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新寶島 その5
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さてさて賢明な読者の皆様は覚えていらっしゃるだろうが、ここでようやく第1部分「きわめてユニークなプロローグを期待する読者の失望」の場面に戻るのだった。
ちなみに「きわめてユニークなプロローグを期待する読者の失望」とは手塚治虫先生の痛快娯楽SFアクションコミック「マグマ大使」が単行本化の際につけられた第一話のサブタイトルを櫃間 武士がパク……オマージュしたものである。
昭和29年8月13日金曜日、真夏の昼下がり。
場所は駄菓子と玩具の問屋街、大阪松屋町。
土が剥き出しのでこぼこだらけの道からはゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。
上半身裸の汗まみれの男たちが、木箱を積み上げたリヤカーを引いて忙しそうに走っている。
その表通りを外れた下町の路地裏に、二階建ての薄汚れたボロビルが建っていた。
ビルの表には看板がなかったが、薄暗い階段を上ると目の前に「I出版」と金文字で書かれたガラス戸があった。
この日、この路地裏のオンボロビルの中で、後に日本のマンガとアニメの歴史が変わる出来事が起きようとしていたのだ。
「お願いします!」
I出版という大層な社名を付けているが要するにただの赤本屋の社長に、雅人は漫画原稿の入った分厚い茶封筒を手渡した。
駄菓子屋をしている雅人の母親の紹介でI出版に来たのだが、ここは関西の赤本屋でも大手であった。
「えらいぎょうさん描いてきたなあ、アンちゃん!こないに描いても本にでけへんで」
社長はまず200ページ以上もある茶封筒の分厚さに目を丸くした。
次に封筒表に書かれた「手塚治虫」という作者名を見て、社長は少し考えてから言った。
「――てづか、ハルムシでっか?それともジムシ……?」
テーブルを挟んでシミだらけのソファに腰かけていた少年は慌てて身を乗り出した。
「おさむです!てづか おさむと読みます」
「ふーん…。そんじゃ、玉稿、拝見させてもらいまっせ」
社長は茶封筒をひっくり返すと、乱雑に原稿の束を取り出した。
原稿はわら半紙に鉛筆で描いたものだった。
(素人やな。とっとと帰ってもらおか)
そんなことを考えていると、社長の顔にありありと現れていた。
「どれどれタイトルはっと……、『新寶島』でっか……」
首に掛けた薄汚れたタオルで禿げ頭の汗を拭きながら、興味なさそうに社長は原稿を読み始めた。
と、最初の1ページ目で社長の目の色が変わった。
「な、なんや!?この漫画……!?」
社長は興奮して次々と原稿をめくって読んでいった。
「う、動いとる!絵が飛び出してくる!こんな漫画見たことあらへん!」
最初のシーンは主人公のピート少年が、宝探しのためにオープンスポーツカーで港に向かっていくところだ。
たっぷり2ページ、ただ、車が走っているだけだ。
そこには今までのポンチ絵とバカにされてきた漫画にはない躍動感であふれていた。
「滅茶苦茶おもろいやないか!まるでメリケンの映画を観とるみたいや!!」
「新寶島」を一気に読み終えた社長は煙草に火をつけた。
そして、天井に向かって煙を吐きながらため息をついた。
「ふう…………!」
「どうですか?」
「………手塚はんとかいいましたな、アンちゃん。ぜひ、うちで本出させてもらいましょ!」
「ほ、本当ですか!ありがとうございます!」
雅人はテーブルに両手をつくと深々と頭を下げた。
そして後ろを振りかえると、入口の扉に向かって呼びかけた。
「おーい、入って来いよ」
社長が怪訝な顔で雅人に尋ねた。
「な、なんや?この漫画、アンちゃんが描いたんちがうんか?」
「はい。俺はただの世話人です」
「はあ?なんでまた、そんなややこしいことを……?」
「いきなり本人に会わせたら、きっと読んでくれないと思いまして……」
社長は訝しげな顔で入口の扉が開くのを待った。
入口の扉を開けておずおずとこの新寶島を描いた人物が入ってきた。
「あ、あんたが手塚治虫やて!?」
社長はあんぐりと口を開け、くわえていた煙草を床に落とした。
入口には赤いベレー帽を被った白いワンピース姿の治美がおどおどとした態度で立っていた。
治美がベレー帽を脱いだ。
見事に金色に光り輝く長い髪がベレー帽の中からこぼれ落ち、彼女の肩先で揺れた。
金髪の美少女は天使のような微笑みを浮かべて言った。
「わたしが手塚治虫です!わたし、マンガの神さまになります!!」
(決まったわ!)
