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能く生きる
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西武線から中央線への乗換駅の国分寺駅で、空木は、長谷辺兄弟の立川のマンションの住所と、弟の稔の電話番号を知るために、先崎文恵に電話をした。
空木の「稔さんに直接会って、確かめたい事がある」という説明に、文恵は深く理由を聞くことは無く、空木にその住所と携帯の番号を伝えた。
空木は、国立駅を乗り越し、立川駅で下車し曙町の長谷辺兄弟のマンション、今は弟の稔一人だけが住むマンションに向かった。十分程歩き、目指すマンションに着くと、空木はそこから稔の携帯に電話を掛けた。呼び出しのコールがしばらく続いた。稔にとっては初めて見る番号表示に、躊躇しているのだろうか、と空木が思っていると「もしもし‥‥」と言う稔の声がした。
「空木です。突然電話して申し訳ありませんが、今マンションの入口にいます。お会いしたいのですが、宜しいですか」
「空木さん‥‥マンションの下まで来ていると言うことですか」
「そうです。少しお話ししたいことがあるんですが、今すぐには会えませんか」
「いえ‥‥大丈夫なんですが、部屋は汚いので、外でお願いします」
「ありがとうございます。それでしたらすぐ近くの昭和記念公園にでも行って話しましょう」
マンションから歩いて五分程のところに、国営の昭和記念公園があり、二人はその公園で話すことにした。日曜日の公園は、家族連れが多かったが、空模様が怪しくなってきたこの時間は、その数は少なくなっていた。二人は、公園の入口から入って直ぐのベンチに座った。
「長谷辺さん、実は今日私は、奥秩父署で浜寺の取調べを聞かせてもらいました。‥‥率直に私の推理を言いますが、浜寺にナイフで刺されたお兄さんを、最初に見つけたのは、私たちではなく、稔さんあなたですね」
「‥‥‥」稔は、どんよりとした空を黙って見上げていた。
「その時のお兄さんは、仰向けで腹部にナイフが刺さった状態だった。私がお兄さんを発見した時は、俯せだったのに、あなたは昨日、仰向けに倒れていたと言われた。今日の浜寺も刺した時は、仰向けだったと供述していました。あなたには、仰向けでナイフが刺さった状態のお兄さんが、目に焼き付いていたんですね。そのお兄さんが、俯せだったということは、そこで何かが起こったんです。何があったんですか。話していただけませんか」
「‥‥‥」稔は依然として黙ったままだった。
二人の前を家族連れが駅に向かって歩いて行った。
二人の男が深刻な面持ちで並んで座っている姿は、通る人にはどう映っているのだろう。
「これは、想像したくない私の推理です。お兄さんに刺さったナイフを抜いたあなたは、そのナイフでお兄さんをまた刺してしまった。そして、そのナイフを何処かに隠したのではないですか。その隠したナイフを取りに行ったのが、二度目の雁坂峠だったのではないですか。‥‥何故お兄さんを刺してしまったんですか。あなたにとっては、大事な、大事な存在のお兄さんだった筈です」
空木は、稔の方に体を向け、俯いて黙って聞いている稔が、口を開くのを待った。
ポツリと雨粒が地面に落ちて小さな黒いしみを作った。空木は掌をかざして「降って来ましたね」と言った。
「‥‥兄は、私にとって絶対の存在でした。兄には色んな面で頭が上がりませんでした。何をするのにも兄の許可がなければ、何も出来ず、自由な事は出来ませんでした。自分はそう思っていました。兄がいなければ自由になれると‥‥、あの瞬間に‥‥」
「発作的に刺してしまったということですか」
頷く稔の体は小刻みに震えた。
「お兄さんは、その時はまだ息はあったんですか」
