霊山の裁き

聖岳郎

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杜の都の傷跡

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 空木は、山形のバスターミナルから午後三時三十分発の仙台行きのバスに乗車した。バスは、山形自動車道から東北自動車道を経由して仙台市内に入った。
 やはり、バスの車窓からは、屋根にブルーシートが被せられた風景が目立った。明日で、大震災からちょうど四ヶ月が経過する。津波の被害に遭った町々では、行方不明の方たちもまだ数多くいる。空木は目を瞑った。
 終点の、勾当台こうとうだい通りに面した県庁、市役所前に着いたのは、夕方五時前だった。日曜の夕刻とあってか、人通りは非常に多い。杜の都は着実に復興に向かっていると空木には感じられた。
 ホテルは、東北随一の飲み屋街である国分町こくぶんちょうに近かった。
 後輩の杉谷とは六時にホテルのロビーで待ち合わせた。杉谷と飲むのは仙台から転勤して以来五年振りだった。
 二人は、ホテルから歩いて五分程の所にある、牛タン専門の店を予約していた。この店は、牛タンは勿論だが、焼き餃子も美味かった。
 二人は久し振りの再会にビールで乾杯した。
「空木さん、何故会社を辞めたんですか。空木さんを知っている我々は、少なからずショックを受けましたよ」杉谷は、コップから口を離すと同時に聞いた。
「いきなり直球だな。何故辞めたか‥‥。一言で言えばサラリーマン失格を悟ったというようなことだな」
 空木は牛タン焼きを頬張った。
「サラリーマン失格ですか。どういうことですか」
 杉谷は空木のコップにビールを注いだ。
 「俺は入社以来、正しいと思ったこと、こうすべきだ、こうあるべきだ、と思ったことは上司にも、先輩にも、後輩にも言ってきた。生意気な奴だと思われても、それは正しかったと思っている。そうしているうちに、チームリーダーとなり、杉谷たちの様に俺の言葉に耳を傾けてくれる人たちも増えてきたと思っている。人間には欲と言うものがある。俺にももっと多くの人たちに影響を与えられるようになりたい、という欲が出てきた」
「その欲がサラリーマン失格なんですか」
「いや、欲が出ること自体は失格とは思っていない。欲が出て当たり前だと思っている。俺の問題は、その欲を実現させるためのやり方、方法に、心身ともにどっぷり沈める覚悟が出来ない、ということに気付いたんだ。人間、目標を実現させようと思ったら、我慢もし、辛抱もしなくちゃいけない。それが、何が邪魔しているのか分らないが、俺には出来そうもないと思った。俺は一体何をしたいのか、誰の役に立ちたいのか。一度会社という大きな組織を離れて考えてみようと決めた。こういうことだ」
 空木は芋焼酎のロックを注文した。
 「空木さん、格好付け過ぎですよ。その人が居るだけで、その人の周りがホッとする、暖かくなる。そういう人間が居ても良いんじゃないですか。偉くならなくても良いんじゃないでしょうか」
 杉谷もビールを飲み干し、芋焼酎を注文した。
 「杉谷の言うとおりだ。そういう意味でも俺は失格だな」
「そうすんなり言われると寂しいですけど、いずれにしろ空木さんらしいですね。まあ、探偵業の仕事、頑張ってください」
 二人は焼酎でまた乾杯した。
 「ところで杉谷。この前電話で話した、東亜製薬を辞めた伊村という男の事だけど、伊村と親しくしていた人間で思い当たる人はいないか」
「思い当たる人ですか。そういえば、青葉薬品の二条さんだったら少しは知っているかも知れません。東亜製薬は青葉薬品の扱いメーカーの中でも主力メーカーで、扱い金額も多いですし、二条さんは何回か伊村と飲んでいるんじゃないかと思います。少なくとも僕よりは知っていますよ」
 杉谷は餃子に箸を伸ばした。
 「青葉薬品か。卸さんはメーカー社内の事を、社内の人間より良く知っていることも多々あるからな。明日の午後にでも会えるかな」
「明日の午後ですか。急ですね」

