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暑く長い日
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七月二十八日木曜日、今日も朝から東京多摩地区は気温三十度を超えていた。
大林と石山田は国分寺署にいた。大林は湖東署の刑事課長と連絡を取り合っていた。
大林は、既に容疑者として指名手配されている伊村は、未だ行方が分からない。伊村を逮捕するためには、国友をマークすることとしたが、国友の動向がはっきりしない。その中で、我々が最も注目しているのは、甲斐駒ケ岳の登山ルートである黒戸尾根ルートである。ついては、甲斐駒ケ岳の山梨県側の管轄の警察署に依頼して、麓の登山口の駐車場に、黒っぽいRV車が止まっていないか確認して欲しい、と刑事課長に依頼した。
大林は、国分寺署の刑事課長と柳田係長に、今日一日ここに詰めさせて欲しいと依頼し了解を得た。今日が勝負の日という緊迫感を漂わせていたのか、刑事課長は大林に励ましの言葉をかけた。
石山田は書類の整理をしながら、わざとらしい咳をし、「ああー熱っぽいなー」と周りに聞こえるように独り言を言っていた。明日の休暇の下準備なのだと、大林には分かり易い演技だった。
その頃空木は、朝食のロールパンをかじりながら、甲斐駒ケ岳の登山地図を広げていた。竹宇駒ケ岳神社か横手駒ケ岳神社か、どちらから登るか考えていた。笹ノ平までのコースタイムはどちらを行っても二時間三十分だ。通常は市営駐車場のある竹宇駒ケ岳神社側から登る登山者が多いが、空木が下山に使ったのは横手側だったことから、横手駒ケ岳神社から登ることに決めた。
その時、携帯電話が震えた。その着信番号は、空木の携帯電話には登録されていない番号だった。空木は電話を取り、「空木です」と応えた。二、三秒沈黙があった。空木はもう一度「空木ですが、どなたですか」と言った。
「‥‥‥伊村と申します」
男の声は確かに伊村と言っていた。空木は瞬間、体中に電気が走ったように感じた。
「伊村さん。伊村政人さんなのですか」
空木は伊村の声を聞くのは初めてだ。本人かどうかは空木には判らない。空木は落ち着いてゆっくり話そうと思った。
「はい、伊村政人です。突然のお電話で申し訳ありません」
伊村の声は通る声のようだった。一言ひと言が明瞭だったが、背後のセミ音が五月蝿かった。
「伊村さん、今どこにいらっしゃるのですか。手紙は拝見させて頂きました。私は貴方にお会いしてゆっくり話がしたい。貴方もそう書いていらっしゃいましたよね」
空木は、出来るだけ意識してゆっくり話した。少し話すだけで口の中が渇いてきた。
「今どこに居るかは言えませんが、仙台より北に居るとだけお話しておきます。ですからすぐにお会いできる場所ではありません」
セミが伊村の周囲で五月蝿く、シャンシャン、ジージー鳴いている。
「セミの音で聞き取りにくいのですが、東北にいらっしゃるのですか」
「そうです。お電話したのは、最後に空木さんにまた仕事の依頼をしたくてお電話しました」
「仕事の依頼ですか。そんなことより、伊村さんのお気持ちはあの手紙で十分汲み取ることが出来ました。警察に出頭して、今度は公(おおや)けの場で、貴方の気持ちを世間に、そして会社にぶつけましょう」
「いえ、私にはやらなければいけないことがあります。ですから、それは出来ません。空木さんへの仕事というのは、私に代わって和美とその家族を探し続けて頂きたいのです。私の最後のお願いです。宜しくお願いします」
「何を言っているんですか。和美さんを探すのも、待っていてあげるのも、そして送るのも貴方、伊村政人の役目なんですよ。貴方の代わりが出来る人間なんていません」空木は必死で伊村に話しかけた。
「申し訳ありません。許して下さい。空木さんと最後に話が出来て本当に良かった」
電話が切れた。「しまった」空木は絶句した。着信履歴に残った番号に電話をした。もう電源が切られていた。
時計は午前十時半だった。空木は急ぎ石山田に連絡した。
「厳ちゃん、伊村から携帯に電話が入った」
「えっ、何だって。伊村から電話があった。伊村はどこにいるんだ」
石山田は横にいると思われる大林に「伊村から電話があったそうだ」と告げていた。
「仙台よりも北に居ると言っていたが、嘘か本当かわからない。俺に行方不明の奥さんを探してくれという頼みの電話をしてきた。宜しく頼むと言って、電話は切られた」
「仙台より北。見込みが外れたか」
石山田の声が弱々しく聞こえた。
「国友の方はどこに行ったか分かったかい」空木は聞いた。
「さっき青葉北署から大林さんに連絡があった。健ちゃんに連絡しようと思っていたところだったんだ。連絡によると南アルプス方面としか言わなかったらしい。仙台インターまで後ろを付いたが、国友の車を追っていく車は無かったと言っていた」
「間違いなく甲斐駒ケ岳、黒戸尾根ルートを目指しているよ、国友は」
「そのようだね。どうする」
「‥‥‥行く。俺は行くよ。伊村はルート上のどこかにいるような気がする」
「だけど伊村は仙台より北にいるって言ってたんじゃないのか」
「伊村は嘘を言っているような気がする。やっぱり行くよ、厳ちゃん」
夜九時過ぎ、食事を済ませた三人は、国分寺署の車で中央自動車道を国立・府中インターチェンジから西へ向かい、山梨県の須玉インターチェンジを目指していた。
当初は自家用車で行く予定であったが、国分寺署の車で行くことになった。それは、石山田が夕方六時過ぎに「熱っぽいので早めに帰らせてほしい」と言って、大林と署から帰ろうとした時、係長の柳田が、署の車を使って行けと石山田に言ったのだった。