治美が胸を張ってそう言うと、社長がキョトンとした顔で尋ねた。
「――マンガの神さま?なんでっか、それ?」
「い、いえ!ちょっと、張り切って決意を述べさせていただきました……。すみません、すみません……」
治美は自分で自分のことを神さまと呼んでいることに気づき、恥ずかしそうに顔を赤く染めた。
「まあ、ええやないか!あんたぐらいの年頃にはようあるこっちゃ」
脂ぎった顔の社長は、興味深げに治美の全身を舐め回すような目つきで見た。
「しかし、えらいベッピンさんやな!」
社長の視線に気が付き、雅人は眉をひそめた。
「仕事の話に戻りましょう、社長さん。この鉛筆書きの原稿はあくまでも見本です。ちゃんとペン入れをした完成原稿は、契約をしてからお渡しします」
「契約?」
雅人は横山に作ってもらった「著作物取り扱いに関する契約書」を社長に手渡した。
「著作権者 手塚治美『漫画家:手塚治虫』(以下甲という)とI出版社(以下乙という)とは、甲の著作物の出版に関して、次の通り契約を締結する…」
社長は契約書を読みながら、目を白黒させた。
「たかが漫画本に契約書でっか!?たまげたなあ!」
雅人が身を乗り出し、社長の顔の前に右手の指を三本広げて見せた。
「社長さん!この新寶島を出版するにあたって、三つ条件があります」
「じょ、条件やと!?」
ちなみに「きわめてユニークなプロローグを期待する読者の失望」とは手塚治虫先生の痛快娯楽SFアクションコミック「マグマ大使」が単行本化の際につけられた第一話のサブタイトルを櫃間 武士がパク……オマージュしたものである。
昭和29年8月13日金曜日、真夏の昼下がり。
場所は駄菓子と玩具の問屋街、大阪松屋町。
土が剥き出しのでこぼこだらけの道からはゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。
上半身裸の汗まみれの男たちが、木箱を積み上げたリヤカーを引いて忙しそうに走っている。
その表通りを外れた下町の路地裏に、二階建ての薄汚れたボロビルが建っていた。
ビルの表には看板がなかったが、薄暗い階段を上ると目の前に「I出版」と金文字で書かれたガラス戸があった。
この日、この路地裏のオンボロビルの中で、後に日本のマンガとアニメの歴史が変わる出来事が起きようとしていたのだ。
「お願いします!」
I出版という大層な社名を付けているが要するにただの赤本屋の社長に、雅人は漫画原稿の入った分厚い茶封筒を手渡した。
駄菓子屋をしている雅人の母親の紹介でI出版に来たのだが、ここは関西の赤本屋でも大手であった。
「えらいぎょうさん描いてきたなあ、アンちゃん!こないに描いても本にでけへんで」
社長はまず200ページ以上もある茶封筒の分厚さに目を丸くした。
次に封筒表に書かれた「手塚治虫」という作者名を見て、社長は少し考えてから言った。
「――てづか、ハルムシでっか?それともジムシ……?」
テーブルを挟んでシミだらけのソファに腰かけていた少年は慌てて身を乗り出した。
「おさむです!てづか おさむと読みます」
「ふーん…。そんじゃ、玉稿、拝見させてもらいまっせ」
社長は茶封筒をひっくり返すと、乱雑に原稿の束を取り出した。
原稿はわら半紙に鉛筆で描いたものだった。
(素人やな。とっとと帰ってもらおか)
そんなことを考えていると、社長の顔にありありと現れていた。
「どれどれタイトルはっと……、『新寶島』でっか……」
首に掛けた薄汚れたタオルで禿げ頭の汗を拭きながら、興味なさそうに社長は原稿を読み始めた。
