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きりひと讃歌 その3

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 昭和29年5月18日、火曜の夕方。

 雅人が学校から帰ると学生服のままエリザの屋敷に出かけた。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、珍しくエリザが玄関で出迎えてくれた。

「あれ?横山さんは?」

「書斎で仕事中や」

「――治美はどうしてる?」

 エリザが首を横に振った。

「屋根裏部屋に引きこもって出てこうへん。下から呼びかけても返事もせえへん。でも、食事を置いて後から見に行くときれいに平らげてるわ」

「まだすねてるのか」

「ケンカしたんやてな?」

「俺は悪くないぞ!」

「そんなんわかっとるわ。治美がアホなことしたんやろ」

「治美は未来人としての自覚が足りないんだよ。あんなにペラペラ自分の秘密を喋るなんて大馬鹿だ!」

「でもな、あの子なりにない知恵絞ってやったことやからな、頭ごなしに怒らんでもええやろ」

「なんだ、エリザは治美の肩を持つのか?」

「あの子はいきなり両親も友達も知り合いも誰もいない世界にたった一人で放り込まれたんや。身内はうちらしかおらんのやで。それなのに健気に頑張っとるやないか」

「それぐらい分かってるさ!だがなあ……」

「治美の住んでた未来世界では大人は誰も子供を叱らんそうや。うちらなんて、女の子でも学校の先生、平気で平手打ちして叱るやろ。未来世界ではそんなことしたら先生、クビになるんやて」

「治美がそう言ったのか。あいつ、俺たちにバレないと思って、何でも自分に都合のいいように未来世界の話を誇張してると思うぞ」

「あの子見てたらわかるやろ。叱るよりもほめておだてた方がうまくいくと思うで」

「――ああ。わかったよ」

 エリザが突然、ケラケラと笑いだした。

「うちら、まるで子供の教育方針でもめてる夫婦みたいやな」

「まったくだ!」

「食堂でお茶飲んでかへん?」

「いや。ちょっと横山さんに話があるんだ」

「横山に?」




 雅人は一人で二階に上がると、書斎の分厚い樫の木の扉をノックした。

「どうぞ」

 横山の声がしたので、雅人は書斎に入っていた。

 壁一面の書棚には難しそうなドイツ語の本が並んでいる。

 ここはエリザの父親の書斎だが、現在不在のため、番頭の横山が事務処理のために使っている。

 部屋の中は煙草の煙が充満していた。

 横山はかなりのヘビースモーカーで、今も机に座りながら口に火のついた煙草をくわえていた。

 自分も隠れて煙草を吸っていた雅人だが、煙が目に染みて思わず咳き込んた。

「おっと、失礼!」

 横山はくわえていた煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

「未来世界では喫煙者は絶滅危惧種でね、どこに行っても嫌われて迫害されていたのですよ。それがこちらの世界に来たら、電車でも映画館でもレストランでもどこでも自由に煙草が吸える。愛煙家にとって夢のような世界です」

 そうやって雅人に話しかけながらも、横山の両手は机の上の見えないキーボードをタイプしていた。

 横山はコミックグラスのアプリを使って、書類を作成しているようだ。

「横山さんは完璧にコミックグラスを使いこなしていますね」

「コミックグラスはこの世界では無敵のビジネスツールになるんだよ。翻訳や計算はもちろん、スケジュール管理やデータ管理も完璧だ。未来世界ではただのスマホ並みの性能だが、この世界では世界中のどの電子計算機よりも高性能なんだ。そして何よりオマケについてる年表が役立つ!」

「年表が…ですか?」

「雅人くんも昨日、自分で言っていたじゃないか。未来の知識を使って儲けようとする悪党が現れるって。僕はその悪党だよ」

「悪党だなんて……」

「雅人くん。君は今の日本の景気をどう思う?」

「えっ?景気ですか?悪いんじゃないですか?去年まで朝鮮特需で景気が良かったみたいですが、休戦協定が結ばれてから不況になったって新聞に書いてます」

「今は確かに不況なんだが、今年の年末から昭和32年6月までの31ヵ月間、神武景気という日本の高度経済成長期が始まるんだ!」

「そうなんですか!?」

「ああ!まったく君たちの世代が羨ましいよ。日本はこれからどんどん発展し、生活はますます豊かになってゆく。僕はね、未来の知識を利用して、このビッグウェーブに乗ろうと思うんだ!」

「はあー。横山さんはたくましいですね。でも、そのためには元手が必要ですよね。番頭の給金ってたいして貰ってないんでしょ?」

「ははは!言うねぇ!その通りだよ」

 横山はタイプの手を止め、煙草を一本取り出すと火をつけた。

「マンガを描けっていうのかい?」

「その高度経済成長期ってのが始まるまでの間だけでもいいから、横山光輝として漫画を描いてくれませんか?横山さんならきっと上手くやれますよ」

「マンガ家ねぇ………」

「漫画家って物凄く儲かるんですよ。関西の税務局が1954年に発表した長者番付の画家の部の一位が年収二百十七万円の手塚治虫だったそうですよ」

「それは僕らの世界の本物の手塚治虫の話だろう?この世界でも成功するとは限らない」

「もしも治美の漫画が新聞社に採用されたら、漫画家になる件をもう一度考えてみてもらえませんか?」

「―――考えとくよ」

「ありがとうございます」

 雅人は深々とお辞儀をした。

「それじゃあ、失礼します」

 雅人が書斎から出かけた時、横山が背後から声をかけた。

「ああ、雅人くん」

「はい?」

「治美さんは、いい家族をもったね……」

「――祖父の心、孫知らず…ですよ」
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