狂情の峠

聖岳郎

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空木の推理

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 空木が浜寺に会うことが出来たのは、先崎文恵に依頼してから三日経った木曜日の午前だった。
 空木は、ジャケットの胸ポケットに小型のボイスレコーダーを忍ばせて、立川駅近くのコーヒーショップで浜寺と面会した。
 浜寺との面会の段取りを組んでくれた先崎文恵も同席を希望したが、空木は断った。先崎が同席していると、空木にとっては話し難いことがあった。
 名刺交換をした浜寺が、空木の名刺をテーブルの上に置いた。
 「先崎さんの知り合いの探偵さんとお聞きしましたが、先崎さんとはどういう関係なんですか」
 空木は、浜寺の刺すような視線に、探偵という職業に向けられた敵意のようなものではない、異様な印象を受けた。
 「先崎さんとは、先月亡くなられた大和薬品工業の長谷辺さんを介しての知り合いで、山歩会という、ある病院の山好きな人たちの集まりの会を介してのお付き合いです」
 浜寺は、空木の説明を睨みながら聞いていた。
 「‥‥空木さんも、山が趣味なのですか」
「そうなんです。それと私は、前職は皆さんと同業のMRで、万永製薬に勤めていました」
「はあ、‥‥それで私に、その山歩会の事でお聞きになりたい事があるという事ですが、一体どんな事でしょう」
「浜寺さん、あなたは四月の第三土曜日に、奥多摩の御前山に登られて、山歩会の方たちにあったそうですね」
「はい、会いましたが、それがどうかしたんでしょうか」
「その御前山で、山歩会のメンバーの一人が、ザックに水を掛けられるという嫌がらせを受けました。集合写真を撮っている間に掛けられたんですが、その集合写真がこれです」
 空木は、用意していた岡部綾から送信された、山歩会のメンバー四人が御前山と書かれた石塔の前で撮った集合写真を、浜寺の前に置いた。浜寺は、置かれた写真を手には取らず、眺めるように見ただけだった。
 「あなたは、偶然、山で出会ったと言われたそうですが、山歩会のメンバーが、あの日御前山に登ることを知って登ったのではないんですか」
 浜寺は、首を横にかしげた。
 「山歩会の方たちが登ることは知りませんでした。私は、先崎さんが御前山という山名を電話で話しているのが偶然聞こえて、久し振りに登ろうと思っただけですから、山歩会の人たちとは偶然出会いました」
 空木は頷きながら、バッグからもう一枚の写真を取り出し、浜寺の前に置いた。それは、集合写真の左端に写り込んでいる男性を拡大した写真だった。
 「ここに写っているサングラスを掛けたハイカーは、浜寺さんあなたですよね」
 空木は、疑問形ではなく、断言した。浜寺は、今度は手に取って写真を見た。
 「‥‥私の様です。たまたま写り込んでしまったんですね」
「ズバリお聞きします。この時あなたは、山歩会のメンバーのザックに水を掛けて立ち去るところだったのではありませんか。サングラスを掛けているのは、あなたの心に幾ばくかのやましさがあって、それを隠すためではなかったのですか」
 浜寺の目が鋭く空木を睨み、眉間に皺を寄せた。
 「あなたは何を言っているんですか。私がそんな事をする理由がどこにあるんですか。私は下山しようとして、たまたまあそこを通りかかっただけです。いい加減な事を言わないで下さい」
 浜寺の言葉には怒りがこもっていた。空木は、怒りがこもったその言葉の変化に、自分の推理が、確信に近付いていくのを感じていた。
 「失礼なことを訊いたついでに、もう一つ伺います。五月二十二日土曜日、浜寺さんあなたは、雁坂峠と水晶山の間で、私と私の同行者とすれ違いましたね。その時は、サングラスに加えてマスクもしていました」
 眉間に皺が寄ったまま、浜寺の顔はみるみる紅潮していった。
 「空木さん、突然また何を言い出すんですか。雁坂峠というのは、日本三大峠の一つの奥秩父の峠ですよね。私も通ったことはありますが、五月二十二日は行っていませんよ」
