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同期
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湖東警察署では、事件発生から二週間が経ち、三回目の捜査会議が開かれた。会議では、聞き込みによる、新たな情報の報告がされた。
死体が発見された日の前夜遅く、醒ヶ井の駅付近から乗客を乗せたというタクシーが見つかった。そのタクシーは彦根にあるタクシー会社で湖東タクシーといい、運転手は高柳という運転手だった。
高柳によれば、深夜一時頃、迎車の依頼が入り、醒ヶ井の駅付近から大垣の駅近くのビジネスホテルまで乗せた。その客は、深夜にも関わらず色付き眼鏡をかけ帽子を被ったままだった。行き先を言った後は、話しかけても全く話はしなかった。大垣のホテルには深夜二時頃着いた。
さらにそのホテルでの聞き込みでは、その男は、午後四時頃チェックインした、藤田勇二という客ではないか、ということだった。その男は、チェックインの際はザックを持ち、一時間ほどして、ルームキーはフロントに預けずに持ったまま出かけた。その際、帰りは深夜になるが、ホテルの玄関ドアは開いているかと確認していたこと、色付き眼鏡と帽子を被っていたのが特徴的だったことで、フロントの係員はよく覚えていた。
車については、車で来たのか確認した際に、車はここには置かないとのことでナンバーは聞かなかったが、黒っぽい車で出かけたように思うとのことだった。
夜、何時に戻ったか分からないが、朝は登山姿で午前七時半ごろチェックアウトした。
この男がチェックインの際に記入した電話番号は使われておらず、また記載された住所の、東京都千代田区四番町七を管轄の麹町署に当たってもらったが、該当するマンションも藤田勇二という男も存在していなかった。
この聞き込みから、重要容疑者である色付き眼鏡の帽子の男は、名古屋の登山用具店でザック他を購入した後、大垣のホテルにチェックインした。そしてここから名古屋に戻り、浅見豊を殺害したと、推測された。
そして殺害後、深夜、車で死体をあの廃屋まで運んだ。死体を置いた後は、歩いて醒ヶ井駅付近まで行き、呼んだタクシーで大垣のホテルまで戻った。車は登山口周辺の林道に停め、翌日の逃走用に置いて行った。
そして翌日、大垣駅から柏原駅に向かい、霊仙山に登り、空木健介の尾行のターゲットになった。空木健介に死体を発見させた後は、置いていた車で逃走した。こういう足取りが考えられると報告された。
次に、湯の山温泉の単独男性の宿泊客の洗い出しについては、当該の二百三名の宿泊客全ての宿泊名簿から、確認作業を急いでいるが、不在の人も多く、全ての所在確認は取れていない。所轄の協力も得ながら確認を急ぐと報告された。
被害者の怨恨の線の調査について、金銭、女性、社内それぞれについての聞き込みが報告された。
金銭関係については、目下のところ社内社外での怨恨に繋がるような情報はなかった。
社内の人間関係についても、東亜製薬名古屋支店の社員を中心とした聞き取りが行われ、被害者の仙台支店在籍時のことは分からなかったが、何かがあって社内で口止めされている可能性も考えられ、状況次第では仙台での聞き取りが必要になるかも知れない、と報告された。
女性関係に関する調査で新たな報告がされた。浅見豊の会社にあった名刺ホルダーから飲食店を当たった結果、被害者と親しくしていたと思われる女性が浮かんだ。それは、名古屋の繁華街である錦のスナック『優』のママで中島優子と言い、浅見豊が殺害される一週間前に千種のマンションの部屋に入った、とのことであった。
中島優子によれば、浅見豊とは親しい関係ではなく、今まで何回も部屋に寄るようにしつこく誘われていた。その夜も、浅見は閉店までお店に居て、しつこく誘われ、寄るだけということで初めて部屋に入った。そして、浅見が風呂に入っている間に部屋を出た、ということであった。中島優子の毛髪と、部屋から採取された毛髪は、同一の物と確認された。
最後に、「仲内」姓の調査状況について報告された。それによると確認されているだけで、全国で二百四十九世帯の仲内姓がある。全国の警察が各所轄で調査協力してくれている。この滋賀県でも三軒が該当したが、いずれも事件に関係しそうな情報はなかった。和美、好美の名前が、実在するかどうかも分からない中での調査だけに、大きな期待は出来ない。また、時間も掛かるだろうと報告された。
捜査は少しずつ進展しているものの、犯人に直接結びつくような情報、犯行に繋がる動機の手掛かりなどは浮かんでこなかった。
捜査会議で出された意見は、被害者の仙台支店時代のことを詳しく調べる必要があること。そして、空木に尾行を依頼した理由がどうしても疑問として残る。空木を巻き込むことが目的だったとしたら、やはり空木健介の周辺、人間関係に手掛かりがあるのではないか、という意見も出されたが、設置から二週間近くが経過した捜査本部の人数は、今後縮小することもあり、積極的な捜査は見送られた。
