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1.“最悪”の始まり
しおりを挟む暗い夜道を歩くゴーン・デッセルバの今の気持ちは、“最悪”の一言だった。
自身が経営する商会も上手くいかず赤字続き、妻は金遣いが荒くブクブク太って出会った頃の見る影もない、二十五にもなる息子はいつも薄ら笑いを浮かべていて、何を考えているか分からないから気味悪い……。
経営も最悪、家族も最悪――こんなムシャクシャする日は、好みの女に慰められながら一晩過ごすに限る。
ゴーンがニヤリとしながら娼館のある町外れに向かおうとした所、視線の先で一人の女がせわしなくキョロキョロしているのが目に入った。
……辺りが暗くても分かるくらい、かなりの美人な女だった。年は恐らく三十代後半だろうか。
あの女、イイな……。言葉巧みに惑わして、宿屋に連れ込むとするか。
下心満開で、ゴーンは女に声を掛けた。
「どうされました、レディ? 何かお困りごとでも? 私で良ければ相談に乗りますよ?」
「――あぁ! ご親切な紳士様! わざわざ私のような女に声を掛けてくれるなんて、貴方様のような方を探しておりました!」
女はクルリと振り向くと、嬉しそうに微笑んでそう言った。
その美しい微笑みにドキリとしたゴーンは、益々宿屋に連れて行く意気込みを増したのだった。
「それは光栄です、レディ。貴女の話なら何でも聴きますよ。ここでは何ですから、一緒に宿屋へ――」
「この子を暫く預かって欲しいのです! どうかお願い致します……!」
「行きま――って、“この子”?」
ゴーンはキョトンとしながら目線を下げると、そこで初めて女が少女を抱きしめていることに気が付いた。
「は? へ……?」
「勿論、ただでとは言いません。お礼は致します。そうですね……。――紳士様は経営者でいらっしゃいますね? 服装と身だしなみが、上に立つ者としてしっかりとされているので……。違いますか?」
「い、いや……合っている」
驚き戸惑うゴーンに、女は小さく頷くと言葉を続けた。
「ではこの子に、紳士様の経営が上手くいくおまじないを掛けます。この子が傍にいると、その経営はグングンと向上していくでしょう。一回きりのお金を払うより、その方が助かるのではないですか?」
「そ、それは助かるが……ほ、本当に上手くいくのか!?」
「えぇ、大切な私の娘を預かって頂くんですもの。嘘は決して言いません」
女は、今度は大きく首を縦に振ると、小さく何かを呟いた。すると、彼女が抱きしめている少女の身体が淡く黄金色に輝いて、すぐに消えた。
「このおまじないは、すぐに効果が表れます。その代わり、この子をどうかよろしくお願い致します。必ず迎えに行きますので、大切に――大事に接して下さい。約束ですよ?」
「あ……、あぁ……」
「フレイシル。暫くお別れだけど、全て終わったら絶対に迎えに来るから。それまでどうか元気でね?」
「…………っ」
少女は女の腕の中でブンブンと首を横に振り、涙を流す。
「ごめんね、どうしてもあなたを連れていけないの。あなたを死なせたくないのよ。……どうしようもない人だけど、やっぱり見捨てることは出来ないから――」
女は悲しそうに微笑を見せると、少女を強く抱きしめた。
「……もう行かなくては……。あの人が危ないわ……。――フレイシル、あなたに幸運があらんことを」
女は少女の額にキスをすると、その姿が煙のように消え失せた。
あとに残ったのは、呆然と立ち尽くすゴーンと、声もなく泣きじゃくる少女の二人だけだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それでこの娘を連れて来たの!? こんな得体の知れない、デブで不細工な娘をっ!?」
デッセルバ夫人のキンキン響く金切り声に、
(デブって……人のこと言えないだろう)
と、ゴーンとその息子であるボラードは心の中で同時に思った。
「仕方ないだろう? 切羽詰まって困った感じだったし、見兼ねて声を掛けたんだ。その女が、この娘が側にいると経営が上手くいくって言うもんだから」
(……宿屋に連れ込もうと声を掛けたなんて、誰が正直に言うか。しかし……あの時は暗くてよく見えなかったが、コイツの言う通り、女の娘とは思えないほど、太って器量が悪い娘だな……)
「アナタは何処の馬の骨とも知れない女の戯言を信じたの!? そんなに簡単に上手くいくんだったら苦労しないわよ!!」
「あの女はすぐに効果が表れるって言っていたから、明日にでも分かるだろう。だから明日まで待ってみようじゃないか」
「それでもうちに置くなんてイヤよ!! その娘、喋れないんでしょ!? そんな『欠陥品』なんてサッサと追い出してよッ!!」
それまで黙って父母の言い合いを聞いていたボラードは、そこで静かに口を開いた。
「母さん。この子は喋れないけど耳は聞こえるんだから、その言い方は良くないと思うな」
涙を浮かべて下を向いていた少女は、チラリとボラードの方を見上げた。彼はそれに小さく笑みを返す。
「で、でもボラードちゃん――」
「父さんの言う通り、明日まで待ってみようよ。一晩泊めるくらいいいだろう?」
「あぁ、そうしよう。それで結果を見て、何も変わらなければ追い出せばいいじゃないか。もし変わっていたら、この家の使用人として働かせればいいだろう?」
「……ボラードちゃんがそう言うんだったら……」
ボラードとゴーンの説得に、夫人は渋々といった感じで了承した。
「決まりだね。じゃあ、客間に案内するよ。えっと、名前は――」
「あぁ、そう言えば名前を聞いていなかったな。確かフレイシルと呼ばれていたぞ」
「フレイシルちゃん、だね。おいで」
ボラードはフレイシルに向かって手を差し出す。
フレイシルはボラードを見上げ、おずおずとその手に自分の掌を乗せた。
そのふっくらとした手を握ると、ボラードは微笑み、客間へと歩き出した。
――その翌日、デッセルバ商会の商品を買いたいという客が一斉に押し寄せてきた。
それは連日続き、商品が飛ぶように売れ、あれよあれよという間にデッセルバ商会は大手の商会へと成り上がった。
その功績により一年後、デッセルバ家は準男爵を叙爵されることになる。
更にその一年後には、王国の中で一番大手の商会へと発展していった。
しかしそれは、デッセルバ家の使用人となったフレイシルの、“最悪”の日々の始まりでもあった――
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