係長の柳田と刑事課長は、大林が湖東署の刑事課長とやり取りしている状況や、空木と石山田の電話のやり取りを聞いていた。さらに石山田が、仮病を使って行くつもりでいることも、当然ながら察知していた。管轄外の事件であり、また管轄外の場所であることから、どうしたものか相談していた二人は、見て見ぬ振りをすべきか、全面協力すべきかを考え、後者に決めたのだった。
深夜の中央道は、さほどの交通量ではなく大型トラックがほとんどだった。たまに猛スピードで追い抜いていく乗用車があると、運転している石山田が「はい、免許取り消し」と独り言を呟いていた。
順調に山梨県北杜市横手にある横手駒ケ岳神社に到着した。神社の周囲は真っ暗で、神社も駐車場も区別がつかない暗闇の中だった。車のライトでやっとそれと判った。時間は夜十一時を過ぎたところで、駐車場には一台の車も無かった。
横手駒ケ岳神社も竹宇駒ケ岳神社も、管轄の警察署は北巨摩警察署だった。大林が湖東警察署の刑事課長を経由して依頼していた、所轄による両神社の駐車場の調べでは、午後二時から三時の段階では、横手駒ケ岳神社の駐車場に地元ナンバーの軽自動車が二台、竹宇駒ケ岳神社手前のキャンプ場に隣接した市営駐車場に十四、五台の車が停まっていたとの情報だった。しかし他県ナンバーの黒っぽいRV車は停まっていなかった、という報告だった。
三人は、日の出の時間の四時五十分に合わせて出発することとし仮眠を取った。石山田はすぐに鼾をかき始めた。大林は疲れているのだろう。石山田の鼾を物ともせず寝息を立てていた。空木は一晩中まんじりともしなかった。それは石山田の鼾のせいだけではなかった。
東の空が白んできた。空木は二人を起こした。大林は空木の用意したTシャツ、ジャージに着替え、これも空木が用意した登山靴を履いた。少しきついと大林は言っていたが、歩くことに支障は無いようだった。空木と石山田も登山靴を履き準備を済ませ、ザックを担いだ。大林は空身でザックは担がないことにした。
今日の好天を告げるように、セミがシャンシャン、ジージーと鳴き始めていた。空木は暑い一日になると思うと同時に、セミの鳴き声から、あることを確信していた。
横手駒ケ岳神社は木々に囲まれ鬱蒼とした中に社があった。神社に向かって左手に登山道に通じる道があった。樹林帯が続く登山道を三人はひたすらもくもくと登った。三十分程歩くと汗が吹き出てきた。展望台と言われる地点で一時間が経過した。
国友はどちらのルートか分らないが、既に出発しているだろうと空木は思った。釜無川を挟んで赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が望めた。標高が1000メートルを超え、セミの音はほとんど聞こえなくなった。ここからおよそ一時間半で笹ノ平と呼ばれる地点に着く筈である。
三人はブナ、コナラからシラビソが混じり始めた樹林帯をさらに登る。空木の腕時計に内臓された高度計が1500メートルに近づいた。三人は足を止めた。竹宇駒ケ岳からの登山道と合流分岐する地点を示す標識が見えた。標識の辺りには人影は無かった。時間は午前七時を回ったばかりだった。コースタイムよりかなり速い。ここからほんの少しで笹ノ平の小広くなった場所に出ることを、空木は二人に伝えた。
三人は辺りを見回しながらゆっくり歩を進めた。先頭を行く空木の目に、黒い影がチラっと動いたのが目に入った。動物か人かの判断は付かなかった。笹ノ平の奥の樹木の陰に隠れるように座って、こちらを窺っている人間を石山田が見つけた。
「健ちゃん、人だ」
空木と大林は、石山田の目線の方向に目をやった。男はじっとこちらを見ていた。その男は、髪は短く、サングラスをかけ大型のザックの上に座っていた。
「伊村さん。伊村政人さんですか。空木です。空木健介です」
空木は立ち止まったまま声を掛けた。
男は無言で立ち上がり、サングラスを外した。
「伊村です」と言って会釈をするように頭を下げた。
大林が二歩、三歩と前へ出て、警察であることを告げ、浅見豊殺害の容疑者として逮捕することを伝えた。石山田が、ザックから手錠を取り出し、大林に渡した。
伊村は小さく「はい、わかりました」と言った。背丈の低い熊笹が、一面に茂った笹ノ平に夏の陽射しが差し、緑の葉がきらきらと輝いていた。
「大林さん、伊村と少し話をさせて貰いたいのですが、良いでしょうか」
空木の言葉に、大林は小さく頷いた。
空木は、伊村のザックの横に自分のザックを置き、「座って話しましょう」と言って、伊村をザックの上に座らせ、自分も座った。
「伊村さん、悔しい、辛い思いをしましたね」
空木は雲一つない青い空を見上げて言った。
「空木さん‥‥‥」
伊村の声は声にならなかった。
「伊村さん、貴方は一人ではないんですよ。国友を殺して自分も死のうなんて、つまらないことを考えるのは止めにしましょう。国友には別の制裁が待っていますよ。良識ある社会の目という制裁がね。国友は殺す価値も無い男です」
空木は、伊村の肩に手を掛けて語りかけた。
「和美に申し訳なくて‥‥‥」
伊村は声を振り絞るように言った。
「罪を償い、人間として一生懸命生きることが、和美さんを喜ばせ、安心させる唯一の方法です」
空木の言葉に、伊村は両手で顔を覆った。
空木は立ち上がり、大林と石山田の居る所へ歩いて行った。
「大林さん、伊村は国友に危害を加えることはないと思います。国友がここに登って来るまで待つ訳にはいかないでしょうか」
大林は、少し離れた所に座っている伊村を見ながら言った。
「大丈夫でしょう。我々も少々疲れましたし、しばらくここで休むことにしましょう」
大林と石山田はザックを置き座った。
空木はまた、伊村の横の自分のザックの上に座り、携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。空木には伊村に聞きたいことがあった。
