゃあ、今夜からこの部屋は章子さんの部屋ね。わたしは逆に章子さんが泊まっている旅館で仕事するわ」

「それで手塚先生、原稿出来たのでチェックをお願いしたいのですが…」

 章子は持参した漫画原稿の束を治美に差し出した。

「わかりました!それじゃあ、これから二人で旅館に戻って仕事をしましょう」

 そう言うと、治美はそそくさと章子を引き連れてトキワ荘を出て言った。

 後に残された雅人が金子にポツリと言った。

「治美が一緒に住んでくれっと頼むから、俺はトキワ荘に引っ越ししたんだぞ!」

「ご愁傷様です」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百々五十六の小問集合

百々 五十六
ライト文芸
不定期に短編を上げるよ ランキング頑張りたい!!! 作品内で、章分けが必要ないような作品は全て、ここに入れていきます。 毎日投稿頑張るのでぜひぜひ、いいね、しおり、お気に入り登録、よろしくお願いします。

青春は甘くない

狂言巡
ライト文芸
 ――面白くて、楽しいだけが、青春ではないんだよ。  真面目だったり、ほろ苦かったり、あまり愉快ではない青春小説をまとめていきます。

学童

Tetravinsky
ライト文芸
なんでこの教室には二人しか生徒がいないのか? こいつら授業はちゃんと受けなくていいのか? ところで、二人は恋仲なの? このテの事が気にならない方にだけおすすめします。

タマリのワダカマリ

田中 月紗
ライト文芸
大学を卒業して2年目。 変わり映えのない毎日を送っていた俺「須藤尚希」にとって、あの少女と過ごした時間は、決して忘れることの出来ないものとなったーー。 ありふれた"日常"を過ごす1人の男と、不可思議で奇妙な少女との"非日常"を描いた短編ストーリー。 *1日1話投稿します。 *ノベルアップ+様、カクヨム様にも投稿しています。

アルファポリスとカクヨムってどっちが稼げるの?

無責任
エッセイ・ノンフィクション
基本的にはアルファポリスとカクヨムで執筆活動をしています。 どっちが稼げるのだろう? いろんな方の想いがあるのかと・・・。 2021年4月からカクヨムで、2021年5月からアルファポリスで執筆を開始しました。 あくまで、僕の場合ですが、実データを元に・・・。

異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~

松本尚生
現代文学
「いいな、そういうしっとりした話。繊細で美しい」 生きててよかった。マンガを描いてて、よかった。 そう思って涙した少女の暢子は、綾乃とふたりだけの繭の中にいる。リラの香る繭の中に。 繭の中だけが世界だった。 ふたりの共同作業が始まった。部活を切り上げ寮の部屋へこっそり移動する。カギをかけた寮の一室で、ふたりは黙って原稿用紙に向かった。 まだ何ものにもならない、性別すら同定されない無性の生きものがひしめいていた。生意気ざかりの、背伸びしたがりの、愛らしい少女たち。 1990年、高校生だった暢子は、リラの林を越えてやってきた綾乃の共犯者となる道を選ぶ。 それから20年後の2010年、ふたりは「ノブさん」と「センセイ」になって――。 今回は女性の話です。 まだアナログだった時代のマンガ制作の様子もお楽しみください。

トクソウ最前線

蒲公英
ライト文芸
未経験者歓迎、誰でもできるお仕事です。 誰でもできるからって、誰もがプロフェッショナルじゃありません。ランクだって当然あるんです。誰もが目にするお仕事で、本当は何をしているのか知りません。 トクソウ部で、一緒にお仕事しませんか。 表紙はどらりぬ様が描いてくださいました。ありがたいばかりです。

♀→♂への異世界転生~年上キラーの勝ち組人生、姉様はみんな僕の虜~

高嶺 蒼
ファンタジー
痴情のもつれ(?)であっさり29歳の命を散らした高遠瑞希(♀)は、これまたあっさりと異世界転生を果たす。生まれたばかりの超絶美形の赤ん坊・シュリ(♂)として。 チートらしきスキルをもらったはいいが、どうも様子がおかしい。 [年上キラー]という高威力&変てこなそのスキルは、彼女を助けてくれもするが厄介ごとも大いに運んでくれるスキルだった。 その名の通り、年上との縁を多大に結んでくれるスキルのおかげで、たくさんのお姉様方に過剰に愛される日々を送るシュリ。 変なスキルばかり手に入る日々にへこたれそうになりつつも、健全で平凡な生活を夢見る元女の非凡な少年が、持ち前の性格で毎日をのほほんと生きていく、そんなお話です。 どんなに変てこなお話か、それは読んでみてのお楽しみです。 感想・ブックマーク・評価などなど、気が向いたらぜひお願いします♪ 頂いた感想はいつも楽しみに読ませていただいています!!! ※ほんのりHな表現もあるので、一応R18とさせていただいてます。 ※前世の話に関しては少々百合百合しい内容も入ると思います。苦手な方はご注意下さい。 ※他に小説家になろう様、カクヨム様でも掲載しています。

処理中です...