「私はあの日、同行者とともに、雁峠から雁坂峠に向けて歩き、雁坂峠で長谷辺さんの死体を発見しました。その途中ですれ違った登山者が、この写真の男、つまりあなたによく似ていました。その男が長谷辺さんに何があったのか、知っているのではないかと思っています。私は、御前山の嫌がらせから長谷辺さんの殺害までは、繋がっているのではないかと考えています。‥‥あなたに心当たりはありませんか」
 空木は、容姿をはっきり記憶している訳ではなかったが、サングラスとデウテル社製のザックを拠り所に、イチかバチか鎌をかけてみた。そして浜寺の様子の変化を窺った。
 浜寺は、薄ら笑いを浮かべて首を傾げた。
 「驚きました、死体を発見されたんですか。あなたが一体何を言いたいのか分かりませんが、私はその日は雲取山から飛竜山ひりゅうさん辺りを歩いていましたから、すれ違おうにもすれ違える筈がありません。空木さんも、あの辺りの山の位置関係は良くご存知でしょうから分かりますよね」
「‥‥ということは、前日は雲取山荘に泊まっていたんですか」
 空木は奥秩父署の仲澤から、既に浜寺が、雲取山の避難小屋に泊まっていたという話は聞いていたが、初めて聞く素振りで聞いた。
 「いえ、雲取山荘ではなくて避難小屋に泊まったんですよ」
「浜寺さんのような山慣れた人の足なら、雲取山の避難小屋から雁坂峠まで夜通し歩けるのではありませんか」
「馬鹿な事は言わないで下さい。雲取山から雁坂峠までは、日中でも十一時間は掛かります。夜道を休まずに歩いて、昼までに雁坂峠に着くなんて、トレールランニングのプロなら兎も角、私のようなアマチュアには不可能です。私はその日、飛竜山から丹波たばのバス停へ下りて帰宅しました」
「丹波の最終バスは、確か六時過ぎだったと思いますが、それに乗ったんですか」
「そうです。空木さんも乗られたことがあるんですか。さすがに良くご存知ですね」
「それ程でもありませんよ」照れる場面ではないと思いつつ、空木は頭に手をやってしまったが、浜寺から目を離しはしなかった。
 浜寺の話を聞いた空木は、自分の推理が一層確信に近付いたことを感じた。
 「ところで浜寺さんは、長谷辺さんが殺害された時間をご存知なんですか」
「‥‥‥ニュースで知りました。‥‥あなたは一体何のために私に会いに来たんですか。山歩会の件で会いに来たんですよね。私も仕事がありますから、そろそろ失礼させて下さい」
 浜寺の動揺が、空木にとっては揺るがない確信となった。

 コーヒーショップを出た空木には、大きな確信とともに、ある一つの大きな疑問が残っていた。それは、浜寺が長谷辺を殺害する動機が全く思い浮かんでこないことだった。嫌がらせに止まらず、殺人に及ぶというのは、尋常では考えられない事だ。
 浜寺は、長谷辺が医薬品卸の出入口で、雁坂峠に単独で登る話を聞いて、殺害することを計画した。
 空木が奥秩父署で確認した、五月二十一日金曜日の朝の山梨市駅の構内カメラの画像に写っている男が、浜寺だとしたら、浜寺は西沢渓谷から、宿泊記録が残らず、人に会う可能性も低い笹平の避難小屋に宿泊した。そして翌日、雁坂峠で登って来る長谷辺を待ち伏せして殺害した。下山は、やはり登山者に会うことがほとんど無い雁峠へのルートを選んだが、運悪く自分と乗倉の二人に出会ってしまった。慌ててサングラスとマスクをして挨拶もせずにすれ違って行った。
 こういう事ではないかと推理を立てたが、物的証拠は無い、そして何よりも、肝心な動機が浮かんでこない。
 今日の浜寺の嘘は、ボイスレコーダーに記録されている。五月二十二日土曜日の、丹波たばから奥多摩駅行きの最終バスには、雁峠の避難小屋で一緒だった青年しか乗っていなかった筈だ。それは奥秩父署が確認している。浜寺は空木がそれを知らないと思い、堂々と嘘を言ったのだ。
 空木は、奥秩父署に自分の推理を伝え、後は警察の捜査に託すしかないと思った時、背後から「空木さん」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと先崎文恵が立っていた。
「先崎さん‥‥」
「‥‥お二人の話が終わるのを待っていました。空木さんに伺いたいことがあるのですが、時間は大丈夫ですか」
 空木は時計に目をやった。時間は午前十一時を回ったところだった。
 二人は、別のコーヒーショップに入ることにして、駅近くまで移動した。