「伊村さん少しお話しましょう。伊村さんは随分山好きなんですね」
「‥‥ええ、育ったところが山村だったので、自然に好きになったのだろうと思いますが、社会人になってより好きになりました」
「山村というとどちらの生まれなんですか」
「生まれたのは東京ですが、両親は私が小さい頃事故で亡くなって、私は母方の祖父母に育てられました。その祖父母が住んでいたのが秩父の両神村という所でした」
伊村の目は遠くを見ていた。
「両神村というと百名山に選定されている両神山の両神ですか」
「そうです。もう祖父母も他界して家もありません。空木さんは両神山に登られたことはありますか」
「ええ、登りましたよ。確か何年か前の五月の連休に登りました。ニリンソウの群生地があって可愛い白い花が印象に残りました。伊村さんも登っておられますよね」
「数え切れない程登りました。初めて登ったのは小学四年だったと思います。祖父母に引き取られて一年位たった頃ですね。祖父に連れられて登りました。五月か六月か忘れましたが、空木さんが見られたニリンソウを私も見て、綺麗だと思った思い出があります。両神山の登山コースは幾つもありますが、全て登っています。頂上から眺めた雲取山を見て登りたいと思いました。中学になって雲取山に始めて登りました」
両神山の話をしている伊村の目は遠くを見つめたままだったが、その目は潤んでいるように空木には見えた。
「空木さん、両神山のヤシオツツジも綺麗ですよ。是非その季節に登ってみて下さい」
「そうですか。是非登ってみます。いや、伊村さん一緒に登りましょう」
空木はそう言って伊村の顔を見た。伊村の目からは涙がこぼれ落ちた。
「私は死んだ両親から生を貰い、祖父母に育てられました。両神の小学校、中学校の先生や友達に良くして貰いました。死んだ両親の残したお金で大学にも行けました。たくさんの人たちから受けた恩を台無しにしてしまった‥‥‥」
「伊村さん。伊村さんはまだ若い。これからでもその人たちへの恩返しは十分出来ますよ。あなたさえその気持ちをもっていれば出来ますよ」
空木は、こんなに優しい心を持った人間が、何故人を怨み、殺してしまうのか、伊村という男と話をして、それを考えない訳にはいかなかった。
伊村はその後も空木に、小学校、中学校の思い出を話した。川で遊んでいて溺れそうになって仲間に助けられ、ずぶ濡れで帰って祖母に叱られた思い出。近くの神社での夏の夜の肝試しで、天狗を見た話。中学の卓球部の部活で、初めて大宮に出た時の町の大きさと人の多さ、賑やかさに驚いたこと。伊村の目にはもう涙はなかった。
国友が登ってくるまでにはもう少し時間がありそうだった。空木には、どうしてももう一つ聞いておかなければならないことがあった。
「ところで、伊村さんにどうしても聞いておかなければならないことがあります。それは私の大きな疑問なんですが、貴方は何故霊仙山を選んだんですか。答えたくなかったら無理に答えて頂かなくても結構ですが」空木は小声で話しかけ、伊村の横顔を見た。
「空木さんを見かけたからです」
「えっ。何処で見たんですか」
「五月二十八日の土曜日に、柏原の駅です」
「え、じゃあ伊村さん貴方もあの日、霊仙山に登っていたんですか」
「はい。空木さんは友達と二人連れでした。私は空木さんのずっと後ろを歩いていましたが、一緒に登ったとも言えますね。運命なんですね」
空木は、あの日の柏原駅を思い出していた。確か自分を含めて、三、四人のハイカーが同じ電車を降りたように思う。その中の一人が伊村だったとは思いもよらなかった。それは伊村が言うように運命だろう。そして今日という日が来たのは宿命だと思った。
空木は腕時計を見た。午前八時の少し前を示していた。「そろそろ来るな」と空木は独り言を言った。
「伊村さん、国友に会ってすっきりしましょう。私の目の前で、貴方の言いたい事を国友にぶつけて下さい」
空木は言って、伊村の目を見た。伊村の目が厳しくなった。
登って来る人影が見えた。三人は伊村を隠すように笹ノ平の小広場に立った。大林が「国友だ」と言った。国友の顔を知っているのは伊村と大林だけだ。
国友がザックを担ぎ、額から汗を流して笹ノ平の小広場に着いた。「おはようございます」
大林が声を掛けた。山では見知らぬ人間でも出会ったら必ず挨拶する。それが極普通である。
「おはようござい‥‥‥」とまで言って、大林の顔を見た国友は、大林を記憶していたようで目を見開いた。
「貴方は刑事さん‥‥‥」と絶句した。
三人の後ろから伊村が前に出た。
「私が誰か分かりますか、支店長」
「伊、伊村か。何故お前がここに居るんだ」
国友は、瞬間ここが何処なのか分からなくなったかのように周囲を見回した。
「あなたを殺すために、この山であなたを殺すために待っていました。でもこの人のお陰で命拾いしましたね」伊村は、空木の方に顔を向けながら静かな口調で言った。
「私を殺すため‥‥‥」
「そうです、殺すためです。でも、もう止めました。あなたのような人は殺すに値しないと、この人に教えて貰いました。あなたは、自分の保身しか考えない人だ。あなたには正義感も、道徳心もない。臭い物には蓋をし、甘言を言う者を重用し、諌言を述べる者を排除していく。私の異動もそういうことでしたね。しかもあなたは、妻の和美を探す私に、会社に迷惑が掛かると言い、そして私が会社を辞めることを決心したら、周囲の人たちに「すっきりした」と言った。あなたは人の上に立つべき人間ではない。人の苦しみを小指の先程も解ろうとしない、部下にとって最低、最悪の上司、人間です。江島課長も悩んでいましたね。そしてスキャンダルの種を蒔いたのは自分であることをあなたに相談した。あなたは江島課長に何と言いました。「生涯口を閉ざせ」と言われたようですね。あなたという人は、人を創るどころか、次々と壊していったのです。私は、浅見豊を殺してしまいました。罰を受けます。あなたにも罰を受けていただきます。社会的な罰を受けていただきます」