「仰向けだった兄は、私が声を掛けると、呻きながら上体を起こして立ち上がりました。私は兄の体からナイフを抜いて、兄の体を支えたんです。その瞬間、右手に持ったナイフで兄の腹を刺していました。私のことをずっと支えてくれた兄を刺していました」
稔は、涙を流し嗚咽が漏れた。雨はまだポツリポツリだったが、その間隔は少しずつ短くなっているようだった。
「刺したナイフはどうしたんですか‥‥」
「小屋の土間の床下に隠して、二週間後に取りに行って、下りの山中で捨てました」
「刺してしまった後、我に返ってナイフの始末に困ったんですね」
稔は頷いた。
「岡部さんと一緒に、私に相談に来たのは、捜査の状況を探るためだったのですか」
稔は、また頷き、顔を上げた。
「私の所にも、警察が来て捜査が、ナイフがどうなっているのか気になって‥‥。空木さんに会ったその週末に、雁坂小屋に行ってナイフを始末しました。空木さんを利用しました。申し訳ありませんでした」
「‥‥長谷辺さん一緒に警察に行きましょう」空木は、まだ本降りにはなっていない空を見上げて言った。
「‥‥空木さんにお願いがあります。先崎さんに渡して欲しいものがあるのですが、部屋まで一緒に来ていただけませんか」
空木は、稔と共に曙町のマンションまで戻った。
部屋から出てきた稔は、大きめの茶色の封筒を持っていた。
「これを先崎さんに渡していただけませんか。中には兄の日記が入っています。実家の母から先崎さんに渡して欲しいと頼まれたんですが、渡しそびれてしまいました。先崎さんの住所も分からないので、空木さんにお願いしたいんです。それと‥‥警察には私一人で行きますから、空木さんとはここでお別れさせて下さい。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
稔は、深々と頭を下げた。顔を上げたその眼は、空木が昨日塩山駅のベンチで見た眼と同じだった。
「長谷辺さん、今のあなたを一人には出来ません。私には、あなたは警察に行くのではなく、お兄さんのところに行くつもりのように思えてなりません」
「‥‥‥」
「少しだけ私の話を聞いてくれませんか」
「‥‥‥」
「私には好きな言葉があります。「能く生きる」という言葉なんです。この言葉は、今の自分の境遇に、嘆くことなく、他人を羨むことも恨むこともせず、与えられた境遇の中で精一杯努力し、生きようとすることを意味していると思っています。そういう人間が私は好きですし、そういう人間に少しでもなれるように努力しようと思っています。人間は必ず失敗します。取り返しのつかない罪を犯す人間もいるでしょう。でもその失敗に挫けず、犯した罪に気付き、償いの道を探し求めてもがく姿が『能く生きる』姿だと思うんです。あなたは大きな罪を犯しました。それは事実です。でも、もし自ら命を絶つような事をすれば、あなたはさらに大きな罪を犯すことになるんですよ。お兄さんを失ったお母さんの悲しみを、私は目の当たりにして涙しました。あなたもその目で見ましたね。その上に、あなたを失うことはお母さんにとってどれ程辛いことか、死ぬより辛いのではないですか。償いの道を歩み続ける勇気を持って下さい。‥‥一緒に警察に行きましょう」
「‥‥兄の日記の最後を、昨日雁坂峠から帰って来て初めて読みました。私はとんでもない事をしてしまったんです。あの峠で‥‥」
稔は、膝を床に落として泣いた。マンションの住人が二人を見たら、さぞ驚くだろうと空木は思いながら、静かに稔を抱きかかえた。
「苦しむことが償いのスタートです。生きる事が償いの道です。行きましょう」
雨は本降りになって二人を濡らした。
鬱々とした空模様が続いた。空木が久し振りに平寿司の暖簾をくぐったのは、長谷辺稔の出頭に同行して一週間ほど経った土曜日だった。