 その店は比較的空いていた。
 「空木さん、御前山の写真に写っていたのは、浜寺さんだったのですか」
 先崎文恵はアイスコーヒーのストローを口に入れた。その眼は、嘘は言わせないと言わんばかりの、先崎には不釣り合いの鋭い眼差しだった。空木は、先崎文恵の覚悟のようなものを感じた。
 「はい、本人が認めました」
「‥‥浜寺さんは、私に嘘をついた事になります。あの日浜寺さんは、私に先に下りると言って山頂から下りて行った筈なんです。何故あそこに写っていたんでしょう。空木さんはどう思いますか」
 文恵の眼が、一層鋭さを増したように思えた。
 「私は足立先生のザックに水を掛けたのは、浜寺さんだと思っています。水を掛けた後、あそこに偶然写り込んでしまったと思います。勿論、本人は否定しましたが‥‥」
「否定した‥‥。空木さんは、浜寺さんに直接聞いたのですか」
「どんな反応をするのか見たかったのですが、予想通りの反応でした。私の目的は、別の事の確認をしたかったのですが、それも認めませんでした」
「別の事ですか‥‥」
 空木は文恵には、長谷辺が殺害された雁坂峠近くで、犯行直後の時間にすれ違ったサングラスの男に、浜寺が似ていると思っていて、それを確認したかったとは言えなかった。そんな事を話せば、同じ会社で机を並べている文恵は、どんな思いになるだろうか、結婚を約束した長谷辺を、もしかしたら殺したかも知れない男が横にいると考えたら、どんな思いになるだろうか。そう思う空木の口からはそれは話せなかった。
 「先崎さんには、お話しすべきではないかも知れませんが、浜寺さんが水を掛けようとしたのは、足立さんではなく、長谷辺さんのザックを狙ったのではないか、ということを確認したかったのです」
 空木は、咄嗟に別の気になっている事を話した。これも立派な別の事だ、嘘ではないと自分に言い聞かせた。
 「長谷辺さんのザックと間違えて掛けた。‥‥長谷辺さんを狙ったという事ですか」
「これは私の単なる推測ですから、気にしないで下さい」
 先崎文恵は、また何かを考え始めているようだった。
 空木は時計を見た。
 「先崎さん、私はそろそろ失礼します。お聞きになりたい事は済みましたか」
考え事をしていた文恵は、「あ、すみません。ありがとうございました」と頭を下げた。

 立川から、事務所兼自宅の部屋に帰った空木は、ベランダに出て煙草に火をつけた。
 梅雨入りして五日目、今日もポツポツ降り始めた空を眺めながら、長谷辺が殺害された事件を改めて推理した。
 長谷辺保は、何らかの理由で犯人から強く恨まれていた。犯人はいつかチャンスがあれば、長谷辺を殺そうと狙っていた。そう思っていた時、長谷辺が雁坂峠へ単独で登ることを知り、殺害を計画した。犯人は車を使ったら、足が付きやすいと考え、公共交通機関を使った。従って長谷辺より早く現場に着くためには、前日からあの山域に入り、長谷辺が登って来るのを待つのが、最良の方法だった。人目に付き難い笹平の避難小屋を知っていた犯人は、そこを利用しようと考えた。そして犯行当日は、予定通り笹平の避難小屋から雁坂峠へ移動し、長谷辺の到着を、峠の北の雁坂小屋へ下る道で待った。そして登って来た長谷辺が、小屋へ下って来るところをナイフで刺した。下山は、雁坂峠からそのまま下って西沢渓谷へ出るか、雁峠がんとうげから新地平しんちだいらへ下るか、長い距離を頑張って奥多摩へ下るか迷っただろうが、西沢渓谷は人目に付きやすい、奥多摩へ下るには、丹波たばの最終バスに間に合わせるのは不可能と判断した。消去法で新地平へのルートを選ばざるを得なかった。凶器のナイフは、途中で捨てたのだろう。あの山深い山中では見つけ出すのは不可能だ。
 犯人の誤算は自分たちに出会ってしまったことだ。自分たちがすれ違ったサングラスとマスクの登山者、デウテル社製のザックを背負っていたあの登山者が、雁坂峠の犯行現場にいた可能性が非常に高い。あの登山者を見つけ出すことが、事件解決の鍵であることは間違いない。その男に今最も近い人物は、浜寺雅行だ。浜寺があの日あの山域に居たとすれば、あの時間帯にあの周辺に居た登山者は、全て特定される筈だ。そしてその登山者たちを、消去法で絞り込めば犯人はただ一人浮かび上がる。