名古屋から戻った空木は、東京駅で浅見芳江と別れ、七十七銀行へ向かった。
七十七銀行の東京支店は、予め新幹線の車中でその所在地は調べておいた。七十七銀行東京支店は、地下鉄の東銀座駅から二、三分の所にあった。
空木は、ATMで芳江から預かった通帳に記帳した。予想した通り、水道料の振込みに使われた口座、通帳だった。半年に一度入金され、二ヶ月に一度の割で三千円弱の金額が引かれていた。残額は僅かな通帳であったが、その中で最後の入出金が目を引いた。それは昨年十二月に五十万の入金、今年一月に同額の出金が記帳されていた。入金先はトウアセイヤクカブとあった。
記帳を終えた空木が、自宅マンションの部屋に戻ったのは午後五時をまわった頃だった。
空木は、浅見芳江の家に電話をした。芳江は帰宅していた。空木は、明日通帳を返しに伺いたいが都合はどうか聞いた。芳江は午後なら在宅ということだった。
芳江への電話の後、空木は万永製薬入社同期だった村西の携帯に電話を入れた。この時間帯は、製薬会社の営業職であるMRの最も忙しい時で、携帯は留守電となった。空木は、時間が空いたら電話が欲しい旨の伝言を入れておいた。
石山田に電話をした。石山田は、今日は時間が空かない、ということだった。やはり一番ヒマな人間は自分だと空木は思った。石山田は湖東警察からの情報として、浅見豊のマンションで採取された毛髪が誰の物か判ったこと。色眼鏡に帽子の男の、前日の足取りが見えてきたこと、などの連絡があったことを話した。
空木は、名古屋に行って、わかったことを石山田に伝えた。依頼の写真は、東亜製薬の名古屋支店の前で撮った写真で、大通りの公園側から撮られた物であること。浅見豊のマンションから通帳が見つかったこと。通帳を記帳したところ、そのほとんどは水道料の引き落しに使われていたが、直近の一件だけ、五十万の入出金があり、それは昨年の十二月から今年の一月にかけてのものだったこと。
石山田は、この情報は湖東警察の大林に伝えておくと言った。石山田は最後に、やはり空木健介の周囲の人間関係を洗うことが、犯人の手掛かりを掴むことに繋がるという意見も、湖東警察の捜査会議で出たということを空木に伝えた。
石山田との電話中に、電話が入っていた。同期の村西からの折り返しの電話だった。今度は、空木が折り返しの電話を入れた。村西が出た。
村西とは三月の末から会っていないが、万永製薬に入社以来の親友である。要件を掻い摘んで話し、明日にでも会えないか聞いた。村西は、明日の土曜なら空いているということであった。六時に新宿で待ち合わせる約束をして電話を切った。
翌日の土曜日は、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。
空木は、朝食のロールパン、目玉焼き、ハムを食べ、愛車の50ccのバイクで、久し振りに体育センターに出かけ、トレーニング室で汗を流した。ここしばらく、アルコール摂取量がさほど多くはなかったせいか、三キロのランニングも、百五十ワット負荷のバイク漕ぎもさほど苦しくはなかった。ウェイトトレーニングを終え、心地良い汗と心地良い筋肉の張りを感じながら、シャワーを浴びた。
独身の空木は、ジャンクフード、ファストフードは食べ慣れているが、中でもココイチのカレーは大好物である。パリパリチキンカレーで腹を満たし、浅見宅へ向かった。
浅見芳江は、クリーム色のコットンパンツと、水色の半袖のポロシャツ姿で、年齢より若く見えた。
芳江は、空木に名古屋での礼を述べ、応接ソファーに招き、コーヒーミルで豆を挽いてコーヒーを入れた。
「ひつまぶしも味噌おでんも美味しかったけど、新幹線の名古屋駅のホームで食べたきしめんが一番美味しかったわ」芳江は嬉しそうに言った。
空木は、名古屋からの帰り、どうしても駅ホームの、立ち食いのきしめんが食べたかった。芳江には申し訳ないと思いつつ、付きあわせてしまうことになったのだった。そのきしめんが美味しかったと芳江は言っていた。
「いや、あんなお昼ご飯になってしまって、奥さんには申し訳ありませんでした。失礼とは思いましたが、何事も経験というつもりでお誘いしてしまいました。新幹線の名古屋駅のホームのきしめんは、サラリーマンの間では評判なんです」
「本当においしかった」芳江は笑った。
空木は、コーヒーカップをテーブルに置き、預かっていた七十七銀行の通帳をテーブルに置いた。
「通帳、お返しします。私の予想通り、水道料の払い込みのための口座でした。ただ、見ていただければ判る通り、一回だけそれとは違うお金の入出金がありました。奥さんは御存知ありませんでしたか」
空木は、記帳された通帳を芳江の方に押しやった。
「知りませんでした」芳江は答えながら、手に取った通帳をめくった。
「昨年の十二月に五十万ですか‥‥。この日は確か主人の会社の賞与の支給日だったと思います。それで‥‥」
芳江は何かに合点したようだった。少し待って欲しいと言ってソファーを立ち、しばらくして戻ってきた。
