眠るクジラの子守歌

きなこもち

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第二話

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アケへのその酷い執着心を自覚したのはまだ中年生の頃。
ある時、ふと大事な親友であるアケが俺以外の人間と仲良くしているところを見てその光景にひどい苛立ちを感じた。自分の目の届かない場所でアケが過ごしていることにひどい不安感を感じる。自分以外の人間と笑っていることが気に食わない。
突然自分に起きた気持ちの変化に困惑しつつ目線はついアケを追いかけてしまう。そんなことをしていればアケだって視線に気づく。不思議そうにしながらも俺を見つけるといつものように笑顔を向けてくれる。

「どうした?ハル。」

「いや、…なんでもない。」

「そう?なぁハルもおいでよ。遊びに行こう!」

「分かった、今行く!」

アケに遊びに誘われればさっきまで考えていたもやもやはすぐに消えた。そんなことよりアケと遊ぶ方が大切だった。
その感情がだんだんと大きくなっていってやがて頭から離れなくなっていくのに時間はかからなかった。少しずつアケに不満が溜まる。いやアケに不満が溜まるんじゃない。アケの周りにいる人間に苛立ちを覚える。なんでお前らがアケと一緒にいるんだ。アケの傍にいていいのは俺だけなのに。

自分でも制御できない訳のわからない気持ちでいっぱいになってアケと喧嘩もした。なんで俺と遊んでくれないの、どうしてそいつらといるの。
そんな子供の癇癪みたいな駄々をこねてアケと喧嘩して、そうして少し落ち着いたら仲直りして。
そんなことが何度かあって何度目かの仲直りをした日の夜だった。
ふいに気づく。
俺のこの気持ちは友達を取られて寂しいからじゃない。俺の唯一が傍にいないことへの不満感と怒りでアケにすら八つ当たりをしている。
それはなんで…? ――アケが傍にいないと気に食わないから。俺はずっとアケの傍にいるべきだから。
それを自覚したその瞬間さぁっと血の気が引いた。俺は今まで何を考えていた?
どうして当たり前のようにアケの傍に居なければならないと考えた?俺はいったい何を考えてアケと喧嘩していた?

アケに対するこの感情を自覚したとき、頭がおかしくなったかと思った。実際に自分は頭がおかしくなったのだと、気が狂ったのではとさんざん考えた。

大事な親友にどうしてこんな感情を抱くのだ。親友とはいえアケは自分のものではない。アケには彼自身の自由がある。それを親友だからと俺自身が邪魔してはいけない。いやそんな権利など欠片もないのに。
どうしてこんな、耐えがたい、ひどい執着心。

恐ろしかった。

あの父の息子である自分の前にいつか父のように異常な愛情を注ぎたい相手が現れてしまうのか。そうして父のように常に相手を傍に置かないと耐えられないようなそんな人間になるのか。そして俺の相手は母のようにそれを受け入れてくれるだろうか。
両親の、特に父の姿を見てきてそんな未来がやってくることに怯えていた中学生の自分にとってこのアケに対する感情の沸き上がりはとてつもなく恐ろしく、おぞましいものに思えた。

あの父のように、母のこと以外何も興味を持たない、そんな人間になってしまう日が来るかもしれない。

そして両親は夫婦という関係性を構築できたが俺とアケは同性で法律上対等な関係を結ぶことは出来ない。あんな、可能な限り相手が傍に居なければまともに生きていくことすら不可能な、狂った人間に自分もなる可能性がある。

待ち受ける自分の未来のことで頭の中は一杯だった。そして無意識に自分がアケのことを所有物であるかのように考えていたことに怖気すら感じた。

人を所有する。それがどれほどおぞましく、傲慢で、恐ろしいことなのか。
それでいて自身が注いだ分だけ、あるいはそれ以上の愛を要求するその貪欲さ。

アケは親友なのだ。家族がよくわからない、人としての感情がうまく構築できなかった自分を人にしてくれた大切な親友。俺の唯一無二。

ああ、なのに心の奥底ではおぞましい何かが叫ぶのだ。あれが欲しい。自分を、自分だけを見てほしい。俺だけを愛して欲しい。

アケに対する感情に気が付いてから何日も、何週間も、何か月も、悩み続けた。アケに悟られないように、誰かにこの感情を気づかれないように、表面上はいつも通り。なんでもないように学校生活を送り、アケと笑って親友として過ごす。そうして自分は決心した。

アケから離れようと。

アケへの衝動は自覚した時よりずっと強くなっていった。
学年が上がり、クラスが離れたことも気に入らない。入部した部活が違うために帰りもなかなかタイミングが合わない。
部活の仲間と笑いあうアケを眺めては湧き上がる澱みのようなドロリとした薄暗い感情をどうにか宥めて過ごしていた。

アケのそんな姿を見なければいいのだがアケが視界に居ないことが気に入らない。苛立つ。居ても立っても居られない。アケに気づいて欲しい。俺を見て欲しい。ともう一方で頭の中の、まだ冷静な思考の一部が叫ぶ。やめろ、絶対に気づかれるな、ああどうか、永遠に俺のこの気持ちには気づかないで。そんな矛盾した気持ちを抱えて、暴走しそうな衝動に襲われてはどうにか意識を逸らして日々を送っていた。