伊村の目は、国友を一層厳しい目で見つめていた。凛とした態度は犯罪者のそれとは思えなかった。
「空木さん、刑事さん、ありがとうございました」
伊村は両手を小さく前に出した。
「下山してからにしましょう。下りで転んで怪我をしてもつまらないですから」
大林は、石山田に手錠を返した。
四人は空木を先頭に、石山田、伊村、最後尾に大林という順で下山にかかった。
「国友さん、ここから上は危険な箇所が多いそうです。十分気を付けて登ってください」
大林は呆然と立ち尽くす国友に、皮肉たっぷりに注意の言葉をかけた。
「健ちゃん、国友はこんなことがあっても登るつもりなのかな」
歩き始めた石山田は、振り返って国友を見ながら言った。
「多分登るだろうね。せっかくここまで来たんだから登ろうと思っているでしょう。そういう人間だと思う。自分には関係ない話だとね」
「少し痛い目に遭ったらいいんだ。あんな奴」石山田が吐き捨てるように言った。
「そんなこと言っちゃだめだよ。あいつにだって家族もいるんだから。まして厳ちゃんは刑事だよ、刑事の言うことじゃないよ」と空木が振り返った。
「まあそうだな。ところで健ちゃん。伊村は電話で、東北に居るって言ってたのに、何故ここに来るって決めたんだ。ただの勘か、それとも思いだけだったのかい?」
石山田は前を歩く空木の背中に向けて訊いた。
「セミだよ、セミ」
「セミってどういうこと?」
「仙台より北には熊ゼミはいないんだよ。伊村から掛かってきた電話の周りでセミの音がした。シャンシャン、ジージー入り混じってね。熊ゼミはシャンシャン鳴く。電話を終えてしばらく経ってからそれに気が付いたんだ。仙台より北にいるというのは嘘だとね。嘘だとしたら、後は行く場所は此処しかないという、確信に近いものになった。今日の朝、熊ゼミの鳴き音で確信がより大きくなったよ。伊村は恐らく、竹宇(ちくう)駒ケ岳神社の手前の、キャンプ場の駐車場辺りから電話した筈だよ」
「熊ゼミの鳴き音か。すごい観察力だな、驚いた。一句出来た。罪びとの罪を防いだセミの声」
二人の話が聞こえたのか、聞こえなかったのか分からないが、伊村が後ろを歩く大林に、前を向いたまま訊いた。
「刑事さん、私が湯の山温泉に泊まったことをどうして判ったのですか」
「空木さんだよ」
「空木さんが知っていたのですか」
「いや違う。貴方が浅見に履かせた登山靴の底に、花崗岩の石粒が挟まっていたんだよ。空木さんがそれを見つけて指摘してくれた。花崗岩の山は御在所岳辺りだと。それで我々は他県から来るとしたら、湯の山温泉に泊まる可能性があると睨んだ。それが調べるきっかけだった」
「私が此処に来ると考えたのも空木さんですか」
「そうだ。我々は空木さんに随分助けられた。貴方も人間として、空木さんに助けられたようなもんだ」
伊村は立ち止まり、空木の背中を見ながら大きな息を一つ吐いた。
横手駒ケ岳神社の駐車場に下山したのは、午前十一時を過ぎた頃だった。
大林は、石山田から渡された手錠を、改めて伊村にはめた。
北巨摩署へ向かう車中で伊村が「空木さんと話して良いか」と大林に聞いた。大林は了解した。
「空木さん、私が此処に来ることがどうして分かったのですか」
「江島の山日誌の存在です。あの日誌で国友が、何処に登るつもりかを予想しました。貴方も国友が何処に登るか予想した筈です。私には江島の山日誌しか情報はありませんでしたが、貴方にはもっとたくさんの情報があった筈ですから、国友が黒戸尾根ルートで甲斐駒ケ岳に登ることを予想するのはそんなに難しくはなかったと思いますが」
空木は助手席から首を回し、後部座席に居る伊村に話した。
「私は、今年の初めから国友支店長の、いや正確には江島課長と国友支店長の登る山を聞いていました。決定的だったのは、江島課長の葬儀の折に『慰霊登山』という言葉を支店長が言っているのを耳にしたことでした」
「江島が月山に登るというのは何処で知ったんですか」今度は空木が聞いた。
「あれは東亜製薬の仙台支店に電話をした時に聞きました。最初は支店長と二人の予定と聞きましたが、江島さん一人になった。江島さんは私と月山で出会ったことに随分驚いたようでした。話をしながら、後ずさっていき転落してしまいました。まさか死ぬとは思いませんでした。運が悪かった。私に何かされると思ったのでしょうね」
北巨摩署に到着した。北巨摩署はクリーム色の二階建てだった。大林は伊村とその中に入って行った。
しばらくして出てきた大林は、ここでの聴取を終えたら、北巨摩署の車で湖東署まで伊村を移送すると言って、空木と石山田に挨拶をした。
「石山田さん、空木さん、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。空木さん、空木さんには本当に頭が下がります。一人前の探偵になられましたね」
大林は二人に頭を下げた後、空木の顔をニコニコしながら見上げた。空木は頭を掻いた。
石山田と空木は、大林と握手をして別れを告げ、東京へ車を走らせた。
ハンドルを握りながら、石山田は空木に言った。
「健ちゃん、山をやる人間には悪い奴はいないって言うけど、どう思う」
「伊村も、国友も、江島もそれに俺も、山好きと言う意味では同類だからね。何とも複雑だね。人間は間違いを必ず犯す。間違いをした後でどうするかで人間の価値が決まるとしたら、伊村も国友もこれからが本当の厳しい勝負が待っているってことだと思うけど、国友は変わらないんじゃないかと思う。そういう意味では国友は山の仲間とは言いたくないな」