「やはり賞与の支給日でした。主人は賞与の一部がこの口座に入るように会社に指定したようです。何のためか分かりませんが、確か私が夏より随分少ないのね、と言ったら、成績が悪かったから、と言っていたことを覚えています」
芳江は七十七銀行の通帳を見ながら言った。
「翌月にすぐに引き出していますね。何に使ったんですかね」
「主人は買い物をする時はほとんどカードでしていたはずですから、現金で五十万というのは私には思い当たりません」
空木は、浅見豊は誰かに借金していたか、女性に貢いだか、ではないかと考えたが、芳江には聞けなかった。名古屋のマンションから採取された毛髪の主が判ったことも、空木は芳江には伝えるのを止めた。芳江もそれについて聞きはしなかった。
空木は長居を詫びてソファーを立った。玄関まで送りに出た芳江は、空木に少し厚めの白い封筒を手渡した。
「空木さんには、本当に何と言ってお礼を言って良いのか言葉がありません。中にお礼の手紙を入れてあります。後でお読みください」そう言って芳江は深々と頭を下げた。
外は小雨が降り始めていた。空木はマンションのエントランスで白い封筒を開けた。中には便箋とともに、かなりの枚数の一万円札が入っていた。その便箋にはこう書かれていた。
空木健介様
前略
名古屋では、マンションの後片付けから荷物を送り出すまで、そして主人の会社への御挨拶もご一緒いただいたこと、その上、大変美味しく、そして珍しいお食事にもお誘いいただいたこと、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。
主人を亡くして十日も経たない中、一人で見知らぬ所へ行くのは心細い限りでしたが、空木さんのお陰で無事、所用を片付けることが出来ました。そして、空木さんのお心遣いには、涙が出るほど嬉しく、主人が亡くなったことも一瞬忘れてしまうほどでした。
主人が亡くなり、息子と二人だけの生活になりますが、息子のため、そして私自身のために強く生きて行こうと思っています。
同封したお金は、空木さんに名古屋で散財させてしまったお金の、幾何(いくばく)かにしていただければ幸いです。それと、探偵の空木さんへの依頼料が含まれています。それは、主人が仙台に赴任当時、何があったのか調査していただきたいのです。主人は仙台が初めての単身赴任でした。赴任して一年程経った頃から、帰ってくる回数が減り、私との関係も冷えました。私は女性が出来たのでは、と思いましたが、問い詰めることもしませんでした。もしも、その事が今回の事に繋がっているとしたら、あの時、問い詰めていればこんな事にはならなかったかも知れない、と思い始めています。どうか調べていただき、本当の事を教えていただきますようお願い致します。
またお会いできる日を楽しみにしております。
梅雨空が続く毎日、どうぞお体に気を付けてお過ごし下さいませ。
かしこ
浅見芳江
空木はフーッと息を吐き、封筒をポケットにしまった。
小雨が降る中、空木は中央線に乗り、村西と待ち合わせの新宿へ向かっていた。土曜日の中央線は比較的空いていた。
車中で空木は、浅見芳江の手紙を思い返した。浅見豊の仙台での生活で起こったこととは何か。芳江の手紙は一昨年から様子が変わった。女性が出来たのでは、と書かれている。
東亜製薬の名古屋支店の社員たちは、仙台のことは敢えて知らないと、言っているようだ。通帳に記帳された五十万と関連しているのだろうか。もしかしたら、女性関係のもつれから誰かに脅されていた。それで五十万が必要となった。しかし、それで支払ったとしたら、何故殺されなければいけなかったのか、犯人にすれば金づるになる人間を殺す理由は何か。
こんな事を探偵見習いのような自分が調べられるのだろうか。
しかし、芳江は何故、今になって女性がいたかも知れないと、自分に知らせたのか、しかも手紙で。湖東警察の大林にも、石山田にも言う機会はあったのにと思った時に、電車は新宿駅に着いた。
空木が、待ち合わせの新宿プリンスホテルのロビーに着いた時には、村西は既に待っていた。二人は軽く手を挙げ「おーっ」と合図ともうめき声ともつかない挨拶をした。
二人が新宿で飲む時は、ここから程近い歌舞伎町の小料理屋と決まっている。二軒目は、職安通り方面に五、六分歩いたところのビルの四階にあるスナックだ。
村西良太、四十三歳、空木とは万永製薬の同期入社だが、村西は一浪しているため、年齢は空木より一つ上だった。アルコールは滅法強く、所謂ザルである。二人は昇給、昇格もほぼ同じだったこともあって、お互いに良き相談相手だった。
空木が三月に退職する際に村西が必死に止めたのも、多分にそういったことから来る寂しさからだった。空木も、村西を残して辞めることに心の痛みはあった。
しかし、昇給、昇格、保身のために人脈にしがみついたり、仮面をいくつも被っている先輩、上司を見ていると、会社という組織の中で、自分自身の歩いて行く道に不安を感じない訳にはいかなかった。
村西からは、そんな会社を俺たちで変えようと説得されたが、空木は一度、門外漢となって客観的に自分を見つめてみたかった。謂わば、サラリーマン失格なのだが、空木自身はサラリーマン、特にMR職は好きであった。
