29 / 114
本編
母親との約束
しおりを挟む
「マーガレット!」
朝日が昇ってから数時間が経過した朝。遅めの朝食を食べていた時、地響きかと思えるような叫び声に思わず体が硬直した。振り返るのも恐ろしいが、振り返らずにはいられず……マーガレットは持っていたフォークをお皿の橋に置き、ゆっくりと振り返った。するとそこには、マーガレットの背後に仁王立ちしながら熟れたトマトのように赤らんだ顔をした母親、イザベラがそこにいた。
「……お母様、どうかなさ——」
どうかなさいましたか。そう問いかけようとした。けれどその言葉は言い切る前に、イザベラの声にすり潰された。
「マーガレット、母との約束を覚えているかい? 一歩も家から出るなと言っておいたはずだけど、もう忘れたとは言わさないよ!」
きたか、とマーガレットは覚悟を決めた。一度しっかりと深呼吸をした後、イザベラと向き合い、微笑んだ。
「ええ、もちろんですわお母様」
「それじゃなんで昨日は外に出歩いていたんだい! 先ほどシャーメイン夫人が教えてくださって、私は恥ずかしくて顔から火が出るかと思ったわ。よりにもよって昨日のあのみすぼらしい格好のままで出て行ってたそうじゃないか!」
やはりイザベラの耳に入ったか。おしゃべり好きの夫人の口に戸を立てるのは難しいことだ。マーガレットは呆れながらも、覚悟を決めてこう言った。
「はい、私は市場へどうしても行きたかったのです。それがお母様との約束を破ることになると分かっていただけに心苦しい思いではありましたが……」
ドレスのスカートをぎゅっと両手で握りしめ、下唇に歯を突き立てた。
「……そんなことを理由に、マーガレットは母の約束を破ったのかい? それもたった一日で?」
先ほどとは打って変わり声は静かなものとなった。けれどそれが逆マーガレットを震えさせる。まるで火山が噴火する前を見ているよう。
「……はい」
「マーガレット!」
イザベラは閉じた扇で、マーガレットの足を叩いた。思ったよりも鋭い痛みを放つそれに対して驚きのあまり声が出ない。
「もうマーガレットは母が良いというまで外出は禁止だ! いいね!」
有無を言わさぬその口ぶりに、流石のマーガレットもしまったと思った。この状態では一週間どころか本当にイザベラが良いと言うまで家に閉じ込められてしまう。そうなれば、それが解除されるのは一体いつになるのか……先ほどは演技で下唇を噛んだが、今回は演技ではなく噛み締めた。
「ですが、お母様……」
「言い訳はおよし!」
イザベラは聞く耳持たず、さっさとキッチンから出て行ってしまった。
「マーガレットお姉様、大丈夫ですか?」
ずっと立ちすくんでこの状況を見ていたリュセットが、心配そうな表情でマーガレットのそばに立った。
「ええ、けれど困ったわ。これでは外に出れるようになるのはいつになることやら……」
「そうですわね。お母様はなかなか意見を曲げないお方ですから」
「そうよね」
分かっているだけに、どうしたらいいのか。打開策が見つからない。
困り果てた様子で、マーガレットは頭を抱えた。
「一週間後に約束があるの。一週間後ならお母様のお許しが出ていると思って、約束をしてしまったのよ。それなのに……」
「そう、でしたか……」
マーガレットの肩にそっと手を置き、リュセットは悲しそうに眉尻を下げた。
「ですが、マーガレットお姉様。気落ちするにはまだ早いですわ。お約束は一週間後なのでしょう? もしかするとそれまでにお母様の機嫌がなおるかもしれませんわ」
「そうかしら?」
前向きな言葉を紡ぐリュセットに対し、投げやりな返答をするマーガレット。今はリュセットの言葉でも慰めにすらならなかった。
「諦めないでマーガレットお姉様。お母様の機嫌が変わらないのであれば、一週間の間に私達で機嫌を良い方向へと向ければ良いのですわ」
「……どうやって?」
あの堅物の機嫌を良くするにはどうすればいいのか。いつも何かに不平不満をこぼしているような、そんな人間だ。ちなみに言えば姉のマルガリータはそんなイザベラの性格をよく受け継いでいると、マーガレットは常々思っていた。
「そうですわね、例えば縫物で何かお母様にプレゼントをしてみるとか、素晴らしい出来栄えのものをお見せするとか……?」
そんなものであのイザベラの機嫌が直るのだろうか。正直、マーガレットは後向きな気持ちだった。むしろそれでどうにかなるのであれば、こんなに苦労はない。その上、一番の問題は技術的なところだ。マーガレットには裁縫の才が無い。
けれど、他にいい案が思いつくわけでもなく……マーガレットははぁ、とため息をひとつつき、顔を上げた。
「そうね、他にいい案もないし、リュセットの言う通り頑張ってみようかしら」
疲れた顔で微笑んだマーガレットを見て、リュセットは輝かしいほどの満面の笑みを携え、こう言った。
「きっとお母様もお喜びになられますわ! そうすればきっと、お母様もお考え直してくださるに違いありませんもの」
「そうだといいけれど」
不安は拭い去れない。けれどきっと上手くいくと心の底から思っているであろうリュセットの笑顔を見れば、マーガレットもつられて、もしかすると上手くいくかもしれない……などと思えてくる。リュセットのひたむきで前向きな性格だからこそ、人にも伝染する力を持つ彼女の魔法なのかもしれない。
マーガレットはそんなことを考えながら、この愛らしい妹に微笑みを返す。それはさっきよりも優しい笑顔で……。
「そうなるためにもリュセット、私に力を貸してくれるかしら?」
「ええ、もちろんですわ!」
華奢で背も家族の中で一番低い。そんなリュセットの弾けんばかりのパワフルな笑顔につられて、マーガレットは声を立てて笑った。
「ふふっ、ありがとうリュセット」