「うーん、山好きにも悪い奴はいるかも知れないってことか」石山田は納得したような言い方をした。
大林と石山田は国分寺署にいた。大林は湖東署の刑事課長と連絡を取り合っていた。
大林は、既に容疑者として指名手配されている伊村は、未だ行方が分からない。伊村を逮捕するためには、国友をマークすることとしたが、国友の動向がはっきりしない。その中で、我々が最も注目しているのは、甲斐駒ケ岳の登山ルートである黒戸尾根ルートである。ついては、甲斐駒ケ岳の山梨県側の管轄の警察署に依頼して、麓の登山口の駐車場に、黒っぽいRV車が止まっていないか確認して欲しい、と刑事課長に依頼した。
大林は、国分寺署の刑事課長と柳田係長に、今日一日ここに詰めさせて欲しいと依頼し了解を得た。今日が勝負の日という緊迫感を漂わせていたのか、刑事課長は大林に励ましの言葉をかけた。
石山田は書類の整理をしながら、わざとらしい咳をし、「ああー熱っぽいなー」と周りに聞こえるように独り言を言っていた。明日の休暇の下準備なのだと、大林には分かり易い演技だった。
その頃空木は、朝食のロールパンをかじりながら、甲斐駒ケ岳の登山地図を広げていた。竹宇駒ケ岳神社か横手駒ケ岳神社か、どちらから登るか考えていた。笹ノ平までのコースタイムはどちらを行っても二時間三十分だ。通常は市営駐車場のある竹宇駒ケ岳神社側から登る登山者が多いが、空木が下山に使ったのは横手側だったことから、横手駒ケ岳神社から登ることに決めた。
その時、携帯電話が震えた。その着信番号は、空木の携帯電話には登録されていない番号だった。空木は電話を取り、「空木です」と応えた。二、三秒沈黙があった。空木はもう一度「空木ですが、どなたですか」と言った。
「‥‥‥伊村と申します」
男の声は確かに伊村と言っていた。空木は瞬間、体中に電気が走ったように感じた。
「伊村さん。伊村政人さんなのですか」
空木は伊村の声を聞くのは初めてだ。本人かどうかは空木には判らない。空木は落ち着いてゆっくり話そうと思った。
「はい、伊村政人です。突然のお電話で申し訳ありません」
伊村の声は通る声のようだった。一言ひと言が明瞭だったが、背後のセミ音が五月蝿かった。
「伊村さん、今どこにいらっしゃるのですか。手紙は拝見させて頂きました。私は貴方にお会いしてゆっくり話がしたい。貴方もそう書いていらっしゃいましたよね」
空木は、出来るだけ意識してゆっくり話した。少し話すだけで口の中が渇いてきた。
「今どこに居るかは言えませんが、仙台より北に居るとだけお話しておきます。ですからすぐにお会いできる場所ではありません」
セミが伊村の周囲で五月蝿く、シャンシャン、ジージー鳴いている。
「セミの音で聞き取りにくいのですが、東北にいらっしゃるのですか」
「そうです。お電話したのは、最後に空木さんにまた仕事の依頼をしたくてお電話しました」
「仕事の依頼ですか。そんなことより、伊村さんのお気持ちはあの手紙で十分汲み取ることが出来ました。警察に出頭して、今度は公(おおや)けの場で、貴方の気持ちを世間に、そして会社にぶつけましょう」
「いえ、私にはやらなければいけないことがあります。ですから、それは出来ません。空木さんへの仕事というのは、私に代わって和美とその家族を探し続けて頂きたいのです。私の最後のお願いです。宜しくお願いします」
「何を言っているんですか。和美さんを探すのも、待っていてあげるのも、そして送るのも貴方、伊村政人の役目なんですよ。貴方の代わりが出来る人間なんていません」空木は必死で伊村に話しかけた。
「申し訳ありません。許して下さい。空木さんと最後に話が出来て本当に良かった」
電話が切れた。「しまった」空木は絶句した。着信履歴に残った番号に電話をした。もう電源が切られていた。
時計は午前十時半だった。空木は急ぎ石山田に連絡した。
「厳ちゃん、伊村から携帯に電話が入った」
「えっ、何だって。伊村から電話があった。伊村はどこにいるんだ」
石山田は横にいると思われる大林に「伊村から電話があったそうだ」と告げていた。
「仙台よりも北に居ると言っていたが、嘘か本当かわからない。俺に行方不明の奥さんを探してくれという頼みの電話をしてきた。宜しく頼むと言って、電話は切られた」
「仙台より北。見込みが外れたか」
石山田の声が弱々しく聞こえた。
「国友の方はどこに行ったか分かったかい」空木は聞いた。
「さっき青葉北署から大林さんに連絡があった。健ちゃんに連絡しようと思っていたところだったんだ。連絡によると南アルプス方面としか言わなかったらしい。仙台インターまで後ろを付いたが、国友の車を追っていく車は無かったと言っていた」
「間違いなく甲斐駒ケ岳、黒戸尾根ルートを目指しているよ、国友は」
「そのようだね。どうする」
「‥‥‥行く。俺は行くよ。伊村はルート上のどこかにいるような気がする」
「だけど伊村は仙台より北にいるって言ってたんじゃないのか」
「伊村は嘘を言っているような気がする。やっぱり行くよ、厳ちゃん」
夜九時過ぎ、食事を済ませた三人は、国分寺署の車で中央自動車道を国立・府中インターチェンジから西へ向かい、山梨県の須玉インターチェンジを目指していた。
当初は自家用車で行く予定であったが、国分寺署の車で行くことになった。それは、石山田が夕方六時過ぎに「熱っぽいので早めに帰らせてほしい」と言って、大林と署から帰ろうとした時、係長の柳田が、署の車を使って行けと石山田に言ったのだった。
係長の柳田と刑事課長は、大林が湖東署の刑事課長とやり取りしている状況や、空木と石山田の電話のやり取りを聞いていた。さらに石山田が、仮病を使って行くつもりでいることも、当然ながら察知していた。管轄外の事件であり、また管轄外の場所であることから、どうしたものか相談していた二人は、見て見ぬ振りをすべきか、全面協力すべきかを考え、後者に決めたのだった。