そんな村西との三月以来の一献であった。
空木は、帝都薬科大卒の繋がりで、東亜製薬の事を知りたいと思うようになった経緯を、順を追って村西に説明した。
「そんな事に巻き込まれていたんか、空木、探偵業も楽やないな」
村西の生まれは奈良だった。関西弁を敢えて使っている訳ではないが、べったりの関西弁を減らす意思も全くない男だった。
「お前からの電話で、東亜製薬に誰かいないか名簿を繰りながら思い出そうとしたけど、内緒で内情を話してくれるような友達は思い当たらん。東亜製薬へ行く連中は真面目な奴が多いし、俺ははみ出しもんやったからな。おらんわ」
村西は、酒の肴の島らっきょうを摘まみながら、ビールを飲み干した。
「やっぱりそうか。無理かも知れないと思っていたけどな」
空木もビールを飲み、北寄貝の醤油焼きを摘まんだ。
村西は、カバンから名簿のコピーを出し、空木に渡した。それは帝都薬科大の同窓会名簿のコピーで、村西の学年の前後三年間ずつ、合計七年間分だった。そこには、現住所、現在の勤務先も記載されていた。病院勤務、薬局経営、薬局勤務そして製薬会社勤務もかなりあった。東亜製薬も毎年五、六人はいた。
空木が名簿を見ていた時、村西が思い出したように言った。
「そう言えば、四月だったか五月だったか忘れたけど、後輩で東亜製薬に勤めておる奴から電話が架かってきて、お前のことを聞かれたぞ」
「えっ俺のこと。それは誰、この名簿に載ってるのか」
「載ってるはずだ。大学で俺を知っていたと言ってたから。‥‥確か名前は伊村だ」
「突然電話してきたのか」
「突然と言えば突然やけど、名古屋で何年間か俺と一緒の病院を担当していたことがあって、その縁で俺に聞きたい事があって電話してきたみたいだ」
「それで俺の何を聞いてきた」
「スカイツリー万(よろず)相談探偵事務所という名前をホームページで見たが、あれは村西さんと一緒の会社にいた、空木さんが開いた事務所かって聞くから、そうやと答えた。どうかしたのか聞くと、自分も会社を辞めたので、空木さんは自分の事を覚えてはいないだろうが、自分は良く覚えている。機会があったら会ってみたいって言ってた。空木お前、こいつと仙台で一緒の時期があったんやないか」
「仙台で一緒の時期か。俺が札幌へ転勤する直前かな。東亜製薬の伊村、覚えが無いよ」
空木は、村西から渡された名簿を捲って、伊村という名前を探した。
「あった、伊村政人。住所は仙台市泉区だ。この名簿はいつ頃の名簿だ」
「何年か前の物だ。伊村は名簿からすると学年で俺の三つ下。年はストレートだとしたら三十九だな。それと伊村が、お前とは名古屋でも一緒の時期があったって言ってたぞ。まあ、担当地区が違ったら顔を合わせることはないから、親しくなることはないやろうけどな」
「名古屋でも重なってたのか。村西、この伊村君に連絡は取れないか。仙台支店で起こった事を知ってるかも知れない」
「残念ながら、無理やな。俺の家に架かってきた電話だし、電話番号の履歴は残っていない。それに会社を辞めたらしいから、名簿に載ってる仙台の住所にはもう居れへんやろ」
そう言うと村西は、空木に焼酎を注文しておいてくれと言って、トイレに立った。空木は焼酎と島らっきょうと本鮪の刺身を追加で注文した。空木は心の中で、浅見芳江に調査の着手料の礼を言った。
空木は、初めて聞く伊村政人という名前を思い出そうとしたが、思い出すことは出来なかった。自分に記憶がなくて、相手だけがしっかり覚えているというのは、気持ちの良いものではない。近いうちに、辞めた万永製薬の仙台の後輩に聞いてみようと思った。
焼酎と追加注文の品が運ばれてくるのと同じに、村西が戻った。
「おー。百年の孤独かよ。高い焼酎頼んだな」
「大丈夫、この焼酎分だけは俺が奢(おご)るよ」
二人は、らっきょうの匂いをぷんぷんさせながら、香ばしい麦の香りの琥珀色に輝く焼酎を飲んだ。
ここ居酒屋での締めは焼きお握りだ。味噌を塗った焼きお握りは美味かった。
スナックの先客は、商店主らしい二人連れだけで空いていた。サラリーマンが休みの土曜日はこの辺りの飲み屋は暇なのだろうと空木は思った。
空木と村西はウイスキーの水割りを飲み始めた。
「伊村という後輩は、何故俺のことを覚えていたのかな。俺は名古屋時代はもちろん、仙台時代も全く記憶にない」空木は手にしたウィスキーグラスを見ながら言った。
「何回会っても、覚えて欲しい人は中々覚えてくれへん。たった一回会っただけでも生涯記憶に残る人もおる。顔は思い出せなくてもその人の言葉ははっきり覚えている。そんなことってあるからな」
村西は煙草を燻(くゆ)らせた。
「嫌なことで記憶に残っているのかな」
「それはないやろ。それだったら機会があったら会いたいとは言わんやろう。殺したいくらい憎んでいたら、居場所を教えてくれと言うだろうし、お前さんの住所はホームページで分かってるよ。伊村は余程お前のことを良い人だと思っているんやないか」
「だとすると、俺が覚えていないというのは随分失礼な話になるな」