 どの位ベランダにいただろうか、雨は本降りになっていた。部屋に入った空木は、奥秩父署の仲澤に連絡を入れた。
 空木は、今日の午前中に、浜寺に面会した事を話した。
 「空木さん、何のために浜寺さんと会ったんですか。我々の聞き取りはだけでは不十分だと‥‥」
 仲澤の言葉には少し尖った響きがあった。警察のプライドに触れたのだろうか。
 「不十分だなんてとんでもないですよ。仲澤さんから浜寺さんが雲取山へ行っていたと教えていただいたからこそ、会わなければならないと思ったんですから」
 空木は、言い訳とも取り繕いともつかない説明をして、本題に入った。
 山歩会のあるメンバーから、自分のスマホに送られてきた、四月の山歩会での集合写真には、サングラスの男が映り込んでいた。その男が浜寺であることを本人から確認した。本人には伝えていないが、その写真の浜寺はデウテル社製のザックを背負っていた。その写真を送るので、塩山駅のカメラに写っていた登山者と照合して欲しいこと。そして、浜寺のアリバイとなっている雲取山山行の帰りのルートが偽りであり、その嘘はボイスレコーダーに録音してあることを話した。
 「‥‥照合して同一人物だとしたら、浜寺が山に入っていた可能性が極めて高くなる、ということですか。我々に話した雲取山に行っていたというのも嘘だったと‥‥」
「その通りです。それで浜寺にはデウテル社製のザックの話はしていませんから、早めにザックを押えるべきだと思って連絡したんです。私の推測通りだとしたら、浜寺が犯人です」
「浜寺が犯人の可能性は高いでしょうね。しかし空木さん、浜寺が長谷辺を殺害する動機は‥‥」
「それなんです、問題は。そこが分からないのです。浜寺の部屋から、その手掛かりが見つからないかと期待もしているんですが‥‥」
「空木さんは、いずれにしろ家宅捜索が必要だと言うんですね。動機も重要ですが、まずザックを押えて、あの日あの山に入っていたことを認めさせるのが、先決だと‥‥。課長と至急相談しますから、その写真を送って下さい。空木さん連絡ありがとうございました」
 電話を終わろうとしている仲澤の言葉に、空木は少し慌てた。
「ああ、仲澤さん、ちょっと待って下さい。それでお願いなんですが、もし家宅捜索をするとなったら、私も同行させて欲しいんです。捜査の邪魔になるようなことはしませんから、お願いします」
 空木は、浜寺の部屋の中には、長谷辺を殺害する動機の手掛かりがあると踏んでいた。そして、それを自分の眼で確かめたいと思い、仲澤に同行許可を頼んだ。
 「‥‥それも課長と相談します。また連絡します」仲澤はそう言って、今度は電話を切った。

 雨が降っている所為か、陽が落ちたのかどうか分かりにくい。まだ窓の外の家並みが見えるという事は、陽はまだ落ちてはいないのだろうと、空木はぼんやり外を眺め、「今日もまた宅飲みか」と独り言を言った時、スマホが鳴った。画面表示は石山田だった。
 「奥秩父署のガサ入れは、健ちゃんの送った写真の照合結果が出次第やるそうだ」
「なんで巌ちゃんがそれを俺に‥‥」
「それは話せば長くなる。平寿司で話すから、来てくれないか。相談したい事もあるんだ」
 
 空木は、ビニール傘にあたる雨音を聞きながら、国分寺崖線の坂を下り平寿司に向かって歩いていた。
 歩きながら考えた。仲澤に送ったあの写真の照合結果が一致しなかったら、捜索は出来ないのかだろうか。ザックや登山服を調べれば、塩山駅の男が浜寺であることが明らかになると思うのだが‥‥。 
 石山田は既に来ていた。今日はいつものカウンターではなく、小上がりで空木を待っていた。石山田の前にはビールではなく、柄にもなくお茶が置かれていた。
 「巌ちゃん、随分早かったね。ビールも飲まずにどうしたの」
「署の車で送ってもらったんだ。今日は、捜査協力者つまり健ちゃんからの情報収集ということで、捜査経費を使うことを課長が許可してくれたんだ。だから健ちゃんとの話を済ませるまでは、俺は飲めない。健ちゃんは飲んで良いよ」
 そう言われて「じゃあ飲ませてもらう」とは、さすがに空木も言えなかった。
 「そうか、そういうことなら早く話を済ませて飲もう。とは言え、先に何故、巌ちゃんから奥秩父署の家宅捜索の話が出てきたのか、教えてくれよ」
