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新寶島 その4

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 「新寶島しんたからじま」の制作が始まった。

 夏休みなので安村、藤木、赤城の3名は毎日朝の9時に仕事部屋に出勤し、1時間の昼休み休憩を挟んで午後5時には帰宅した。

 彼らはまだ高校生ということもあったが、治美はけっして残業を許さなかった。

 手塚治虫が早くに亡くなった原因は仕事のし過ぎにあったと治美は考えており、それを心底残念がっていたからだ。

 食堂には横山の机も用意されていたが食堂は禁煙のため、たいてい彼は一人で書斎に籠って自分の原稿を描いていた。

 治美はというと、昼間はほとんど雅人の家の茶の間でネームを描いていた。

 アシスタントの前だとずっと漫画の神様を演じていないといけないので疲れるし、何より余計なことを口走って未来人だとばれる恐れがあるからだ。

 そして日に何度かネーム描きに疲れた頃、気分転換のために仕事部屋に顔を出し、アシスタントたちの手助けをしていた。


 その日も治美が仕事部屋に顔を出すと、赤城が真っ白なケント紙を睨んでずっと悩んでいた。

「どうしました?赤城さん?」

 治美が問いかけると、赤城は情けない声を出して彼女に訴えた。

「宝島の原住民の村を動物たちが襲撃する場面がどうしてもうまく描けません!」

 治美の描いたネームを見るとコマの上半分に横長の丸が幾つか描かれ、丸の中にゾウ、サイ、ライオンと文字が書いてある。

 下半分にはただ「逃げ回る原住民」と書いてあるだけだった。

「これはちょっと手を抜きすぎたわね。ゴメン!ゴメン!」

 治美は頭をかきながらコミックグラスを起動した。

「えーと、136ページね………」

 治美はサラサラと鉛筆で驚いて飛び跳ねたり、慌てて逃げ出す原住民の姿を6人程描いた。

 原住民はすべて手足を棒のように表現した棒人間で表している。

「人間を描く時は、こうやってまず関節や腰骨などの重要な部分を決めるの。それからこの棒人間に肉をつけた状態に下絵を描いてそれにペン入れしたら描けるわよ」

「動物の表情も上手く描けないんです。怒った動物の顔なんてどうやって描けばいいんですか?」

 治美はコマの上半分に柵を壊して飛び掛かってくるゾウやライオンの姿をチョイチョイと描いてみせた。

「別に表情なんて人間と同じでいいのよ。目のところにシワが寄って、眉が吊り上がって、顔が飛び出す…」

「でもゾウに眉毛なんてありませんよ!」

「マンガなんだから何でもありよ!みんな、頭カタイわねぇ」


 治美は黒板の前に立ち、手を叩いてみんなに呼び掛けた。

「はーい!みなさん、注目してください!」

 机に座って原稿を描いていた安村たちが一斉に顔を上げた。

 治美は黒板に「マンガ=記号」とチョークで大きく書いた。

「わたしはマンガを描いている時、写実的な絵画を描いているつもりはありません。わたしにとってのマンガというのは表現手段の符牒ふちょうにしかすぎなくて、実際にはわたしはを描いているのじゃなくて、ある特殊な文字で物語を書いているつもりです」

ではなくてある特殊な文字を書く?特殊な文字って何ですか、先生?」

「象形文字です。エジプトの遺跡によくあるでしょ。あれと同じ、絵文字のことよ」

「マンガとは絵でなく絵文字なんですか!?」

 治美は黒板に「怒ったライオン」と書いた。

「これはただの文章ですからこれが本に書いてあったらただの小説ですよね。でも、こうして…」

 治美は黒板にたてがみのついた動物の顔を描き、牙をむき出し、眉を吊り上げ、額の横に血管が浮かんだ姿を描いた。

「これを見たら一目で『怒ったライオン』だと意味が伝わりますよね。写実的な絵画ではなく、デフォルメし、パターンを組み合わせた記号を使って面白いお話を読者に届ける。それがわたしのマンガです」

 安村たちはノートを取り出し、治美の言葉をメモに取り始めた。

「表情のパターン、動作のパターン、キャラクターデザインのパターン、そしてストーリーのパターン。いろんなパターンはもうわたしが考えていますから、追い追いみなさんにもお教えします。あと記号の中にはフキダシやコマの形、オノマトペや漫符といった物があります。これらの記号を組み合わせたら、どんな壮大なストーリーもマンガで描くことができるのです!日本のマンガのパターンは全てわたしが考えて発表していきます。みなさんが将来自分でマンガを描く時はそれを自分なりにアレンジして描いてください」

 熱のこもった治美の講義を聞いて、安村たちはみんな感動に打ち震えていた。

「日本は戦争に負けた資源もない小さな島国です。とてもハリウッドみたいな映画を作ることはできません。でもわたしたちは紙とペンさえあれば、ハリウッド映画にも負けない物語を生み出せるのです。それがマンガです!」

 その時、食堂に置かれたアンティークな柱時計が鐘を打ち出した。

「あら。もう5時ね。今日の仕事はここまでです!みなさん、お疲れ様でした」

「でも先生!ぼく、この原稿を最後まで描きたいです!家に持って帰って続きを描いてもいいですか?」

「仕事を家に持ち帰るのは厳禁よ!続きは明日にして、今日はもう帰りなさい」

 治美にそう諭され、安村たちは渋々と家路についていった。



 その日の夜更け、書斎で貿易関連の書類整理をしていた横山がコーヒーを飲もうと食堂に入ると、治美が一人で机に向かってネームを描いていた。

 横山はコーヒーを作って治美に持って行った。

「残業はしないんじゃなかったのですか、手塚先生?」

「難しいシーンのネームをもう少し細かく描いてあげているんです」

「手塚先生が身体壊したら元も子もなくなりますよ」

「わたしは大丈夫ですよ。わたし今、マンガ描くのが楽しくて楽しくてしょうがないんです!わたしは何の才能もない人間です。でもこうして手塚作品を模写してると、まるで自分が天才漫画家になったような気がします」

 こうして治美たちは毎日懸命に「新寶島しんたからじま」の原稿を描き続けた。

 といっても、実際にほとんどのペン入れをしているのは安村たち3名のアシスタントだったが。

 そしてわずか十日後、治美の宣言通り「新寶島しんたからじま」は完成したのだった。
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