「その通りだ。空木、お前会わないほうが良いかも知れんな。良いイメージが台無しになるぞ」そう言って村西は笑った。
いつの間にか日付が替わっていた。
死体が発見された日の前夜遅く、醒ヶ井の駅付近から乗客を乗せたというタクシーが見つかった。そのタクシーは彦根にあるタクシー会社で湖東タクシーといい、運転手は高柳という運転手だった。
高柳によれば、深夜一時頃、迎車の依頼が入り、醒ヶ井の駅付近から大垣の駅近くのビジネスホテルまで乗せた。その客は、深夜にも関わらず色付き眼鏡をかけ帽子を被ったままだった。行き先を言った後は、話しかけても全く話はしなかった。大垣のホテルには深夜二時頃着いた。
さらにそのホテルでの聞き込みでは、その男は、午後四時頃チェックインした、藤田勇二という客ではないか、ということだった。その男は、チェックインの際はザックを持ち、一時間ほどして、ルームキーはフロントに預けずに持ったまま出かけた。その際、帰りは深夜になるが、ホテルの玄関ドアは開いているかと確認していたこと、色付き眼鏡と帽子を被っていたのが特徴的だったことで、フロントの係員はよく覚えていた。
車については、車で来たのか確認した際に、車はここには置かないとのことでナンバーは聞かなかったが、黒っぽい車で出かけたように思うとのことだった。
夜、何時に戻ったか分からないが、朝は登山姿で午前七時半ごろチェックアウトした。
この男がチェックインの際に記入した電話番号は使われておらず、また記載された住所の、東京都千代田区四番町七を管轄の麹町署に当たってもらったが、該当するマンションも藤田勇二という男も存在していなかった。
この聞き込みから、重要容疑者である色付き眼鏡の帽子の男は、名古屋の登山用具店でザック他を購入した後、大垣のホテルにチェックインした。そしてここから名古屋に戻り、浅見豊を殺害したと、推測された。
そして殺害後、深夜、車で死体をあの廃屋まで運んだ。死体を置いた後は、歩いて醒ヶ井駅付近まで行き、呼んだタクシーで大垣のホテルまで戻った。車は登山口周辺の林道に停め、翌日の逃走用に置いて行った。
そして翌日、大垣駅から柏原駅に向かい、霊仙山に登り、空木健介の尾行のターゲットになった。空木健介に死体を発見させた後は、置いていた車で逃走した。こういう足取りが考えられると報告された。
次に、湯の山温泉の単独男性の宿泊客の洗い出しについては、当該の二百三名の宿泊客全ての宿泊名簿から、確認作業を急いでいるが、不在の人も多く、全ての所在確認は取れていない。所轄の協力も得ながら確認を急ぐと報告された。
被害者の怨恨の線の調査について、金銭、女性、社内それぞれについての聞き込みが報告された。
金銭関係については、目下のところ社内社外での怨恨に繋がるような情報はなかった。
社内の人間関係についても、東亜製薬名古屋支店の社員を中心とした聞き取りが行われ、被害者の仙台支店在籍時のことは分からなかったが、何かがあって社内で口止めされている可能性も考えられ、状況次第では仙台での聞き取りが必要になるかも知れない、と報告された。
女性関係に関する調査で新たな報告がされた。浅見豊の会社にあった名刺ホルダーから飲食店を当たった結果、被害者と親しくしていたと思われる女性が浮かんだ。それは、名古屋の繁華街である錦のスナック『優』のママで中島優子と言い、浅見豊が殺害される一週間前に千種のマンションの部屋に入った、とのことであった。
中島優子によれば、浅見豊とは親しい関係ではなく、今まで何回も部屋に寄るようにしつこく誘われていた。その夜も、浅見は閉店までお店に居て、しつこく誘われ、寄るだけということで初めて部屋に入った。そして、浅見が風呂に入っている間に部屋を出た、ということであった。中島優子の毛髪と、部屋から採取された毛髪は、同一の物と確認された。
最後に、「仲内」姓の調査状況について報告された。それによると確認されているだけで、全国で二百四十九世帯の仲内姓がある。全国の警察が各所轄で調査協力してくれている。この滋賀県でも三軒が該当したが、いずれも事件に関係しそうな情報はなかった。和美、好美の名前が、実在するかどうかも分からない中での調査だけに、大きな期待は出来ない。また、時間も掛かるだろうと報告された。
捜査は少しずつ進展しているものの、犯人に直接結びつくような情報、犯行に繋がる動機の手掛かりなどは浮かんでこなかった。
捜査会議で出された意見は、被害者の仙台支店時代のことを詳しく調べる必要があること。そして、空木に尾行を依頼した理由がどうしても疑問として残る。空木を巻き込むことが目的だったとしたら、やはり空木健介の周辺、人間関係に手掛かりがあるのではないか、という意見も出されたが、設置から二週間近くが経過した捜査本部の人数は、今後縮小することもあり、積極的な捜査は見送られた。
名古屋から戻った空木は、東京駅で浅見芳江と別れ、七十七銀行へ向かった。
七十七銀行の東京支店は、予め新幹線の車中でその所在地は調べておいた。七十七銀行東京支店は、地下鉄の東銀座駅から二、三分の所にあった。