 石山田は、浜寺に聞き取りをした際、浜寺自身から埼玉県警からも聴取を受けていた事を聞き、奥秩父署に確認の電話をしたことを話した。それがきっかけで、空木からの情報を基に家宅捜索となった場合には、国分寺署に協力して欲しい旨を要請して来た。国分寺署の捜査本部としても、浜寺への調べを進めているところで、協力どころか、一緒に捜索に参加させてくれるよう依頼した。その際、空木が家宅捜索への同行を希望しているという話になり、国分寺署から空木に対し、捜索同行の連絡をすることになったと、一連の繋がりを話した。
 「巌ちゃんたちの捜査でも、浜寺に聞き取りをしたんだな」
「そうなんだ。殺された倉渕良介の仕事上の繋がりから浮かんだ人間の一人に、浜寺がいたんだが、その浜寺の住んでいるマンションが、健ちゃんが倉渕を尾行している時に立ち寄ったというマンションだったんだ。偶然かも知れないが、本部としては追ってみるべきという事になったという訳だ」
「えっ、あのマンションに浜寺が住んでいたのか」
 空木は、石山田の話に耳を疑った。そんな偶然があるのだろうか。それが偶然ではなく必然だとしたら、自分が倉渕の後を追った時、倉渕があのマンションに入ったのは、倉渕が浜寺に用件があったと考えるのが普通だろう。
 「それで浜寺は、倉渕を知っていたのか」
「いや全く知らないと言っていた」
「倉渕の仕事上の繋がりというのは、どんな繋がりだったんだ」
「不倫調査だよ。千葉の留守宅に住んでいる奥さんから、四月の半ば位に依頼があって、六月一日付で調査報告書が依頼者である奥さんに渡されている。つまり倉渕は調査員で浜寺は被調査者という繋がりだよ」
「なるほど‥‥それで不倫はしていたのかい」
「いや、報告書の結論は、不倫行為は無いという報告だった。だけど俺が気になっているのは、その結論に付け足されている文言だよ。ストーカー様行為はあったものの、と書かれていた」
「ストーカー様行為‥‥。その相手は分かっているのか」
「いや、報告書には個人名は書かれていないので、現状では全く分からない。明日捜査員が、倉渕と組んで浜寺の調査を担当していた、メトロポリタン調査事務所の調査員に会うことになっているから、何か情報が掴めるかも知れないが‥‥」
「巌ちゃん、浜寺の奥さんは、何故旦那の不倫を疑ったんだ」
「依頼理由は、土曜、日曜に留守宅に帰ってこなくなったらしく、不倫ではないかと疑ったのが依頼の理由で、調査としては土曜、日曜が中心の調査だったようだよ。国分寺から千葉の幕張までなら二時間で帰れることを考えると、奥さんが疑うのも分かるような気がする」
「浜寺は、休日を中心にストーカー様行為をしていた可能性があるということか‥‥」
「健ちゃんの聞きたい事は、この辺りで終わりにして、そろそろ俺の聞きたい話に入るよ。その浜寺の事で聞きたいことがあるんだ」
 石山田はそう言うと、浜寺の聞き取りで、石山田が受けた印象について話を始めた。
 浜寺は、倉渕良介が殺害された六月十二日土曜日は、上高地で二泊三日のテント泊をしていた真ん中の日だったと言っていた。現地での写真もあり、アリバイとしては成立していると思うが、何故かスッキリしない。刑事からの聴取を待っていたかのような印象を受けたと、話した。
 「浜寺に倉渕を殺害する明確な動機がある訳でもない現状で、アリバイがどうのこうのと言うのも無いのかも知れないけど、上高地のテント泊でアリバイが成立すると言い切れるのか、あの辺りに詳しい健ちゃんに聞いておきたいんだ」
「‥‥倉渕の殺害された時間は何時頃だ」
「六月十二日土曜日の夜七時半から八時の間」
「浜寺が上高地で撮った写真は、どの辺りだったか分かるかい」
 石山田は、手帳を改めて開いた。
「‥‥涸沢カールから奥穂高を撮った写真で、日付は六月十二日だった」
 空木は、上高地の河童橋かっぱばしから明神、徳沢、横尾そして涸沢までの歩行時間をイメージした。およそ六時間か、と思った時、空木のスマホが鳴った。乗倉からだった。
 空木は、石山田に断って、雨が降る店の外に出た。
 「空木さん、今日、昭和記念総合病院で不思議な話を聞いたんですが‥‥、今どこにいるんですか。飲みませんか」
「今、平寿司で同級生の刑事と少しややこしい話をしているんだが、あと三、四十分で終わって飲み始めると思うから、来いよ」そう言って電話を切ると、空木は店内に戻った。