「いらっしゃいませ、空木さん久し振りね」の女将の声に迎えられて、店に入った空木を、石山田と常連の小谷原が迎え、更には小谷原の部下である岡部綾と、空木の後輩の乗倉、そして先崎文恵が小上がりとカウンターにそれぞれ座って迎えた。誰かの声掛けで集まったのか、偶然なのか分からなかったが、空木の気分は、幾分軽くなった。
稔が出頭した翌日、先崎文恵に渡して欲しいと頼まれた封筒を渡した時、封筒には日記だけではなく、稔から文恵への謝罪の手紙も入っていることを空木は知った。その手紙を読んだ文恵のショックは、傍らにいた空木にも、まるで雷が落ちたかのように伝わって来た。空木は、文恵の許しを得て日記の最後のページを見た。それは五月二十一日金曜日の日付で、こう書いていた。「稔とも色々あったが、これからも応援してやるつもりだ」と。稔はこれを読んだに違いないと空木は確信した。もっと早く、兄の保の想いが稔に伝わっていれば、悲劇は起こらなかったと思うと、空木の胸は苦しかった。家族同士の心の通い合いは、他人同士のそれよりも難しいものなのかも知れないと思うと、言葉の大切さを改めて思う空木だった。
そんな思いを、何日間か抱きながら過ごしていると、気分は重くなるばかりで、空模様がそれに一層拍車を掛けた。そんなところに、石山田と小谷原から別々に誘いの電話を貰って、やって来たのが今日の平寿司だった。
「こんなに集まるとは、珍しいこともあるんだな」そう言いながら、カウンターの石山田と小谷原の間に空木が座ると、石山田が「事件が解決したんで、俺は健ちゃんへの慰労だよ。但し割り勘だ」と言い、小谷原は「私は、岡部の付き添いで来たけど、空木さんの活躍を聞いて、石山田さんと一緒に慰労の方に参加するよ、割り勘でね」と言って笑った。
「小谷原所長に、空木さんへの連絡をお願いしたのは私です。先崎さんが会社を辞めて山形へ帰るそうなので、送別会ということで乗倉さんにも声をかけて、ついでに空木さんも、と思って所長に頼んだんです。空木さんは、所長からの誘いの方が来てもらい易いと思って頼んだんですけど、送別会に参加ということで、先崎さんの分の割り勘には入ってもらいますから宜しくお願いします」小上がりに座っている岡部綾は、そう言うとケラケラと笑った。
「ついでですか」と返す空木も、笑った。
岡部綾の隣の乗倉も、声を上げて笑い「空木さんの探偵としての仕事ぶりに驚きました。格好いいです。僕も会社を辞めたら、空木さんと一緒に探偵をやることにします」
「ノリ、馬鹿な事を言うな。興味本位でやる仕事じゃないぞ。年収はMRの二割そこそこに激減だぞ。頑張ってMRしていた方が良い。そんな事より、先崎さん、山形へ帰ることにしたんですか。ご両親も喜んでいるでしょ」
「さあどうでしょう。親は帰って来いとは言っていなかったんですが、私が、父母の側に居たいと思って、帰ることにしたんです。静岡で彼のお母さんにお会いしてからずっと考えていたことですが、やっと決心がつきました。空木さんにはお世話になりました」
先崎文恵は、小上がりに座ったまま体を折った。
そこで小谷原が、この場での一番の年長ということで皆の指名を受け、乾杯の発声をして、飲み始めた。
石山田は、空木の隣で空木の芋焼酎ボトルで作った水割りを飲み始めた。
「浜寺は、倉渕からストーカーの件で脅され、さらに長谷辺殺しでも脅されていた。健ちゃんの推理通りだった。改めて乾杯だ」石山田はそう言うと、水割りグラスを空木のビールグラスに合わせた。
「巌ちゃん、俺たち人間という生き物は、欲望をコントロールすることが出来ないんだろうか」
「また唐突だね。それはきっと難しい事なんだな。だから世の中から事件も無くならない。金銭欲、出世欲、独占欲、欲は限りなくある。俺もビールを飲んだら、次は焼酎を飲みたくなる。これも欲のコントロールが出来ないという事だろ」