空木は、ATMで芳江から預かった通帳に記帳した。予想した通り、水道料の振込みに使われた口座、通帳だった。半年に一度入金され、二ヶ月に一度の割で三千円弱の金額が引かれていた。残額は僅かな通帳であったが、その中で最後の入出金が目を引いた。それは昨年十二月に五十万の入金、今年一月に同額の出金が記帳されていた。入金先はトウアセイヤクカブとあった。
記帳を終えた空木が、自宅マンションの部屋に戻ったのは午後五時をまわった頃だった。
空木は、浅見芳江の家に電話をした。芳江は帰宅していた。空木は、明日通帳を返しに伺いたいが都合はどうか聞いた。芳江は午後なら在宅ということだった。
芳江への電話の後、空木は万永製薬入社同期だった村西の携帯に電話を入れた。この時間帯は、製薬会社の営業職であるMRの最も忙しい時で、携帯は留守電となった。空木は、時間が空いたら電話が欲しい旨の伝言を入れておいた。
石山田に電話をした。石山田は、今日は時間が空かない、ということだった。やはり一番ヒマな人間は自分だと空木は思った。石山田は湖東警察からの情報として、浅見豊のマンションで採取された毛髪が誰の物か判ったこと。色眼鏡に帽子の男の、前日の足取りが見えてきたこと、などの連絡があったことを話した。
空木は、名古屋に行って、わかったことを石山田に伝えた。依頼の写真は、東亜製薬の名古屋支店の前で撮った写真で、大通りの公園側から撮られた物であること。浅見豊のマンションから通帳が見つかったこと。通帳を記帳したところ、そのほとんどは水道料の引き落しに使われていたが、直近の一件だけ、五十万の入出金があり、それは昨年の十二月から今年の一月にかけてのものだったこと。
石山田は、この情報は湖東警察の大林に伝えておくと言った。石山田は最後に、やはり空木健介の周囲の人間関係を洗うことが、犯人の手掛かりを掴むことに繋がるという意見も、湖東警察の捜査会議で出たということを空木に伝えた。
石山田との電話中に、電話が入っていた。同期の村西からの折り返しの電話だった。今度は、空木が折り返しの電話を入れた。村西が出た。
村西とは三月の末から会っていないが、万永製薬に入社以来の親友である。要件を掻い摘んで話し、明日にでも会えないか聞いた。村西は、明日の土曜なら空いているということであった。六時に新宿で待ち合わせる約束をして電話を切った。
翌日の土曜日は、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。
空木は、朝食のロールパン、目玉焼き、ハムを食べ、愛車の50ccのバイクで、久し振りに体育センターに出かけ、トレーニング室で汗を流した。ここしばらく、アルコール摂取量がさほど多くはなかったせいか、三キロのランニングも、百五十ワット負荷のバイク漕ぎもさほど苦しくはなかった。ウェイトトレーニングを終え、心地良い汗と心地良い筋肉の張りを感じながら、シャワーを浴びた。
独身の空木は、ジャンクフード、ファストフードは食べ慣れているが、中でもココイチのカレーは大好物である。パリパリチキンカレーで腹を満たし、浅見宅へ向かった。
浅見芳江は、クリーム色のコットンパンツと、水色の半袖のポロシャツ姿で、年齢より若く見えた。
芳江は、空木に名古屋での礼を述べ、応接ソファーに招き、コーヒーミルで豆を挽いてコーヒーを入れた。
「ひつまぶしも味噌おでんも美味しかったけど、新幹線の名古屋駅のホームで食べたきしめんが一番美味しかったわ」芳江は嬉しそうに言った。
空木は、名古屋からの帰り、どうしても駅ホームの、立ち食いのきしめんが食べたかった。芳江には申し訳ないと思いつつ、付きあわせてしまうことになったのだった。そのきしめんが美味しかったと芳江は言っていた。
「いや、あんなお昼ご飯になってしまって、奥さんには申し訳ありませんでした。失礼とは思いましたが、何事も経験というつもりでお誘いしてしまいました。新幹線の名古屋駅のホームのきしめんは、サラリーマンの間では評判なんです」
「本当においしかった」芳江は笑った。
空木は、コーヒーカップをテーブルに置き、預かっていた七十七銀行の通帳をテーブルに置いた。
「通帳、お返しします。私の予想通り、水道料の払い込みのための口座でした。ただ、見ていただければ判る通り、一回だけそれとは違うお金の入出金がありました。奥さんは御存知ありませんでしたか」
空木は、記帳された通帳を芳江の方に押しやった。
「知りませんでした」芳江は答えながら、手に取った通帳をめくった。
「昨年の十二月に五十万ですか‥‥。この日は確か主人の会社の賞与の支給日だったと思います。それで‥‥」
芳江は何かに合点したようだった。少し待って欲しいと言ってソファーを立ち、しばらくして戻ってきた。
「やはり賞与の支給日でした。主人は賞与の一部がこの口座に入るように会社に指定したようです。何のためか分かりませんが、確か私が夏より随分少ないのね、と言ったら、成績が悪かったから、と言っていたことを覚えています」
芳江は七十七銀行の通帳を見ながら言った。
「翌月にすぐに引き出していますね。何に使ったんですかね」