 空木が小上がりに戻ると、石山田の前にはビールが置かれ、二つのグラスの一つにはビールが注がれていた。
 「あれ、もう飲むのか」
「あはは、俺はもう飲んだ。我慢できん」
 もう一つのグラスが空だったのは、石山田が既に飲んだからだった。
「それで、さっきの話の続きだけど、健ちゃんはどう思う」
 空木もビールの入ったグラスを一気に空けた。
 「上高地の小梨平のテント場から涸沢まで、およそ六時間かかるが、おそらくザックを背負わない空身からみだろうから五時間と見積もる。涸沢から小梨平までの帰りは、空身で早くても四時間だろう。涸沢で写した写真が何時に撮られたかによるな。スマホを差し押さえれば撮影時間は分かる筈だね。
その上高地から松本、国分寺まで、移動手段にもよるだろうけど、バスと電車で五時間から六時間で国分寺まで来られると思う。つまり、午後一時から二時の間に上高地を出れば、国分寺での犯行は可能だよ。逆算していけば、早朝四時に小梨平のテント場を出発して、午前九時から十時の間に、写真を撮った涸沢を出て、小梨平に戻れば国分寺での犯行は可能という訳だ。ただ、国分寺で犯行を終えて、その日のうちに小梨平に戻るのは無理だろう。松本までは戻れると思うけど、松本から夜遅く上高地までタクシーで移動するのは、運転手の記憶にも残るし、かえって目立つと思うな。季節になれば新宿からも上高地直行の深夜バスが出るけど、先週はまだ運行されていないだろう。翌日の上高地までの移動を考えると、松本駅近くか、松本電鉄の新島々駅近くに泊まれば、昼過ぎには小梨平のテントをたたんで、東京まで余裕で帰って来られるよ」
 石山田は、空木の話を一生懸命メモに取り、顔を上げた。
 「そうか。つまりアリバイが成立しているとは言えないという事だ。犯行当日のそれぞれの乗換駅と国分寺駅の構内カメラに、浜寺らしき男が写っていないか、確認したら見つけられるかも知れない。そうなれば一気に重要参考人どころか容疑者だ。ところで、登山服で移動したんだろうか、そんな目立つ格好はしない筈だよな」
「うん、‥‥多分サブザックか小型のザックに、靴や着替えも入れて移動して、特急電車のトイレか駅のトイレで着替えたんじゃないのかな。確かに登山服姿は、都会では目立ち過ぎるからね」
「なるほど。‥‥松本のホテルも当たっておくべきか」
「偽名を使っているだろうから特定は難しいかも知れないよ。それよりも、まず小梨平のテント場の管理事務所での確認と、聞き込みが先じゃないか、巌ちゃん」
「それはもう長野県警を通じて依頼した。俺の知り合いというか、健ちゃんも以前、上高地の捜査で一緒に捜索で動いてくれた、安曇野署の板長という刑事を覚えているだろう。その板長さんから連絡が入ることになっているんだ」
「板長さんか‥‥」
 空木が懐かしむように呟き、ビールを口に運んだ。
 「それともう一つ健ちゃんに聞きたい事があるんだ。奥秩父署の事件で、浜寺の部屋のガサ入れをすることになった経緯いきさつを教えてくれないか」
 空木はビールの追加を、女性店員の坂井良子に注文した。そして、おもむろに経緯を話した。
 御前山での、山歩会の集合写真に写り込んだサングラスの男が、浜寺だったこと、塩山駅のカメラに写っていた男と同じデウテル社というメーカー製のザックを背負っていたこと、雁坂峠付近ですれ違った男も、サングラスをしてザックもデウテル社製だったことを石山田に話した。
 「ただ、浜寺が犯人だとしたら、その動機が全く分からない。それで家宅捜索でザックを押えるのと同時に、動機の手掛かりが見つかるかも知れないと思って仲澤さんに連絡したんだ」
 石山田は、「うーん」と唸るような声を出し、注がれたビールを飲んだ。
 「探偵空木、大活躍か。それにしても、あっちの事件の容疑者も浜寺という訳か‥‥」
 二つの事件で、同じ人物が容疑者になることも、偶然と言っていいのだろうかと、空木は疑問に思った。二つの事件は、浜寺という男で繋がっているのではないか。
 「巌ちゃん、二つの事件は繋がっているような気がする」
「‥‥‥」石山田は黙り込んだ。
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