「人を恨んだり、妬んだりするのも、その根っこにあるのは欲だと思うんだ。焼酎を飲みたいということとは、ちょっと違うような気がする。恨まない、妬まない、僻まない、他人を思いやる心を皆が持てば、不幸な出来事は無くなると思うけど‥‥」
「空木さん、欲があるから世の中、進歩もしてきたとも言えるんじゃないかな」二人の話を聞いていた小谷原が言った。
「それはそうかも知れませんが‥‥」空木は、ビールグラスを空にした。
その時、店員の坂井良子が、小上がりに座っている先崎文恵に料理を出しながら、「よぐござったなっす」と言った。驚いた文恵が、「山形の出身ですか」と聞くと、良子は即座に「んだ」と返した。
「先崎さん、良子ちゃんも山形が実家なんです」空木が後ろから、口を挿んだ。
「私は、山形市の十日町ですけど、先崎さんはどちらですか」
「え、十日町なんですか。私は八日町です。隣町ですね、なんか嬉しい」
「山形に帰ったら、七日町の鳥鍋の『おまつ』というお店に行って見て下さい。私の叔母さんがやっているお店で、美味しいんですよ」
「あー、俺も行きたい。『おまつ』の鳥たたき鍋、久し振りに食べたい。『三津屋』の板蕎麦も食べたいな」
「空木さん、良子ちゃんと一緒に山形に来てくださいよ。『おまつ』も『三津屋』も行きましょう」
「健ちゃん、良子ちゃんと一緒に行ったら、もう帰って来ないんじゃないのか」
「冗談じゃないよ。良子ちゃんが嫌がるよ」
空木は、照れたように慌てて焼酎の水割りを口に運んだ。
「さすけねぇ」と良子が言うと、文恵が「うわー、空木さん良かったですね」と囃した。
聞いていた石山田と小谷原が声を合わせたように、「さすけねぇってどういうこと」と文恵に聞いた。
「差し支えない、大丈夫、という意味の山形弁です」文恵が答えると、空木の顔はみるみる真っ赤になった。
声を上げて笑う文恵を見て、空木はホッとするのと同時に、能く生きてほしい、素晴らしい人生を作り上げてほしい、二度と辛い目に遭って欲しくないと心から願った。
了
空木の「稔さんに直接会って、確かめたい事がある」という説明に、文恵は深く理由を聞くことは無く、空木にその住所と携帯の番号を伝えた。
空木は、国立駅を乗り越し、立川駅で下車し曙町の長谷辺兄弟のマンション、今は弟の稔一人だけが住むマンションに向かった。十分程歩き、目指すマンションに着くと、空木はそこから稔の携帯に電話を掛けた。呼び出しのコールがしばらく続いた。稔にとっては初めて見る番号表示に、躊躇しているのだろうか、と空木が思っていると「もしもし‥‥」と言う稔の声がした。
「空木です。突然電話して申し訳ありませんが、今マンションの入口にいます。お会いしたいのですが、宜しいですか」
「空木さん‥‥マンションの下まで来ていると言うことですか」
「そうです。少しお話ししたいことがあるんですが、今すぐには会えませんか」
「いえ‥‥大丈夫なんですが、部屋は汚いので、外でお願いします」
「ありがとうございます。それでしたらすぐ近くの昭和記念公園にでも行って話しましょう」
マンションから歩いて五分程のところに、国営の昭和記念公園があり、二人はその公園で話すことにした。日曜日の公園は、家族連れが多かったが、空模様が怪しくなってきたこの時間は、その数は少なくなっていた。二人は、公園の入口から入って直ぐのベンチに座った。
「長谷辺さん、実は今日私は、奥秩父署で浜寺の取調べを聞かせてもらいました。‥‥率直に私の推理を言いますが、浜寺にナイフで刺されたお兄さんを、最初に見つけたのは、私たちではなく、稔さんあなたですね」
「‥‥‥」稔は、どんよりとした空を黙って見上げていた。