深夜の中央道は、さほどの交通量ではなく大型トラックがほとんどだった。たまに猛スピードで追い抜いていく乗用車があると、運転している石山田が「はい、免許取り消し」と独り言を呟いていた。
順調に山梨県北杜市横手にある横手駒ケ岳神社に到着した。神社の周囲は真っ暗で、神社も駐車場も区別がつかない暗闇の中だった。車のライトでやっとそれと判った。時間は夜十一時を過ぎたところで、駐車場には一台の車も無かった。
横手駒ケ岳神社も竹宇駒ケ岳神社も、管轄の警察署は北巨摩警察署だった。大林が湖東警察署の刑事課長を経由して依頼していた、所轄による両神社の駐車場の調べでは、午後二時から三時の段階では、横手駒ケ岳神社の駐車場に地元ナンバーの軽自動車が二台、竹宇駒ケ岳神社手前のキャンプ場に隣接した市営駐車場に十四、五台の車が停まっていたとの情報だった。しかし他県ナンバーの黒っぽいRV車は停まっていなかった、という報告だった。
三人は、日の出の時間の四時五十分に合わせて出発することとし仮眠を取った。石山田はすぐに鼾をかき始めた。大林は疲れているのだろう。石山田の鼾を物ともせず寝息を立てていた。空木は一晩中まんじりともしなかった。それは石山田の鼾のせいだけではなかった。
東の空が白んできた。空木は二人を起こした。大林は空木の用意したTシャツ、ジャージに着替え、これも空木が用意した登山靴を履いた。少しきついと大林は言っていたが、歩くことに支障は無いようだった。空木と石山田も登山靴を履き準備を済ませ、ザックを担いだ。大林は空身でザックは担がないことにした。
今日の好天を告げるように、セミがシャンシャン、ジージーと鳴き始めていた。空木は暑い一日になると思うと同時に、セミの鳴き声から、あることを確信していた。
横手駒ケ岳神社は木々に囲まれ鬱蒼とした中に社があった。神社に向かって左手に登山道に通じる道があった。樹林帯が続く登山道を三人はひたすらもくもくと登った。三十分程歩くと汗が吹き出てきた。展望台と言われる地点で一時間が経過した。
国友はどちらのルートか分らないが、既に出発しているだろうと空木は思った。釜無川を挟んで赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が望めた。標高が1000メートルを超え、セミの音はほとんど聞こえなくなった。ここからおよそ一時間半で笹ノ平と呼ばれる地点に着く筈である。
三人はブナ、コナラからシラビソが混じり始めた樹林帯をさらに登る。空木の腕時計に内臓された高度計が1500メートルに近づいた。三人は足を止めた。竹宇駒ケ岳からの登山道と合流分岐する地点を示す標識が見えた。標識の辺りには人影は無かった。時間は午前七時を回ったばかりだった。コースタイムよりかなり速い。ここからほんの少しで笹ノ平の小広くなった場所に出ることを、空木は二人に伝えた。
三人は辺りを見回しながらゆっくり歩を進めた。先頭を行く空木の目に、黒い影がチラっと動いたのが目に入った。動物か人かの判断は付かなかった。笹ノ平の奥の樹木の陰に隠れるように座って、こちらを窺っている人間を石山田が見つけた。
「健ちゃん、人だ」
空木と大林は、石山田の目線の方向に目をやった。男はじっとこちらを見ていた。その男は、髪は短く、サングラスをかけ大型のザックの上に座っていた。
「伊村さん。伊村政人さんですか。空木です。空木健介です」
空木は立ち止まったまま声を掛けた。
男は無言で立ち上がり、サングラスを外した。
「伊村です」と言って会釈をするように頭を下げた。
大林が二歩、三歩と前へ出て、警察であることを告げ、浅見豊殺害の容疑者として逮捕することを伝えた。石山田が、ザックから手錠を取り出し、大林に渡した。
伊村は小さく「はい、わかりました」と言った。背丈の低い熊笹が、一面に茂った笹ノ平に夏の陽射しが差し、緑の葉がきらきらと輝いていた。
「大林さん、伊村と少し話をさせて貰いたいのですが、良いでしょうか」
空木の言葉に、大林は小さく頷いた。
空木は、伊村のザックの横に自分のザックを置き、「座って話しましょう」と言って、伊村をザックの上に座らせ、自分も座った。
「伊村さん、悔しい、辛い思いをしましたね」
空木は雲一つない青い空を見上げて言った。
「空木さん‥‥‥」
伊村の声は声にならなかった。
「伊村さん、貴方は一人ではないんですよ。国友を殺して自分も死のうなんて、つまらないことを考えるのは止めにしましょう。国友には別の制裁が待っていますよ。良識ある社会の目という制裁がね。国友は殺す価値も無い男です」
空木は、伊村の肩に手を掛けて語りかけた。
「和美に申し訳なくて‥‥‥」
伊村は声を振り絞るように言った。
「罪を償い、人間として一生懸命生きることが、和美さんを喜ばせ、安心させる唯一の方法です」
空木の言葉に、伊村は両手で顔を覆った。
空木は立ち上がり、大林と石山田の居る所へ歩いて行った。
「大林さん、伊村は国友に危害を加えることはないと思います。国友がここに登って来るまで待つ訳にはいかないでしょうか」
大林は、少し離れた所に座っている伊村を見ながら言った。
「大丈夫でしょう。我々も少々疲れましたし、しばらくここで休むことにしましょう」
大林と石山田はザックを置き座った。
空木はまた、伊村の横の自分のザックの上に座り、携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。空木には伊村に聞きたいことがあった。
「伊村さん少しお話しましょう。伊村さんは随分山好きなんですね」
「‥‥ええ、育ったところが山村だったので、自然に好きになったのだろうと思いますが、社会人になってより好きになりました」