「主人は買い物をする時はほとんどカードでしていたはずですから、現金で五十万というのは私には思い当たりません」
空木は、浅見豊は誰かに借金していたか、女性に貢いだか、ではないかと考えたが、芳江には聞けなかった。名古屋のマンションから採取された毛髪の主が判ったことも、空木は芳江には伝えるのを止めた。芳江もそれについて聞きはしなかった。
空木は長居を詫びてソファーを立った。玄関まで送りに出た芳江は、空木に少し厚めの白い封筒を手渡した。
「空木さんには、本当に何と言ってお礼を言って良いのか言葉がありません。中にお礼の手紙を入れてあります。後でお読みください」そう言って芳江は深々と頭を下げた。
外は小雨が降り始めていた。空木はマンションのエントランスで白い封筒を開けた。中には便箋とともに、かなりの枚数の一万円札が入っていた。その便箋にはこう書かれていた。
空木健介様
前略
名古屋では、マンションの後片付けから荷物を送り出すまで、そして主人の会社への御挨拶もご一緒いただいたこと、その上、大変美味しく、そして珍しいお食事にもお誘いいただいたこと、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。
主人を亡くして十日も経たない中、一人で見知らぬ所へ行くのは心細い限りでしたが、空木さんのお陰で無事、所用を片付けることが出来ました。そして、空木さんのお心遣いには、涙が出るほど嬉しく、主人が亡くなったことも一瞬忘れてしまうほどでした。
主人が亡くなり、息子と二人だけの生活になりますが、息子のため、そして私自身のために強く生きて行こうと思っています。
同封したお金は、空木さんに名古屋で散財させてしまったお金の、幾何(いくばく)かにしていただければ幸いです。それと、探偵の空木さんへの依頼料が含まれています。それは、主人が仙台に赴任当時、何があったのか調査していただきたいのです。主人は仙台が初めての単身赴任でした。赴任して一年程経った頃から、帰ってくる回数が減り、私との関係も冷えました。私は女性が出来たのでは、と思いましたが、問い詰めることもしませんでした。もしも、その事が今回の事に繋がっているとしたら、あの時、問い詰めていればこんな事にはならなかったかも知れない、と思い始めています。どうか調べていただき、本当の事を教えていただきますようお願い致します。
またお会いできる日を楽しみにしております。
梅雨空が続く毎日、どうぞお体に気を付けてお過ごし下さいませ。
かしこ
浅見芳江
空木はフーッと息を吐き、封筒をポケットにしまった。
小雨が降る中、空木は中央線に乗り、村西と待ち合わせの新宿へ向かっていた。土曜日の中央線は比較的空いていた。
車中で空木は、浅見芳江の手紙を思い返した。浅見豊の仙台での生活で起こったこととは何か。芳江の手紙は一昨年から様子が変わった。女性が出来たのでは、と書かれている。
東亜製薬の名古屋支店の社員たちは、仙台のことは敢えて知らないと、言っているようだ。通帳に記帳された五十万と関連しているのだろうか。もしかしたら、女性関係のもつれから誰かに脅されていた。それで五十万が必要となった。しかし、それで支払ったとしたら、何故殺されなければいけなかったのか、犯人にすれば金づるになる人間を殺す理由は何か。
こんな事を探偵見習いのような自分が調べられるのだろうか。
しかし、芳江は何故、今になって女性がいたかも知れないと、自分に知らせたのか、しかも手紙で。湖東警察の大林にも、石山田にも言う機会はあったのにと思った時に、電車は新宿駅に着いた。
空木が、待ち合わせの新宿プリンスホテルのロビーに着いた時には、村西は既に待っていた。二人は軽く手を挙げ「おーっ」と合図ともうめき声ともつかない挨拶をした。
二人が新宿で飲む時は、ここから程近い歌舞伎町の小料理屋と決まっている。二軒目は、職安通り方面に五、六分歩いたところのビルの四階にあるスナックだ。
村西良太、四十三歳、空木とは万永製薬の同期入社だが、村西は一浪しているため、年齢は空木より一つ上だった。アルコールは滅法強く、所謂ザルである。二人は昇給、昇格もほぼ同じだったこともあって、お互いに良き相談相手だった。
空木が三月に退職する際に村西が必死に止めたのも、多分にそういったことから来る寂しさからだった。空木も、村西を残して辞めることに心の痛みはあった。
しかし、昇給、昇格、保身のために人脈にしがみついたり、仮面をいくつも被っている先輩、上司を見ていると、会社という組織の中で、自分自身の歩いて行く道に不安を感じない訳にはいかなかった。
村西からは、そんな会社を俺たちで変えようと説得されたが、空木は一度、門外漢となって客観的に自分を見つめてみたかった。謂わば、サラリーマン失格なのだが、空木自身はサラリーマン、特にMR職は好きであった。
そんな村西との三月以来の一献であった。
空木は、帝都薬科大卒の繋がりで、東亜製薬の事を知りたいと思うようになった経緯を、順を追って村西に説明した。
「そんな事に巻き込まれていたんか、空木、探偵業も楽やないな」