 月曜の朝、署に出た石山田は、係長と課長に山形出張の報告をした。課長も係長も、月山西川署で得た情報は湖東警察署に伝えておくように石山田に指示した。石山田は湖東警察署の大林に電話をした。
 月山での転落死亡は管轄の判断は事故で、状況的には相当の判断であること。転落死亡した、江島照夫四十一歳会社員の勤める会社が、霊仙山事件の被害者の浅見豊と同じ東亜製薬であったことを伝えた。
 「同じ会社の人間が、一ヶ月の間に事件と事故で二人も死亡するというのは尋常ではありませんね。しかも、浅見豊も仙台には関係しています。こちらの事件と関連している可能性もあるかも知れませんね」
大林の声は冷静だった。
「空木健介に送られて来た、仲内和美、好美の名前での手紙の主が同一人物だとすると、霊仙山の事件と、月山転落事故の関連はより深いと言えると思います。ただ、西川署の扱いは、あくまでも不慮の事故の扱いで、事件性は無し、と判断していますので、現段階では興味は持ったにせよ、捜査に動くことはないと思われます」
「そうですか。確かに月山の件だけみれば、事故と判断しますね。ということは、仙台へ動くことが出来るのはうちだけということになりますね」
 大林も現状では、月山西川署の刑事課も動けないだろうし、こちらから要請する筋のものでもないと判断したようだった。
 石山田は、湖東警察署の捜査本部の捜査進展状況を大林に聞いた。
 大林によれば、新たな進展は無く、仲内姓の全国調査は、全国二百四十九世帯全ての報告が揃ったが、該当する世帯は無かった。湯の山温泉宿泊客の調査も、直接本人に確認出来ていないのは、残り一人だけで、この一人も実名での宿泊であることから、疑わしいような事は無いのではないかと考えている。という返答だった。
 「石山田さん、空木さんは元気にしていますか。二つの事件に巻き込まれてショックを受けていませんか」
「空木ですか、あいつなら大丈夫です。今日は仙台に居る筈です。今週の末からは北海道に山登りに行くと言っているぐらいですから、心配無用でしょう」
「今日は仙台ですか。私が行くことになるのかどうかは分かりませんが、近いうちにこちらからも仙台へ行くことになると思います」
 石山田は、その口ぶりから大林は仙台に行くつもりだな、と感じた。
 「それと石山田さん、いずれ空木さんと三人で、直接会って情報のやり取りをしたいと思いますが、いかがでしょう。私が東京に出向きます」
「分かりました。七月中にはお会いしましょう」
 石山田は電話を切った。
 石山田との電話を終えた大林は、刑事課長に石山田からの連絡を報告した。刑事課長は、捜査の大きな進展がないだけに、一度は仙台に行くべきだろうと判断した。
 東京への出張も併せて大林が行 くことになった。

 仙台は午後から雲が出た。陽射しはないが湿度が高いせいか暑かった。
 空木と杉谷は、北仙台駅に近い、国道4号線沿いのファミリーレストランで、午後二時に青葉薬品の二条と待ち合わせた。
 スーツを着た二条は、大柄で割腹がよく、空木と比べても随分貫禄を感じさせたが、年齢は空木よりも十歳も若い、三十二歳ということだった。
 挨拶を終えた空木は、コーヒーを注文したが、昼を食べていない杉谷と二条は、大盛りのパスタを注文した。
 空木は、自分は三月に万永製薬を退職し、今は東京で探偵業の看板を出している。東亜製薬に居た伊村君と連絡を取りたいと言っている人が居て所在を探している。と説明した。
 「二条さんは伊村さんとは比較的親しくしていたとお聞きしました。伊村さんが今どちらにいらっしゃるか、ご存知でしたら教えていただきたいのです」空木は二条を見ながら聞いた。
「親しいかどうか分かりませんが、伊村さんの家にも行ったことがあります。今、どこにいるのか、残念ながら私も東京としか知りません。東亜製薬を辞めてどうしているのか、僕も気になっているのですが、連絡のしようがなくて。東亜製薬の人たちにも聞いたことがありますが、皆知らないようです」
 二条は「いただきます」と言って、大きな口を開いてパスタを食べ始めた。
 「そうですか、分かりました。二条さんは伊村さんが会社を辞めた理由は聞いたことがありますか」
 空木は自分も最近会社を辞めたことも重なり、この事も気になった。
 「それが‥‥、理由かどうか分かりませんが、以前、伊村さんが、うちの会社には保身を考える奴ばかりで、相談出来る奴はいないって言っていたことを覚えています。不満はあったと思います。それに大震災で伊村さんは大変な目に遭ってしまいましたから、それがきっかけかも知れません。まして、伊村さんは薬剤師ですから、辞めても食べることには困らないでしょうから」
 二条はコーラを追加注文した。これでは太る、と空木は思った。
 「大変な目に遭われたというのは」
「伊村さんの奥さんが、あの大津波で行方不明になってしまったんです」
「えっ、津波で行方不明ですか。‥‥しかし確か、伊村さんの仙台の家は泉区でしたよね。海からは随分遠いはずですが」
「よくご存知ですね。ちょうど伊村さんが、東京に家探しで出張している時で、奥さんは海に近い閖上(ゆりあげ)の実家に帰っていたそうです。そこで、あの大津波の被害に遭われたそうで、一家の全員が未だに行方不明らしいです」
 二条はパスタをあっという間に平らげた。
「そんな悲惨なことが起こっていたのですか。もしかしたら伊村さんは、今もご家族を探し続けているかも知れませんね」
「そうかも知れません」
  空木は、家族を失うという辛い目に遭った伊村を、これ以上探すことに躊躇いを感じていた。
 「それから二条さん、これは伊村さんとは関係しない事なのですが、一昨年から今年にかけて東亜製薬の人間で、女性スキャンダルの話を聞いた事はありませんか」
「東亜製薬ではタブーになっている話の事でしょう。一時は東亜製薬の支店長が社員に箝口令(かんこうれい)を敷いたようですから。ここだけの話ですが、細かい中身までは知りませんが、東亜製薬の幹部が得意先の女性を妊娠させたらしいですよ」二条は大きな体を屈めて、小声で言った。
「そうですか。いやつまらない事まで聞いて申し訳ありませんでした」
 空木は、やはりそうかと思った。浅見豊の五十万円の意味がここにありそうだと、直感めいたものを感じていた。。
 空木は二条に礼を言い伝票を取った。二条は「ご馳走様でした」と言って大きな体を折った。
 空木も杉谷も、伊村の家族が惨禍に遭っていたことを知り、少なからずショックだった。杉谷に仙台駅まで送ってもらい、空木は東京に向かった。はやて号の車中、伊村という男の心情を思うと、空木の目には車窓が滲んで見えた。