「その時のお兄さんは、仰向けで腹部にナイフが刺さった状態だった。私がお兄さんを発見した時は、俯せだったのに、あなたは昨日、仰向けに倒れていたと言われた。今日の浜寺も刺した時は、仰向けだったと供述していました。あなたには、仰向けでナイフが刺さった状態のお兄さんが、目に焼き付いていたんですね。そのお兄さんが、俯せだったということは、そこで何かが起こったんです。何があったんですか。話していただけませんか」
「‥‥‥」稔は依然として黙ったままだった。
二人の前を家族連れが駅に向かって歩いて行った。
二人の男が深刻な面持ちで並んで座っている姿は、通る人にはどう映っているのだろう。
「これは、想像したくない私の推理です。お兄さんに刺さったナイフを抜いたあなたは、そのナイフでお兄さんをまた刺してしまった。そして、そのナイフを何処かに隠したのではないですか。その隠したナイフを取りに行ったのが、二度目の雁坂峠だったのではないですか。‥‥何故お兄さんを刺してしまったんですか。あなたにとっては、大事な、大事な存在のお兄さんだった筈です」
空木は、稔の方に体を向け、俯いて黙って聞いている稔が、口を開くのを待った。
ポツリと雨粒が地面に落ちて小さな黒いしみを作った。空木は掌をかざして「降って来ましたね」と言った。
「‥‥兄は、私にとって絶対の存在でした。兄には色んな面で頭が上がりませんでした。何をするのにも兄の許可がなければ、何も出来ず、自由な事は出来ませんでした。自分はそう思っていました。兄がいなければ自由になれると‥‥、あの瞬間に‥‥」
「発作的に刺してしまったということですか」
頷く稔の体は小刻みに震えた。
「お兄さんは、その時はまだ息はあったんですか」
「仰向けだった兄は、私が声を掛けると、呻きながら上体を起こして立ち上がりました。私は兄の体からナイフを抜いて、兄の体を支えたんです。その瞬間、右手に持ったナイフで兄の腹を刺していました。私のことをずっと支えてくれた兄を刺していました」
稔は、涙を流し嗚咽が漏れた。雨はまだポツリポツリだったが、その間隔は少しずつ短くなっているようだった。
「刺したナイフはどうしたんですか‥‥」
「小屋の土間の床下に隠して、二週間後に取りに行って、下りの山中で捨てました」
「刺してしまった後、我に返ってナイフの始末に困ったんですね」
稔は頷いた。
「岡部さんと一緒に、私に相談に来たのは、捜査の状況を探るためだったのですか」
稔は、また頷き、顔を上げた。
「私の所にも、警察が来て捜査が、ナイフがどうなっているのか気になって‥‥。空木さんに会ったその週末に、雁坂小屋に行ってナイフを始末しました。空木さんを利用しました。申し訳ありませんでした」
「‥‥長谷辺さん一緒に警察に行きましょう」空木は、まだ本降りにはなっていない空を見上げて言った。
「‥‥空木さんにお願いがあります。先崎さんに渡して欲しいものがあるのですが、部屋まで一緒に来ていただけませんか」
空木は、稔と共に曙町のマンションまで戻った。
部屋から出てきた稔は、大きめの茶色の封筒を持っていた。
「これを先崎さんに渡していただけませんか。中には兄の日記が入っています。実家の母から先崎さんに渡して欲しいと頼まれたんですが、渡しそびれてしまいました。先崎さんの住所も分からないので、空木さんにお願いしたいんです。それと‥‥警察には私一人で行きますから、空木さんとはここでお別れさせて下さい。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
稔は、深々と頭を下げた。顔を上げたその眼は、空木が昨日塩山駅のベンチで見た眼と同じだった。
「長谷辺さん、今のあなたを一人には出来ません。私には、あなたは警察に行くのではなく、お兄さんのところに行くつもりのように思えてなりません」
「‥‥‥」
「少しだけ私の話を聞いてくれませんか」
「‥‥‥」