「山村というとどちらの生まれなんですか」
「生まれたのは東京ですが、両親は私が小さい頃事故で亡くなって、私は母方の祖父母に育てられました。その祖父母が住んでいたのが秩父の両神村という所でした」
伊村の目は遠くを見ていた。
「両神村というと百名山に選定されている両神山の両神ですか」
「そうです。もう祖父母も他界して家もありません。空木さんは両神山に登られたことはありますか」
「ええ、登りましたよ。確か何年か前の五月の連休に登りました。ニリンソウの群生地があって可愛い白い花が印象に残りました。伊村さんも登っておられますよね」
「数え切れない程登りました。初めて登ったのは小学四年だったと思います。祖父母に引き取られて一年位たった頃ですね。祖父に連れられて登りました。五月か六月か忘れましたが、空木さんが見られたニリンソウを私も見て、綺麗だと思った思い出があります。両神山の登山コースは幾つもありますが、全て登っています。頂上から眺めた雲取山を見て登りたいと思いました。中学になって雲取山に始めて登りました」
両神山の話をしている伊村の目は遠くを見つめたままだったが、その目は潤んでいるように空木には見えた。
「空木さん、両神山のヤシオツツジも綺麗ですよ。是非その季節に登ってみて下さい」
「そうですか。是非登ってみます。いや、伊村さん一緒に登りましょう」
空木はそう言って伊村の顔を見た。伊村の目からは涙がこぼれ落ちた。
「私は死んだ両親から生を貰い、祖父母に育てられました。両神の小学校、中学校の先生や友達に良くして貰いました。死んだ両親の残したお金で大学にも行けました。たくさんの人たちから受けた恩を台無しにしてしまった‥‥‥」
「伊村さん。伊村さんはまだ若い。これからでもその人たちへの恩返しは十分出来ますよ。あなたさえその気持ちをもっていれば出来ますよ」
空木は、こんなに優しい心を持った人間が、何故人を怨み、殺してしまうのか、伊村という男と話をして、それを考えない訳にはいかなかった。
伊村はその後も空木に、小学校、中学校の思い出を話した。川で遊んでいて溺れそうになって仲間に助けられ、ずぶ濡れで帰って祖母に叱られた思い出。近くの神社での夏の夜の肝試しで、天狗を見た話。中学の卓球部の部活で、初めて大宮に出た時の町の大きさと人の多さ、賑やかさに驚いたこと。伊村の目にはもう涙はなかった。
国友が登ってくるまでにはもう少し時間がありそうだった。空木には、どうしてももう一つ聞いておかなければならないことがあった。
「ところで、伊村さんにどうしても聞いておかなければならないことがあります。それは私の大きな疑問なんですが、貴方は何故霊仙山を選んだんですか。答えたくなかったら無理に答えて頂かなくても結構ですが」空木は小声で話しかけ、伊村の横顔を見た。
「空木さんを見かけたからです」
「えっ。何処で見たんですか」
「五月二十八日の土曜日に、柏原の駅です」
「え、じゃあ伊村さん貴方もあの日、霊仙山に登っていたんですか」
「はい。空木さんは友達と二人連れでした。私は空木さんのずっと後ろを歩いていましたが、一緒に登ったとも言えますね。運命なんですね」
空木は、あの日の柏原駅を思い出していた。確か自分を含めて、三、四人のハイカーが同じ電車を降りたように思う。その中の一人が伊村だったとは思いもよらなかった。それは伊村が言うように運命だろう。そして今日という日が来たのは宿命だと思った。
空木は腕時計を見た。午前八時の少し前を示していた。「そろそろ来るな」と空木は独り言を言った。
「伊村さん、国友に会ってすっきりしましょう。私の目の前で、貴方の言いたい事を国友にぶつけて下さい」
空木は言って、伊村の目を見た。伊村の目が厳しくなった。
登って来る人影が見えた。三人は伊村を隠すように笹ノ平の小広場に立った。大林が「国友だ」と言った。国友の顔を知っているのは伊村と大林だけだ。
国友がザックを担ぎ、額から汗を流して笹ノ平の小広場に着いた。「おはようございます」
大林が声を掛けた。山では見知らぬ人間でも出会ったら必ず挨拶する。それが極普通である。
「おはようござい‥‥‥」とまで言って、大林の顔を見た国友は、大林を記憶していたようで目を見開いた。
「貴方は刑事さん‥‥‥」と絶句した。
三人の後ろから伊村が前に出た。
「私が誰か分かりますか、支店長」
「伊、伊村か。何故お前がここに居るんだ」
国友は、瞬間ここが何処なのか分からなくなったかのように周囲を見回した。
「あなたを殺すために、この山であなたを殺すために待っていました。でもこの人のお陰で命拾いしましたね」伊村は、空木の方に顔を向けながら静かな口調で言った。
「私を殺すため‥‥‥」
「そうです、殺すためです。でも、もう止めました。あなたのような人は殺すに値しないと、この人に教えて貰いました。あなたは、自分の保身しか考えない人だ。あなたには正義感も、道徳心もない。臭い物には蓋をし、甘言を言う者を重用し、諌言を述べる者を排除していく。私の異動もそういうことでしたね。しかもあなたは、妻の和美を探す私に、会社に迷惑が掛かると言い、そして私が会社を辞めることを決心したら、周囲の人たちに「すっきりした」と言った。あなたは人の上に立つべき人間ではない。人の苦しみを小指の先程も解ろうとしない、部下にとって最低、最悪の上司、人間です。江島課長も悩んでいましたね。そしてスキャンダルの種を蒔いたのは自分であることをあなたに相談した。あなたは江島課長に何と言いました。「生涯口を閉ざせ」と言われたようですね。あなたという人は、人を創るどころか、次々と壊していったのです。私は、浅見豊を殺してしまいました。罰を受けます。あなたにも罰を受けていただきます。社会的な罰を受けていただきます」