 空木が国立駅に着いたのは、帰宅ラッシュの夕方の六時半頃。東京は暑かった。
 大きなザックを担いだ空木は、帰宅ラッシュの人混みの中では、さすがに邪魔者扱いで、睨みつけるサラリーマンは一人二人ではなかった。
 空木が「さかり屋」に入ると、石山田が奥の小上がりから、こちらを覗く様にして声を掛けた。
 「お帰り」石山田は焼酎を飲んでいた。
「仙台の牛タンは美味かっただろ」
「ああ、美味かった。それに思わぬ情報も聞くことが出来たよ」
 空木はビールを飲んだ。 
 空木は、仙台で青葉薬品の二条から聞いた話を石山田に話した。
 自分が気になっていた、伊村という男の所在を知りたかったが、分らなかったこと。その伊村という男の奥さん家族が、大津波の被害に遭って、行方不明になっていること。そして、浅見豊に関してのスキャンダルは、やはり女性関係で、得意先の女性を妊娠させてしまったらしいこと。これらを話した。
 「その伊村という男の名前は初めて聞くけど、誰なんだ」石山田は聞いた。
「この三月で、東亜製薬の仙台支店を辞めた男で、俺の事を、俺の友達伝いに聞いてきたようで、一度機会があれば会いたいと言っていたらしい。俺としては、浅見豊の仙台での事が、この伊村という男から聞けるんじゃないかと思ったんだ。しかし、奥さんと奥さんの家族全員が行方不明になっているって聞いたら、浅見のことで話を聞きに行くのもはばかられるんで、止めにする」
 空木は、ニラレベ炒めに箸を伸ばした。
「そういうことか。でも浅見豊の情報も集められたじゃないか。あの五十万の使い道が、何となく想像がつくと思うが」
 石山田はエイひれを手に取った。
 「俺もそう思う。名古屋のスナックのママ達の話とも符合する。後は、相手女性をどう探すかだ」
「それはかなり難易度が高いんじゃないか」石山田は腕組みをしながら言った。
 空木は「そうだよな」と頷いた。
「ところで巌ちゃん、大林刑事には連絡取れたかい」
「今朝一番に連絡したよ。捜査の進展はないようで、仲内姓の全国調査も、湯の山温泉宿泊客の確認も収穫はなかったようだ。それで、大林刑事が仙台まで行く事になったようだよ。明日は江島照夫の葬儀が東京であって、東亜製薬の仙台の支店長の都合が、来週でないとつかないらしい。その帰りに東京に寄るので、その時は健ちゃんと三人で一度会いたいと言っていたよ」
「わかった」と言って空木は芋焼酎を飲んだ。芋の香りが口の中に広がった。
 浅見豊が仙台で起こした事を、空木は想像した。
 得意先である、病医院か薬局かに勤める女性、医師か看護師か薬剤師か事務職員か、いずれかに何らかのきっかけで関係を持つようになった。彼はその役職からして、直接得意先を担当しているとは思えない。誰かの紹介か、得意先との宴席がきっかけだろう。そして、妊娠させてしまった。そのことが公になる前に、いや隠すために会社は浅見豊を名古屋に転勤させた。浅見豊の通帳に記帳された五十万は、お産の費用か、手切れ金か慰謝料かは分からないが、妊娠に起因した金銭の可能性が高い。
 その女性はどこにいるのか、誰なのか。石山田が言うように、調べるのは極めて難しい。空木にはそのすべが思い浮かばなかった。
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