「私には好きな言葉があります。「能く生きる」という言葉なんです。この言葉は、今の自分の境遇に、嘆くことなく、他人を羨むことも恨むこともせず、与えられた境遇の中で精一杯努力し、生きようとすることを意味していると思っています。そういう人間が私は好きですし、そういう人間に少しでもなれるように努力しようと思っています。人間は必ず失敗します。取り返しのつかない罪を犯す人間もいるでしょう。でもその失敗に挫けず、犯した罪に気付き、償いの道を探し求めてもがく姿が『能く生きる』姿だと思うんです。あなたは大きな罪を犯しました。それは事実です。でも、もし自ら命を絶つような事をすれば、あなたはさらに大きな罪を犯すことになるんですよ。お兄さんを失ったお母さんの悲しみを、私は目の当たりにして涙しました。あなたもその目で見ましたね。その上に、あなたを失うことはお母さんにとってどれ程辛いことか、死ぬより辛いのではないですか。償いの道を歩み続ける勇気を持って下さい。‥‥一緒に警察に行きましょう」
「‥‥兄の日記の最後を、昨日雁坂峠から帰って来て初めて読みました。私はとんでもない事をしてしまったんです。あの峠で‥‥」
稔は、膝を床に落として泣いた。マンションの住人が二人を見たら、さぞ驚くだろうと空木は思いながら、静かに稔を抱きかかえた。
「苦しむことが償いのスタートです。生きる事が償いの道です。行きましょう」
雨は本降りになって二人を濡らした。
鬱々とした空模様が続いた。空木が久し振りに平寿司の暖簾をくぐったのは、長谷辺稔の出頭に同行して一週間ほど経った土曜日だった。
「いらっしゃいませ、空木さん久し振りね」の女将の声に迎えられて、店に入った空木を、石山田と常連の小谷原が迎え、更には小谷原の部下である岡部綾と、空木の後輩の乗倉、そして先崎文恵が小上がりとカウンターにそれぞれ座って迎えた。誰かの声掛けで集まったのか、偶然なのか分からなかったが、空木の気分は、幾分軽くなった。
稔が出頭した翌日、先崎文恵に渡して欲しいと頼まれた封筒を渡した時、封筒には日記だけではなく、稔から文恵への謝罪の手紙も入っていることを空木は知った。その手紙を読んだ文恵のショックは、傍らにいた空木にも、まるで雷が落ちたかのように伝わって来た。空木は、文恵の許しを得て日記の最後のページを見た。それは五月二十一日金曜日の日付で、こう書いていた。「稔とも色々あったが、これからも応援してやるつもりだ」と。稔はこれを読んだに違いないと空木は確信した。もっと早く、兄の保の想いが稔に伝わっていれば、悲劇は起こらなかったと思うと、空木の胸は苦しかった。家族同士の心の通い合いは、他人同士のそれよりも難しいものなのかも知れないと思うと、言葉の大切さを改めて思う空木だった。
そんな思いを、何日間か抱きながら過ごしていると、気分は重くなるばかりで、空模様がそれに一層拍車を掛けた。そんなところに、石山田と小谷原から別々に誘いの電話を貰って、やって来たのが今日の平寿司だった。
「こんなに集まるとは、珍しいこともあるんだな」そう言いながら、カウンターの石山田と小谷原の間に空木が座ると、石山田が「事件が解決したんで、俺は健ちゃんへの慰労だよ。但し割り勘だ」と言い、小谷原は「私は、岡部の付き添いで来たけど、空木さんの活躍を聞いて、石山田さんと一緒に慰労の方に参加するよ、割り勘でね」と言って笑った。
「小谷原所長に、空木さんへの連絡をお願いしたのは私です。先崎さんが会社を辞めて山形へ帰るそうなので、送別会ということで乗倉さんにも声をかけて、ついでに空木さんも、と思って所長に頼んだんです。空木さんは、所長からの誘いの方が来てもらい易いと思って頼んだんですけど、送別会に参加ということで、先崎さんの分の割り勘には入ってもらいますから宜しくお願いします」小上がりに座っている岡部綾は、そう言うとケラケラと笑った。