伊村の目は、国友を一層厳しい目で見つめていた。凛とした態度は犯罪者のそれとは思えなかった。
「空木さん、刑事さん、ありがとうございました」
伊村は両手を小さく前に出した。
「下山してからにしましょう。下りで転んで怪我をしてもつまらないですから」
大林は、石山田に手錠を返した。
四人は空木を先頭に、石山田、伊村、最後尾に大林という順で下山にかかった。
「国友さん、ここから上は危険な箇所が多いそうです。十分気を付けて登ってください」
大林は呆然と立ち尽くす国友に、皮肉たっぷりに注意の言葉をかけた。
「健ちゃん、国友はこんなことがあっても登るつもりなのかな」
歩き始めた石山田は、振り返って国友を見ながら言った。
「多分登るだろうね。せっかくここまで来たんだから登ろうと思っているでしょう。そういう人間だと思う。自分には関係ない話だとね」
「少し痛い目に遭ったらいいんだ。あんな奴」石山田が吐き捨てるように言った。
「そんなこと言っちゃだめだよ。あいつにだって家族もいるんだから。まして厳ちゃんは刑事だよ、刑事の言うことじゃないよ」と空木が振り返った。
「まあそうだな。ところで健ちゃん。伊村は電話で、東北に居るって言ってたのに、何故ここに来るって決めたんだ。ただの勘か、それとも思いだけだったのかい?」
石山田は前を歩く空木の背中に向けて訊いた。
「セミだよ、セミ」
「セミってどういうこと?」
「仙台より北には熊ゼミはいないんだよ。伊村から掛かってきた電話の周りでセミの音がした。シャンシャン、ジージー入り混じってね。熊ゼミはシャンシャン鳴く。電話を終えてしばらく経ってからそれに気が付いたんだ。仙台より北にいるというのは嘘だとね。嘘だとしたら、後は行く場所は此処しかないという、確信に近いものになった。今日の朝、熊ゼミの鳴き音で確信がより大きくなったよ。伊村は恐らく、竹宇(ちくう)駒ケ岳神社の手前の、キャンプ場の駐車場辺りから電話した筈だよ」
「熊ゼミの鳴き音か。すごい観察力だな、驚いた。一句出来た。罪びとの罪を防いだセミの声」
二人の話が聞こえたのか、聞こえなかったのか分からないが、伊村が後ろを歩く大林に、前を向いたまま訊いた。
「刑事さん、私が湯の山温泉に泊まったことをどうして判ったのですか」
「空木さんだよ」
「空木さんが知っていたのですか」
「いや違う。貴方が浅見に履かせた登山靴の底に、花崗岩の石粒が挟まっていたんだよ。空木さんがそれを見つけて指摘してくれた。花崗岩の山は御在所岳辺りだと。それで我々は他県から来るとしたら、湯の山温泉に泊まる可能性があると睨んだ。それが調べるきっかけだった」
「私が此処に来ると考えたのも空木さんですか」
「そうだ。我々は空木さんに随分助けられた。貴方も人間として、空木さんに助けられたようなもんだ」
伊村は立ち止まり、空木の背中を見ながら大きな息を一つ吐いた。
横手駒ケ岳神社の駐車場に下山したのは、午前十一時を過ぎた頃だった。
大林は、石山田から渡された手錠を、改めて伊村にはめた。
北巨摩署へ向かう車中で伊村が「空木さんと話して良いか」と大林に聞いた。大林は了解した。
「空木さん、私が此処に来ることがどうして分かったのですか」
「江島の山日誌の存在です。あの日誌で国友が、何処に登るつもりかを予想しました。貴方も国友が何処に登るか予想した筈です。私には江島の山日誌しか情報はありませんでしたが、貴方にはもっとたくさんの情報があった筈ですから、国友が黒戸尾根ルートで甲斐駒ケ岳に登ることを予想するのはそんなに難しくはなかったと思いますが」
空木は助手席から首を回し、後部座席に居る伊村に話した。
「私は、今年の初めから国友支店長の、いや正確には江島課長と国友支店長の登る山を聞いていました。決定的だったのは、江島課長の葬儀の折に『慰霊登山』という言葉を支店長が言っているのを耳にしたことでした」
「江島が月山に登るというのは何処で知ったんですか」今度は空木が聞いた。
「あれは東亜製薬の仙台支店に電話をした時に聞きました。最初は支店長と二人の予定と聞きましたが、江島さん一人になった。江島さんは私と月山で出会ったことに随分驚いたようでした。話をしながら、後ずさっていき転落してしまいました。まさか死ぬとは思いませんでした。運が悪かった。私に何かされると思ったのでしょうね」
北巨摩署に到着した。北巨摩署はクリーム色の二階建てだった。大林は伊村とその中に入って行った。
しばらくして出てきた大林は、ここでの聴取を終えたら、北巨摩署の車で湖東署まで伊村を移送すると言って、空木と石山田に挨拶をした。
「石山田さん、空木さん、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。空木さん、空木さんには本当に頭が下がります。一人前の探偵になられましたね」
大林は二人に頭を下げた後、空木の顔をニコニコしながら見上げた。空木は頭を掻いた。
石山田と空木は、大林と握手をして別れを告げ、東京へ車を走らせた。
ハンドルを握りながら、石山田は空木に言った。
「健ちゃん、山をやる人間には悪い奴はいないって言うけど、どう思う」
「伊村も、国友も、江島もそれに俺も、山好きと言う意味では同類だからね。何とも複雑だね。人間は間違いを必ず犯す。間違いをした後でどうするかで人間の価値が決まるとしたら、伊村も国友もこれからが本当の厳しい勝負が待っているってことだと思うけど、国友は変わらないんじゃないかと思う。そういう意味では国友は山の仲間とは言いたくないな」
「うーん、山好きにも悪い奴はいるかも知れないってことか」石山田は納得したような言い方をした。
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