アケへの酷い執着を自覚してから一年。やがて進路を決める時期になり、俺はアケとは違う学校へ進学することに決めた。幸い進学先は自由に選べた。学力も学費も俺を制限するものはなかった。両親だって。
今のうちに、それとなく、自然にアケから離れることでこの衝動を抑え込もうとしたのだ。アケと離れることを考えるだけで頭が沸騰するかと思うくらいの強い怒りと気が狂いそうなほど激しい衝動が沸き上がる。

どうにか、それこそ文字通り血がにじむ努力でその衝動を必死に抑え込んだ。
このころの名残で俺には軽い自傷行為が癖づいてしまった。何か衝動が沸くたびに左手に噛みつく癖。血がにじむほど深く噛みつくと痛みで意識がはっきりし、歯形ががっちりついた噛み跡はしばらく鈍い痛みを伴う。その痛みでほんのわずかにだが気がまぎれるのだった。

左手の親指の付け根。一番噛みやすく、噛みついた後に力を籠めやすい場所。ギリギリと歯にかかる力を強めれば犬歯が指の関節にあたる。ここにはひどい噛み跡が残ってしまった。普段は医療用テープなどで隠している。指に歯を深く食い込ませれば指の付け根の骨にゴリゴリとした音が触れる。血が出ない程度にしようと毎回思うのにいつだって皮膚は食い破られて口の中には鉄錆の味が広がる。ゴリゴリと関節の骨を噛み砕こうとする犬歯の音が骨から伝わって頭に反響するように響いた。

アケと離れる決心をした俺はそのまま高校、大学とアケとは離れて生きてきた。遊びに誘われれば喜んで参加し、馬鹿なことをして昔のように笑いあうことはしてもなるべく長くは傍にいない。そうして必死にアケへの執着を抑えた。
大丈夫、まだ俺はアケの親友としていられる。父のようには絶対にならない。

アケに友人として会うたびに自分にそう言い聞かせた。会うたびに強くなっていく暴力的な狂気的な欲求をどうにかこうにかねじ伏せて耐えて、耐えて、笑って。

アケに会えばこの衝動は激しくなる。抑圧され続けてもはやヘドロよりずっと汚い汚泥のような衝動を抑え込むのはひどく辛くて、苦しくて、悲しくて、時折アケなら受け入れてくれるんじゃないかと、この秘密を漏らしてしまいそうになるけれど、すんでのところでいつだって踏みとどまった。

アケに会ってしまえば衝動を抑えるための自傷は激しくなる。アケの傍で過ごしている時だけは楽になるけれどアケと別れてしまえば緩んでしまった理性の蓋を閉じるのにずっと苦しむ。それは十分に分かっていたけれどアケに会うことはやめられなかった。ずっと我慢して、我慢して、普通の友人としておかしくないように必死に調整してアケと会い、傍で過ごすことはアケの傍に居たいのにいられないというこの渇望と苦しみと同じくらい深く心を満たした。アケの傍で過ごす時間がもたらす幸福感に溺れそうだった。アケが自分に笑ってくれる、一緒に過ごしてくれる、傍にいることが許されている。

これがずっと続けばいい、永遠にアケを閉じ込めておきたい、俺だけを見て、何も見ないで。その心の全てが欲しい。
そんな傲慢で醜悪な欲望と寂しくて悲しくてドロリと冷えた感情がいつも心の中に満ちている。

それでもアケを無理やり閉じ込めることは出来なかった。それだけは出来なかった。
しようと思えば多分できた。なんなら今からだってアケを監禁し、俺だけしか見れないように心を壊すことだってできる。
でもしなかった。そしてこれからもしないだろう。

たとえ自傷が激しくなり、指の関節を一つ噛み砕いてしまっても。

父のようになりたくないと震え、不安と恐怖で夜に眠ることが出来なくなっても。

衝動的に襲ってくる吐き気でまともに食事がとれなくなったとしても。

それでもアケを、俺とは違って家族に愛された、友人にも恵まれている、俺の唯一をどんな形であっても傷つけたくなかった。
俺は大好きなアケが誰にも損なわれることなく、幸福に満ちた世界で生きて欲しかったから。

そんなことを理屈では考えていたけど実際はアケの世界から全て奪うのが怖かっただけだ。アケに嫌われたくなかった。
それでも時折アケを閉じ込めて俺だけしか見れないようにしたらアケはどんな反応をするんだろうと想像する。
そんなほの暗い想像をしてはあり得ないと首を振った。そんなことをして本当にアケに拒絶されてしまうことを考えるだけでも恐ろしくて仕方ないのにできるわけがない。
だからそんなあり得ない想像をして暴れ狂う衝動を宥める。もしかしたら、いつかアケが受け入れてくれるかもしれないだなんて空想をしては自分の意気地なしを笑う。なんだかんだといっているけれど所詮傷つくのが怖いだけなのだ。

そうして今日も俺はすべてを飲み込んでアケと笑う。ありもしない未来を夢見ながら。
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