「ついでですか」と返す空木も、笑った。
岡部綾の隣の乗倉も、声を上げて笑い「空木さんの探偵としての仕事ぶりに驚きました。格好いいです。僕も会社を辞めたら、空木さんと一緒に探偵をやることにします」
「ノリ、馬鹿な事を言うな。興味本位でやる仕事じゃないぞ。年収はMRの二割そこそこに激減だぞ。頑張ってMRしていた方が良い。そんな事より、先崎さん、山形へ帰ることにしたんですか。ご両親も喜んでいるでしょ」
「さあどうでしょう。親は帰って来いとは言っていなかったんですが、私が、父母の側に居たいと思って、帰ることにしたんです。静岡で彼のお母さんにお会いしてからずっと考えていたことですが、やっと決心がつきました。空木さんにはお世話になりました」
先崎文恵は、小上がりに座ったまま体を折った。
そこで小谷原が、この場での一番の年長ということで皆の指名を受け、乾杯の発声をして、飲み始めた。
石山田は、空木の隣で空木の芋焼酎ボトルで作った水割りを飲み始めた。
「浜寺は、倉渕からストーカーの件で脅され、さらに長谷辺殺しでも脅されていた。健ちゃんの推理通りだった。改めて乾杯だ」石山田はそう言うと、水割りグラスを空木のビールグラスに合わせた。
「巌ちゃん、俺たち人間という生き物は、欲望をコントロールすることが出来ないんだろうか」
「また唐突だね。それはきっと難しい事なんだな。だから世の中から事件も無くならない。金銭欲、出世欲、独占欲、欲は限りなくある。俺もビールを飲んだら、次は焼酎を飲みたくなる。これも欲のコントロールが出来ないという事だろ」
「人を恨んだり、妬んだりするのも、その根っこにあるのは欲だと思うんだ。焼酎を飲みたいということとは、ちょっと違うような気がする。恨まない、妬まない、僻まない、他人を思いやる心を皆が持てば、不幸な出来事は無くなると思うけど‥‥」
「空木さん、欲があるから世の中、進歩もしてきたとも言えるんじゃないかな」二人の話を聞いていた小谷原が言った。
「それはそうかも知れませんが‥‥」空木は、ビールグラスを空にした。
その時、店員の坂井良子が、小上がりに座っている先崎文恵に料理を出しながら、「よぐござったなっす」と言った。驚いた文恵が、「山形の出身ですか」と聞くと、良子は即座に「んだ」と返した。
「先崎さん、良子ちゃんも山形が実家なんです」空木が後ろから、口を挿んだ。
「私は、山形市の十日町ですけど、先崎さんはどちらですか」
「え、十日町なんですか。私は八日町です。隣町ですね、なんか嬉しい」
「山形に帰ったら、七日町の鳥鍋の『おまつ』というお店に行って見て下さい。私の叔母さんがやっているお店で、美味しいんですよ」
「あー、俺も行きたい。『おまつ』の鳥たたき鍋、久し振りに食べたい。『三津屋』の板蕎麦も食べたいな」
「空木さん、良子ちゃんと一緒に山形に来てくださいよ。『おまつ』も『三津屋』も行きましょう」
「健ちゃん、良子ちゃんと一緒に行ったら、もう帰って来ないんじゃないのか」
「冗談じゃないよ。良子ちゃんが嫌がるよ」
空木は、照れたように慌てて焼酎の水割りを口に運んだ。
「さすけねぇ」と良子が言うと、文恵が「うわー、空木さん良かったですね」と囃した。
聞いていた石山田と小谷原が声を合わせたように、「さすけねぇってどういうこと」と文恵に聞いた。
「差し支えない、大丈夫、という意味の山形弁です」文恵が答えると、空木の顔はみるみる真っ赤になった。
声を上げて笑う文恵を見て、空木はホッとするのと同時に、能く生きてほしい、素晴らしい人生を作り上げてほしい、二度と辛い目に遭って欲しくないと心から願った。
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