村西の生まれは奈良だった。関西弁を敢えて使っている訳ではないが、べったりの関西弁を減らす意思も全くない男だった。
「お前からの電話で、東亜製薬に誰かいないか名簿を繰りながら思い出そうとしたけど、内緒で内情を話してくれるような友達は思い当たらん。東亜製薬へ行く連中は真面目な奴が多いし、俺ははみ出しもんやったからな。おらんわ」
村西は、酒の肴の島らっきょうを摘まみながら、ビールを飲み干した。
「やっぱりそうか。無理かも知れないと思っていたけどな」
空木もビールを飲み、北寄貝の醤油焼きを摘まんだ。
村西は、カバンから名簿のコピーを出し、空木に渡した。それは帝都薬科大の同窓会名簿のコピーで、村西の学年の前後三年間ずつ、合計七年間分だった。そこには、現住所、現在の勤務先も記載されていた。病院勤務、薬局経営、薬局勤務そして製薬会社勤務もかなりあった。東亜製薬も毎年五、六人はいた。
空木が名簿を見ていた時、村西が思い出したように言った。
「そう言えば、四月だったか五月だったか忘れたけど、後輩で東亜製薬に勤めておる奴から電話が架かってきて、お前のことを聞かれたぞ」
「えっ俺のこと。それは誰、この名簿に載ってるのか」
「載ってるはずだ。大学で俺を知っていたと言ってたから。‥‥確か名前は伊村だ」
「突然電話してきたのか」
「突然と言えば突然やけど、名古屋で何年間か俺と一緒の病院を担当していたことがあって、その縁で俺に聞きたい事があって電話してきたみたいだ」
「それで俺の何を聞いてきた」
「スカイツリー万(よろず)相談探偵事務所という名前をホームページで見たが、あれは村西さんと一緒の会社にいた、空木さんが開いた事務所かって聞くから、そうやと答えた。どうかしたのか聞くと、自分も会社を辞めたので、空木さんは自分の事を覚えてはいないだろうが、自分は良く覚えている。機会があったら会ってみたいって言ってた。空木お前、こいつと仙台で一緒の時期があったんやないか」
「仙台で一緒の時期か。俺が札幌へ転勤する直前かな。東亜製薬の伊村、覚えが無いよ」
空木は、村西から渡された名簿を捲って、伊村という名前を探した。
「あった、伊村政人。住所は仙台市泉区だ。この名簿はいつ頃の名簿だ」
「何年か前の物だ。伊村は名簿からすると学年で俺の三つ下。年はストレートだとしたら三十九だな。それと伊村が、お前とは名古屋でも一緒の時期があったって言ってたぞ。まあ、担当地区が違ったら顔を合わせることはないから、親しくなることはないやろうけどな」
「名古屋でも重なってたのか。村西、この伊村君に連絡は取れないか。仙台支店で起こった事を知ってるかも知れない」
「残念ながら、無理やな。俺の家に架かってきた電話だし、電話番号の履歴は残っていない。それに会社を辞めたらしいから、名簿に載ってる仙台の住所にはもう居れへんやろ」
そう言うと村西は、空木に焼酎を注文しておいてくれと言って、トイレに立った。空木は焼酎と島らっきょうと本鮪の刺身を追加で注文した。空木は心の中で、浅見芳江に調査の着手料の礼を言った。
空木は、初めて聞く伊村政人という名前を思い出そうとしたが、思い出すことは出来なかった。自分に記憶がなくて、相手だけがしっかり覚えているというのは、気持ちの良いものではない。近いうちに、辞めた万永製薬の仙台の後輩に聞いてみようと思った。
焼酎と追加注文の品が運ばれてくるのと同じに、村西が戻った。
「おー。百年の孤独かよ。高い焼酎頼んだな」
「大丈夫、この焼酎分だけは俺が奢(おご)るよ」
二人は、らっきょうの匂いをぷんぷんさせながら、香ばしい麦の香りの琥珀色に輝く焼酎を飲んだ。
ここ居酒屋での締めは焼きお握りだ。味噌を塗った焼きお握りは美味かった。
スナックの先客は、商店主らしい二人連れだけで空いていた。サラリーマンが休みの土曜日はこの辺りの飲み屋は暇なのだろうと空木は思った。
空木と村西はウイスキーの水割りを飲み始めた。
「伊村という後輩は、何故俺のことを覚えていたのかな。俺は名古屋時代はもちろん、仙台時代も全く記憶にない」空木は手にしたウィスキーグラスを見ながら言った。
「何回会っても、覚えて欲しい人は中々覚えてくれへん。たった一回会っただけでも生涯記憶に残る人もおる。顔は思い出せなくてもその人の言葉ははっきり覚えている。そんなことってあるからな」
村西は煙草を燻(くゆ)らせた。
「嫌なことで記憶に残っているのかな」
「それはないやろ。それだったら機会があったら会いたいとは言わんやろう。殺したいくらい憎んでいたら、居場所を教えてくれと言うだろうし、お前さんの住所はホームページで分かってるよ。伊村は余程お前のことを良い人だと思っているんやないか」
「だとすると、俺が覚えていないというのは随分失礼な話になるな」
「その通りだ。空木、お前会わないほうが良いかも知れんな。良いイメージが台無しになるぞ」そう言って村西は笑った。
いつの間にか日付が替わっていた。
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