朝日が昇ってから数時間が経過した朝。遅めの朝食を食べていた時、地響きかと思えるような叫び声に思わず体が硬直した。振り返るのも恐ろしいが、振り返らずにはいられず……マーガレットは持っていたフォークをお皿の橋に置き、ゆっくりと振り返った。するとそこには、マーガレットの背後に仁王立ちしながら熟れたトマトのように赤らんだ顔をした母親、イザベラがそこにいた。
「……お母様、どうかなさ——」
どうかなさいましたか。そう問いかけようとした。けれどその言葉は言い切る前に、イザベラの声にすり潰された。
「マーガレット、母との約束を覚えているかい? 一歩も家から出るなと言っておいたはずだけど、もう忘れたとは言わさないよ!」
きたか、とマーガレットは覚悟を決めた。一度しっかりと深呼吸をした後、イザベラと向き合い、微笑んだ。
「ええ、もちろんですわお母様」
「それじゃなんで昨日は外に出歩いていたんだい! 先ほどシャーメイン夫人が教えてくださって、私は恥ずかしくて顔から火が出るかと思ったわ。よりにもよって昨日のあのみすぼらしい格好のままで出て行ってたそうじゃないか!」
やはりイザベラの耳に入ったか。おしゃべり好きの夫人の口に戸を立てるのは難しいことだ。マーガレットは呆れながらも、覚悟を決めてこう言った。
「はい、私は市場へどうしても行きたかったのです。それがお母様との約束を破ることになると分かっていただけに心苦しい思いではありましたが……」
ドレスのスカートをぎゅっと両手で握りしめ、下唇に歯を突き立てた。
「……そんなことを理由に、マーガレットは母の約束を破ったのかい? それもたった一日で?」
先ほどとは打って変わり声は静かなものとなった。けれどそれが逆マーガレットを震えさせる。まるで火山が噴火する前を見ているよう。
「……はい」
「マーガレット!」
イザベラは閉じた扇で、マーガレットの足を叩いた。思ったよりも鋭い痛みを放つそれに対して驚きのあまり声が出ない。
「もうマーガレットは母が良いというまで外出は禁止だ! いいね!」
有無を言わさぬその口ぶりに、流石のマーガレットもしまったと思った。この状態では一週間どころか本当にイザベラが良いと言うまで家に閉じ込められてしまう。そうなれば、それが解除されるのは一体いつになるのか……先ほどは演技で下唇を噛んだが、今回は演技ではなく噛み締めた。
「ですが、お母様……」
「言い訳はおよし!」
イザベラは聞く耳持たず、さっさとキッチンから出て行ってしまった。
「マーガレットお姉様、大丈夫ですか?」
ずっと立ちすくんでこの状況を見ていたリュセットが、心配そうな表情でマーガレットのそばに立った。
「ええ、けれど困ったわ。これでは外に出れるようになるのはいつになることやら……」
「そうですわね。お母様はなかなか意見を曲げないお方ですから」
「そうよね」
分かっているだけに、どうしたらいいのか。打開策が見つからない。
困り果てた様子で、マーガレットは頭を抱えた。
「一週間後に約束があるの。一週間後ならお母様のお許しが出ていると思って、約束をしてしまったのよ。それなのに……」
「そう、でしたか……」
マーガレットの肩にそっと手を置き、リュセットは悲しそうに眉尻を下げた。
「ですが、マーガレットお姉様。気落ちするにはまだ早いですわ。お約束は一週間後なのでしょう? もしかするとそれまでにお母様の機嫌がなおるかもしれませんわ」
「そうかしら?」
前向きな言葉を紡ぐリュセットに対し、投げやりな返答をするマーガレット。今はリュセットの言葉でも慰めにすらならなかった。
「諦めないでマーガレットお姉様。お母様の機嫌が変わらないのであれば、一週間の間に私達で機嫌を良い方向へと向ければ良いのですわ」
「……どうやって?」
あの堅物の機嫌を良くするにはどうすればいいのか。いつも何かに不平不満をこぼしているような、そんな人間だ。ちなみに言えば姉のマルガリータはそんなイザベラの性格をよく受け継いでいると、マーガレットは常々思っていた。
「そうですわね、例えば縫物で何かお母様にプレゼントをしてみるとか、素晴らしい出来栄えのものをお見せするとか……?」
そんなものであのイザベラの機嫌が直るのだろうか。正直、マーガレットは後向きな気持ちだった。むしろそれでどうにかなるのであれば、こんなに苦労はない。その上、一番の問題は技術的なところだ。マーガレットには裁縫の才が無い。
けれど、他にいい案が思いつくわけでもなく……マーガレットははぁ、とため息をひとつつき、顔を上げた。
「そうね、他にいい案もないし、リュセットの言う通り頑張ってみようかしら」
疲れた顔で微笑んだマーガレットを見て、リュセットは輝かしいほどの満面の笑みを携え、こう言った。
「きっとお母様もお喜びになられますわ! そうすればきっと、お母様もお考え直してくださるに違いありませんもの」
「そうだといいけれど」
不安は拭い去れない。けれどきっと上手くいくと心の底から思っているであろうリュセットの笑顔を見れば、マーガレットもつられて、もしかすると上手くいくかもしれない……などと思えてくる。リュセットのひたむきで前向きな性格だからこそ、人にも伝染する力を持つ彼女の魔法なのかもしれない。
マーガレットはそんなことを考えながら、この愛らしい妹に微笑みを返す。それはさっきよりも優しい笑顔で……。
「そうなるためにもリュセット、私に力を貸してくれるかしら?」
「ええ、もちろんですわ!」
華奢で背も家族の中で一番低い。そんなリュセットの弾けんばかりのパワフルな笑顔につられて、マーガレットは声を立てて笑った。
「ふふっ、ありがとうリュセット」
5
お気に入りに追加
95
あなたにおすすめの小説