と、最初の1ページ目で社長の目の色が変わった。
「な、なんや!?この漫画……!?」
社長は興奮して次々と原稿をめくって読んでいった。
「う、動いとる!絵が飛び出してくる!こんな漫画見たことあらへん!」
最初のシーンは主人公のピート少年が、宝探しのためにオープンスポーツカーで港に向かっていくところだ。
たっぷり2ページ、ただ、車が走っているだけだ。
そこには今までのポンチ絵とバカにされてきた漫画にはない躍動感であふれていた。
「滅茶苦茶おもろいやないか!まるでメリケンの映画を観とるみたいや!!」
「新寶島」を一気に読み終えた社長は煙草に火をつけた。
そして、天井に向かって煙を吐きながらため息をついた。
「ふう…………!」
「どうですか?」
「………手塚はんとかいいましたな、アンちゃん。ぜひ、うちで本出させてもらいましょ!」
「ほ、本当ですか!ありがとうございます!」
雅人はテーブルに両手をつくと深々と頭を下げた。
そして後ろを振りかえると、入口の扉に向かって呼びかけた。
「おーい、入って来いよ」
社長が怪訝な顔で雅人に尋ねた。
「な、なんや?この漫画、アンちゃんが描いたんちがうんか?」
「はい。俺はただの世話人です」
「はあ?なんでまた、そんなややこしいことを……?」
「いきなり本人に会わせたら、きっと読んでくれないと思いまして……」
社長は訝しげな顔で入口の扉が開くのを待った。
入口の扉を開けておずおずとこの新寶島を描いた人物が入ってきた。
「あ、あんたが手塚治虫やて!?」
社長はあんぐりと口を開け、くわえていた煙草を床に落とした。
入口には赤いベレー帽を被った白いワンピース姿の治美がおどおどとした態度で立っていた。
治美がベレー帽を脱いだ。
見事に金色に光り輝く長い髪がベレー帽の中からこぼれ落ち、彼女の肩先で揺れた。
金髪の美少女は天使のような微笑みを浮かべて言った。
「わたしが手塚治虫です!わたし、マンガの神さまになります!!」
(決まったわ!)
治美が胸を張ってそう言うと、社長がキョトンとした顔で尋ねた。
「――マンガの神さま?なんでっか、それ?」
「い、いえ!ちょっと、張り切って決意を述べさせていただきました……。すみません、すみません……」
治美は自分で自分のことを神さまと呼んでいることに気づき、恥ずかしそうに顔を赤く染めた。
「まあ、ええやないか!あんたぐらいの年頃にはようあるこっちゃ」
脂ぎった顔の社長は、興味深げに治美の全身を舐め回すような目つきで見た。
「しかし、えらいベッピンさんやな!」
社長の視線に気が付き、雅人は眉をひそめた。
「仕事の話に戻りましょう、社長さん。この鉛筆書きの原稿はあくまでも見本です。ちゃんとペン入れをした完成原稿は、契約をしてからお渡しします」
「契約?」
雅人は横山に作ってもらった「著作物取り扱いに関する契約書」を社長に手渡した。
「著作権者 手塚治美『漫画家:手塚治虫』(以下甲という)とI出版社(以下乙という)とは、甲の著作物の出版に関して、次の通り契約を締結する…」
社長は契約書を読みながら、目を白黒させた。
「たかが漫画本に契約書でっか!?たまげたなあ!」
雅人が身を乗り出し、社長の顔の前に右手の指を三本広げて見せた。
「社長さん!この新寶島を出版するにあたって、三つ条件があります」
「じょ、条件やと!?」
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