小説主人公の悪役令嬢の姉に転生しました
みかん桜(蜜柑桜)
恋愛
第一王子と妹が並んでいる姿を見て前世を思い出したリリーナ。
ここは小説の世界だ。
乙女ゲームの悪役令嬢が主役で、悪役にならず幸せを掴む、そんな内容の話で私はその主人公の姉。しかもゲーム内で妹が悪役令嬢になってしまう原因の1つが姉である私だったはず。
とはいえ私は所謂モブ。
この世界のルールから逸脱しないように無難に生きていこうと決意するも、なぜか第一王子に執着されている。
そういえば、元々姉の婚約者を奪っていたとか設定されていたような…?

悪役令嬢、第四王子と結婚します!
水魔沙希
恋愛
私・フローディア・フランソワーズには前世の記憶があります。定番の乙女ゲームの悪役転生というものです。私に残された道はただ一つ。破滅フラグを立てない事!それには、手っ取り早く同じく悪役キャラになってしまう第四王子を何とかして、私の手中にして、シナリオブレイクします!
小説家になろう様にも、書き起こしております。

悪役令嬢に転生したら手遅れだったけど悪くない
おこめ
恋愛
アイリーン・バルケスは断罪の場で記憶を取り戻した。
どうせならもっと早く思い出せたら良かったのに!
あれ、でも意外と悪くないかも!
断罪され婚約破棄された令嬢のその後の日常。
※うりぼう名義の「悪役令嬢婚約破棄諸々」に掲載していたものと同じものです。
【コミカライズ2月28日引き下げ予定】実は白い結婚でしたの。元悪役令嬢は未亡人になったので今度こそ推しを見守りたい。
氷雨そら
恋愛
悪役令嬢だと気がついたのは、断罪直後。
私は、五十も年上の辺境伯に嫁いだのだった。
「でも、白い結婚だったのよね……」
奥様を愛していた辺境伯に、孫のように可愛がられた私は、彼の亡き後、王都へと戻ってきていた。
全ては、乙女ゲームの推しを遠くから眺めるため。
一途な年下枠ヒーローに、元悪役令嬢は溺愛される。
断罪に引き続き、私に拒否権はない……たぶん。

[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。

乙女ゲームの断罪イベントが終わった世界で転生したモブは何を思う
ひなクラゲ
ファンタジー
ここは乙女ゲームの世界
悪役令嬢の断罪イベントも終わり、無事にエンディングを迎えたのだろう…
主人公と王子の幸せそうな笑顔で…
でも転生者であるモブは思う
きっとこのまま幸福なまま終わる筈がないと…
悪役令嬢はモブ化した
F.conoe
ファンタジー
乙女ゲーム? なにそれ食べ物? な悪役令嬢、普通にシナリオ負けして退場しました。
しかし貴族令嬢としてダメの烙印をおされた卒業パーティーで、彼女は本当の自分を取り戻す!
領地改革にいそしむ充実した日々のその裏で、乙女ゲームは着々と進行していくのである。
「……なんなのこれは。意味がわからないわ」
乙女ゲームのシナリオはこわい。
*注*誰にも前世の記憶はありません。
ざまぁが地味だと思っていましたが、オーバーキルだという意見もあるので、優しい結末を期待してる人は読まない方が良さげ。
性格悪いけど自覚がなくて自分を優しいと思っている乙女ゲームヒロインの心理描写と因果応報がメインテーマ(番外編で登場)なので、叩かれようがざまぁ改変して救う気はない。
作者の趣味100%でダンジョンが出ました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる