4 / 16
被害者
しおりを挟む
湖東警察署の捜査本部には、朝早くから何本かの問い合わせが入っていた。皆、新聞の記事を見ての電話だったが、該当する人ではなかった。
女性の声で電話があったのは午前十時ごろだった。落ち着いた感じの、女性の声で、新聞に出ていた身元不明者が、名古屋に単身赴任している主人に良く似ている。金曜日の午後に、名古屋の勤務先から、連絡が取れないという知らせがあり、今日になっても連絡が取れない、ということであった。
捜査本部は、勤務先でご主人を良く知っている方と一緒に、米原の湖東警察署に御出で願いたいと告げた。その際には、指紋の照合が出来るものを持参してくれるよう依頼した。その女性は、東京から米原に向かうと言った。
米原駅に、スーツ姿の男性二人と中年女性が降り立ったのは、午後三時過ぎであった。湖東警察署からは大林が車で迎えに出ていた。四人は湖東警察署に向かい、二階の捜査本部横の会議室に入った。
女性は浅見芳江と言った。色は白く大柄で、ベージュの袖なしのワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織っていた。スーツ姿の二人は塩野と梅田と名乗り、塩野は課長の肩書きの名刺を差し出し、勤務先は東亜製薬株式会社とあった。三人ともかなり緊張した様子で、署長、刑事課長と挨拶し、大林の案内で、早速地下の遺体安置所に向かった。
銀色のステンレス製の遺体安置箱から引き出された死体は、ドライアイスで囲まれていた。最初に死体の顔を見たのはハンカチを口にあてた浅見芳江だった。
「主人です。間違いありません」
死体の顔を見つめながら、小さな声であったが、驚くほど冷静に言った。
芳江の言葉に驚いたように、塩野と梅田の二人が覗き込んだ。
「部長」二人は同時に、小さな声で叫んだ。
芳江の目からは涙がこぼれ落ちていた。
「ご主人に間違いないでしょうか」大林が念を押す。
「間違いありません。でも何故‥‥‥」
芳江が小さく頷きながら答えた。
塩野と梅田の二人も、浅見部長に間違いないと言った。
「ご主人が何故このようなことになったのか、捜査中です。奥様にはお辛いでしょうが、一刻も早く、犯人を捕まえるためにご協力をお願いします」
三人は大林に案内され、二階の小会議室に入った。芳江は家から持参した、ハンカチに包んだ電気カミソリを大林に渡した。
「主人は月に一度位しか東京には戻ってきませんでしたから、指紋が付いているものが、ほとんどありません。これが一番可能性があるかと、思いました」
大林は芳江が持ってきた、電気カミソリを受け取った。
「申し訳ありません。確認に使わせてもらいます。指紋が出なくても三人に確認していただいていますので」
大林はもう必要ないと、言いそうであったが、カミソリを若い刑事に渡し、鑑識に回すよう指示した。
被害者の氏名は浅見豊。留守宅住所は東京国立市中二丁目。年齢は芳江の五つ上で、五十歳。結婚して二十年で、子供は高校生の男の子が一人。浅見は、東亜製薬の名古屋支店の業務部長で、昨年の四月から名古屋に単身で赴任していた。住まいは名古屋市千種区今池一丁目のマンションだった。芳江が浅見豊に最後に会ったのは、五月の連休での長期の帰省の時が最後だった。
「その時、ご主人に変わった様子はありませんでしたか」
大林が聞いた。
「変わった様子はなかったと思いますが、一度だけ携帯電話で随分長く話していた時がありましたが、特に変わった様子はありませんでした」
次に、塩野と、梅田が会社での浅見の様子を話した。
それによると、浅見は昨年の四月に仙台支店から転勤してきた。職場内、取引業者との間にもトラブルは無く、問題は無かった。木曜の夜、三人で支店近くの金山の蕎麦屋で飲んで、十時過ぎに別れた。金曜日は出社してこなかったが、たまに連絡なしに午前中休むことがあったので、気にはしなかったが、午後になっても連絡がなかったので携帯に電話したが、電源が切られているようだった。マンションにも行ったが、鍵が掛かって留守だった。それで東京のご自宅に連絡した。こういうことであった。
大林は、死亡推定時刻は木曜日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められての絞殺。当初は服装からして、山から下りて来て凶行にあったかと、思われたが、状況から他の場所で殺害され、あそこに運ばれたものと判断していること。これらのことを三人に説明した。
大林は、浅見は誰かに怨まれているようなことはなかったかと、質問したが、三人とも人から怨まれているようなことは、全く見当がつかないという答えだった。
「浅見さんは、趣味で山登りはされてましたか」
大林は三人に聞いた。
「いえ、東京では登っていませんでしたし、聞いたこともありません」
芳江はハンカチを口に当てながら、首を傾げた。
「支店内でも浅見部長が山に登っているという話は聞いたことがありません」塩野だ。
「私は山が好きで、たまに登りますが、部長が山好きという話は聞いたことがありませんし、以前私が山の話をして、登ってみませんか、と言ったら断られましたから、山は登ったことはないと思います」と梅田が続いた。
これから三人はどうするのか、大林は聞いた。塩野と梅田は名古屋に戻って、支店長と相談したいと言った。芳江は明日にでも、遺体を東京の国立へ運びたい、ということで、その手配と芳江の宿泊の手配を大林はした。
空木の携帯が鳴った。石山田からだった。
「健ちゃん、被害者の身元が割れた。名古屋の会社員で名前は浅見豊。自宅住所が驚きだよ、国立だぞ」
「えっ、国立」
何という偶然だと、空木は思った。
「名古屋に単身赴任していたそうだ。それと勤務先が東亜製薬だと言っていた。健ちゃんの勤めていた会社とは違うけど、同業じゃないのか」
「東亜製薬は大手だ。確かに、製薬会社としては同業だけど。俺と付き合いのある人間はいないよ」
空木は、東亜製薬には知り合いはいなかったか、と考えながら言った。
「偶然が重なったお陰か、健ちゃんは押しも押されもしない重要容疑者だ。大林刑事が話を聞きにこっちに来るそうだ」
「マジで」
「嘘だよ。でも来るのは本当だ。被害者の葬儀に参列しに来る。ついでに健ちゃんから借りた物を返しに来るらしい。葬儀は参列というより聞き込みだろうけど。俺にも同席してほしいと言っている。健ちゃんも行くか」
「俺が行っても構わないのかな」
「第一発見者ということで、奥さんに挨拶したらどうだ。それなら大林刑事も何も言わないだろう。場所と日時が決まったら、また連絡する」
石山田は空木を連れて行くことを最初から決めていたようであった。
「巌ちゃん、被害者の住所を詳しく教えてくれ。明日、様子を見てきたい」
「教えるけど、俺も行くから、一緒に行こう。大林刑事に依頼されている仕事なんだ。住所は国立市中二丁目セントラルマンションだ」
翌日も雨だった。そのマンションは桐朋学園と一橋大学のある閑静な地区にあった。レンガ張りの六階建の四階だった。
石山田が管理人に警察証を見せ、浅見家の様子を聞いた。三人家族だが、主人は単身赴任で普段はいない、とのことで大林の話と符号していた。ここ一、二ヶ月の間で、浅見家を訪ねて来た人間がいたかどうか、記憶にないかと聞いたが、浅見家に訪ねてくる人はめったにいないので、来れば記憶に残るが覚えはない、との答えだった。何か浅見家にあったのかと、管理人が聞いたが、石山田は何も答えなかった。
この管理人は、明日の新聞を見て驚くことだろうと空木は思った。
通夜は翌火曜日に行われた。JR南武線の谷保駅から程近い斎場で六時から行われ、小雨の降る中、二百人近い参列者が集まった。浅見家のマンションからは車で五分程の距離だった。喪主である芳江はハンカチと数珠を手に、親戚の人たちなのか、挨拶をしていた。横には息子と思われる背の高い、制服を着た男の子が立っていた。
大林と石山田、空木は一番後ろの椅子に座り、参列者の様子を窺っていた。
塩野と梅田も参列していた。参列者の焼香が終わり、喪主である芳江の、参列者へのお礼の挨拶が終わった。
大林は、芳江に石山田と空木を紹介した。石山田は国分寺警察署の刑事であること。空木はご主人の死体を発見し、通報した人間であることを紹介した。三人はお悔やみを述べて会場の外にでた。
外に出た大林は塩野に声をかけ、浅見の上司である支店長に話を聞きたい旨を伝えた。塩野は少し離れた、支店長と思われる礼服姿の男に耳打ちした。二人は、大林たち三人の方に来て、挨拶した。
「名古屋支店長をしております、篠村と申します」
白髪混じりの篠村は名刺を渡しながら挨拶した。
「滋賀県警湖東警察署の大林です。こちらは国分寺警察署の石山田刑事と発見者の空木さんです。少しだけお話を聞かせていただきたいのですが‥‥、時間は取らせませんので」
大林は、二人を紹介しながら言った。
大林、石山田両刑事と篠村は、斎場の隅のテーブルに座った。
「お聞きになっておられると思いますが、浅見さんは殺害されました。殺人事件です。上司である支店長さんから見て、浅見さんが仙台から転勤して来てから、変わったこと、気なることはありませんでしたか」大林は篠村の顔をじっと見ながら訊いた。
「名古屋に来てから、特に変わった様子というのは無かったと思います」
「名古屋に転勤して来たのは、本人が希望したんですかね。支店長さんはその辺はご存知ありませんか」
「浅見君が希望したかどうかは分かりません。ただ、自宅のある東京を跳び越して、名古屋での単身を希望する人間もそうはいないと思います。私は可哀相だと思いました」
「仙台で何かあったとか」
「それは私には全く判りません」
篠村は仙台のことは仙台に聞いてくれと言わんばかりに答えた。
大林、石山田、空木の三人は、食事を摂りに通夜の会場を出て、国立駅方面へ向かった。
石山田は大林を行きつけの居酒屋に誘った。
三人は、奥の小上がりに上がって、お浄めと称して飲み始めた。
「あの支店長の、最後の答え方が少し気になりましたが、石山田刑事はどう感じましたか」
「仙台のことは仙台に聞いてくれ、という感じでしたね」
「それはそれで尤もなんですが、何か引っ掛かる。大会社の偉いさんはあんな感じなんですかね」
大林が言った。
聞いていた空木がニラレバを食べながら。
「あの時の支店長の目は一瞬ですが、下を向きました。事件に関係するかどうかは判りませんけど、仙台で何かあったかも知れないですね」
口を挟んだ空木は、もうビールから焼酎に変わっていた。
告別式は翌日の十時からで、梅雨空だった。平日の午前のためか、昨日の通夜より参列者は減っていた。空木たち三人は、昨日同様、会場の一番後ろの椅子に座って、参列者を観察していた。東亜製薬の名古屋の支店長の姿はなかったが、塩野と梅田の姿はあった。出棺が終わった。大林は塩野に軽く会釈をし、近づいた。
「ちょっとだけ話が聞きたいのですが、時間はありますか」
「名古屋に戻るだけですから。大丈夫ですけど。どんなことですか」
「浅見さんの仙台時代のことで聞かせて欲しいんです」
「仙台ですか‥‥‥」塩野は怪訝な顔をした。
「仙台の支店の方は昨日、今日と来ておられましたか」
「ああ、来ていたと思いますが、私は顔を知らないので誰かは分かりません。東北の山の話しをしているのが聞こえましたから、多分、仙台支店の人たちだと思います」
「そうですか。ところで、社内で何かあって名古屋に移られたというようなことはなかったんでしょうか」
「何かって言われても困るんですが。‥‥‥ここだけの話にして下さい。噂ですけど、女性関係で異動になったんじゃないかと、耳にしたことがあります。部長は仙台のことを我々には全く話しませんでしたから、本当のところは分かりません」
塩野の顔は、これ以上は簡便してほしいと言っていた。
「いや、ありがとうございました。十分です」
大林と石山田は塩野に礼を言った。
三人は、車で国立駅へ向かった。
「大林刑事、仙台へ行きますか」
車中で石山田が聞いた。
「いや、会社として公に話せることでも無さそうですし、噂の中身程度なら名古屋でも聞けるかも知れません。本部に帰って課長と相談してみます」
大林は答えながら、今度は空木の方を見た。
「空木さん、名古屋のイシダスポーツはご存知ですか」
「市内の栄にある店ですか」
「さすがに良くご存知ですね」
「その店がどうかしたんですか」
「被害者の着ていた服とザックが売られた店のようです」
「被害者が買ったんですか」
「いえ、写真を見た店員の記憶では、被害者ではなく別人です。恐らく、買ったのは犯人ではないかと睨んでいます。購入日は六月九日木曜日の昼だったそうです。同じザックを二つ一緒に買っていったので、店員が覚えていたそうです。それと10ミリのザイルも買ったそうです。ただ、顔は色付き眼鏡と帽子で、はっきりとは分からなかったそうですが」
「色付き眼鏡と帽子。健ちゃん尾行していた男と一緒じゃないか」
石山田が確認するように言った。
「そうだね」
空木は言いながら、俺が尾行していた男が犯人なのかも知れないと考えていた。
「しかし、もし買った男と、尾行されていた男が同一で、しかも犯人だとしたら、大胆な奴だ」
石山田が空木の考えていたことを口にした。
「大林刑事、被害者の名古屋のマンションの捜索はどうだったんですか。何か手掛かりになるようなものは出ましたか」石山田が大林に顔を向けた。
「今日辺り調べているはずです。犯人の手掛かりになるようなものが出ればいいんですが。せめて女の匂いでもでれば」
「そうですね、こっちは明日にでも浅見の奥さんを当たってみましょう」
三人は国立駅で別れた。大林は今日の捜査会議までに戻りたい、ということで昼食は移動の車中で摂るという。石山田は、課長に報告すると言って署に戻った。一番ヒマな空木は、自宅マンション近くの豚カツ屋で昼を食べることにした。
翌日、小雨の降る中、石山田はレンガ張りのマンションに浅見芳江を訪ねた。管理人に挨拶をして、エントランスの部屋番号を押した。芳江は在宅だった。朝からの訪問を詫び、話を聞きたい旨をインターフォン越しに説明した。芳江は午後からは斎場に出かけるので一時間程度なら大丈夫だと言い、玄関のオートロックを解除した。石山田はエレベーターで四階に上がった。監視カメラ付きのエレベーターだ。芳江は石山田を十畳ほどのリビングに案内した。広いマンションの部屋であった。芳江は石山田に紅茶を用意して、ソファーに座った。
石山田は、取り込みのところへの訪問を再度詫びた。
「申し訳ありません。一つ、二つお聞きしたいことがあります。通夜、葬儀に参列されていた方たちで、見慣れない方とか、何か気になることとか、気付かれたこととかはありませんでしたか」
「親族や私のお友達以外は、見慣れない方たちばかりでしたし、参列していただいた方たちのお顔を改めて見ることも出来ませんでしたから、気になるようなことと言われましても、私は何も‥‥‥」
「それはそうですよね。つまらない質問をして申し訳ありません。そうだ、奥様、お香典の芳名記入帳はご覧になっておられますか」
「いえ、ゆっくりと見てはいません」
「昨日の今日ですから、当然ですね。そこに記入されている名前で気になるようなお名前でもあればと、思いまして‥‥」
芳江は少し待ってくれと言って、席を立ち、二冊の芳名記入帳を石山田の前に出した。
「少々拝見しても宜しいでしょうか。私が見ても誰の誰兵衛かさっぱり分かりませんけれど」
石山田は女性の名前だけでも見ておきたかった。
「構いません。ご覧になってください」
石山田は、パラパラと頁をめくっていった。芳名帳はサインペンで書かれていた。一冊目の女性名は六人いた。全て芳江の友人だった。二冊目は男性ばかりで、篠村、塩野、梅田の名前もあった。二冊目の終わりごろに女性名があった。名前は、「仲内好美」とあった。石山田はどこかで聞いた名前だと思ったが、思い出せなかった。
「奥さん、この方はご存知ですか。参列していましたか」
芳江は芳名帳を手元に寄せた。
「いえ、存じ上げない方です。参列していたかも知れませんが、女性の方たちで、私が顔を知らない方のご焼香はありませんでした」
芳江は思い出そうとしてか、眉間に皺を作りながら答えた。
「参列して、焼香しない人もいるんですかね」
「それは私には分かりません」
石山田は仲内好美の名前を手帳に書きとめた。
「奥さん、香典袋を見せていただけないでしょうか。この仲内という名前の方のものがあれば見せていただけませんか」
芳江はまた席を立った。二、三分後、これですといって石山田の前に差し出した。表書きの名前は筆で書かれていたが、内袋には金額だけで、名前も住所も記入されてはいなかった。
「住所は書かれていませんね。普通は書かれますよね」
「そうですね。名前も顔も知らない方でしたら、ご住所を書いていただかなければ参列のお礼状も出せません」
「奥さん、受付をされた方はどなたでしたか」
「斎場の方にしていただきました」
「そうですか、分かりました。ありがとうございました。それから、聞きにくいことなのですが、何度か名古屋には行かれていると思いますが、奥様から見て、ご主人には女性のお友達がいらっしゃったように思いますか」
驚くほどの冷静さで、凄い事を訊いている自分に、石山田は驚いた。
「高校生の息子が居りますので、何度も行ってはおりません。引越しの際に行ったきりです。女性については、親しいかどうかは分かりませんが、いても不思議ではないと思っていましたが‥‥‥」
芳江は芳名帳に目を落としながら答えた。
石山田は谷保駅近くの浅見豊の葬儀が行われた斎場へ向かった。浅見家の葬儀の受付をしたのは、小早川という三十前半の男性だった。小早川は女性の名前は覚えていないが、男性で女性のような名前を書いた人がいて、顔を見上げたら、代理で記帳させていただく、と言っていた、という記憶であった。その男は記帳した後、すぐに会場を去った、ということだった。顔の記憶はないが、頭の毛は短かったように思う、と話した。
国分寺署に戻った石山田は係長の柳田に報告した。柳田は石山田同様、刑事畑一筋のたたき上げである。刑事課長とはしょっちゅう口論している。柳田から、湖東警察の大林刑事から、午前中に電話があったことが伝えられた。柳田は、石山田が聞き込んだことを向こうの捜査本部に早く連絡してやれと言った。
石山田は、大林に今日の聞き込みの内容を知らせた。葬儀には参列していないが、「仲内好美」という女性の名前が浮かんだこと。その名前は、浅見芳江は覚えがないこと。その名前を記帳した男はすぐに会場を去ったこと。髪が短かったこと。これらを伝えた。
聞いていた大林は石山田に聞きなおした。
「仲内なんと言いました」
「仲内好美。人辺の仲に、内外の内、好き嫌いの好に、美しいの美です。ご存知ですか」
「いや、仲内という姓は、空木さんに尾行を依頼した仲内和美と同姓です。名前一字が違うだけです。偶然とは思えません」
石山田は、そうかと思った。どこかで聞いたような名前だと思ったのはこれだったのだ、と。
「偽名かも知れませんが、仲内姓で追ってみる価値はあるかも知れません。何軒あるか分かりませんが、全国の警察の協力を得られれば、潰していけるかも知れません」
大林は新しい情報に反応した。
「そちらの捜査はいかがですか」
石山田は、被害者である浅見の名古屋のマンションの捜索の状況を聞いた。
「被害者のマンションの近くに公園があって、夜は極端に人通りが少なくなります。殺害現場は公園若しくは、マンションの駐車場付近ではないか、と考えていますが、何も見つかりません。目撃者もいません。ただ、被害者の駐車場に、別の車が止まっていたのを住人が見ている、という聞き込みが取れました。事件に関係しているかも知れませんが、これ以上の情報はありません。それと被害者の部屋から男性の髪の毛とは明らかに違う、女性らしい髪の毛が採取されました。住所録のような物は見つかりませんでしたが、パソコンがありましたので、奥様の許可をいただいて中に入ることにしています。そこに仲内姓でもあれば良いのですが。それと浅見の仙台での噂話は名古屋の支店で調べてみることになりました」
「わかりました。こちらも協力しますので、何なりと言ってください」
「ありがとうございます。柳田係長にも宜しくお伝えください」
大林の話では捜査は進展しているように思われた。仲内姓で、さらに犯人の糸口が掴めるかも知れないな、と石山田も感じていた。
石山田は、空木に「仲内好美」の名前が浮かんできたことを知らせた。今日も、いつものところ「さかり屋」で会うこととなった。
二人は、いかの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めを酒の肴に飲み始めた。空木はジョッキを手にしたまま言った。
「同じ仲内姓を使うというのはどういうことなんだろう。偽名にしろ、実名にしろ、何がしかの意味があるように思う」
「どういう意味なのか。依頼者の仲内和美と、香典の仲内好美。犯人と何か関係している名前なのかも知れない」
石山田もジョッキを持ちながら言った。
「健ちゃん、もしかして、仲内和美って、かずよしって読むんじゃないか」
「ええ、じゃあ姉妹じゃなくて、兄妹とか姉弟とか」
「そう、それと夫婦もあるよ」
石山田はビールの泡を口の周りに付けながら言った。
「仲内姓って全国に何軒ぐらいあるのかな。調べるのは容易じゃないだろうね」
空木はニラレバを摘まみながら、石山田に聞いた。
「さあ、何軒ぐらいあるかな、数百軒はあるだろう。潰していくのは容易じゃないね。潰していって、ホシに当たると分かっていれば良いけど、偽名だとしたら無駄足だからね。辛いものがあるよ」
石山田は途方も無い作業だと言外に言っているようだった。
「それから健ちゃん、捜査本部は被害者の殺害された現場は、名古屋のマンション付近だと睨んでいるようだよ。被害者のマンションの駐車場に停まっていた不審な車も確認されている。その車と、林道から走って行った車が一緒なら、辻褄が合うな」
石山田は言ってから焼酎を頼んだ。
「一緒の車だとしたら、殺してから車で現場まで運べるわけか」
空木は頷きながら言った。
「そして、車を登山口辺りにおいて、戻る。電車は動いていないけど、タクシーなら駅まで出れば捕まえられるか、呼べる」
「向こうの捜査本部も、そう読んでいるだろう。タクシー会社とホテルを片っ端から洗っている筈だ。深夜に乗せる客は、大概は酔っ払いだ。素面で、田舎の駅から乗る客はそうはいない」
石山田は芋焼酎をロックで飲み始めた。
「それと、大林刑事から浅見芳江の毛髪を取ってくれるように頼まれた。被害者のマンションから、女性の物と思われる毛髪が採取されたらしい」
「やっぱり。でも奥さんには女の毛髪が取れたとは言いにくいね」
空木は、恰も、そういう経験をしたかのようなしたり顔で焼酎を飲み干した。
「そうなんだ、奥さんは名古屋には引っ越しの時しか行っていないと言っているしね。あとは、健ちゃんが見つけた花崗岩の石粒だけど、何とか岳の近くの温泉を当たっているらしいけど、単独で来る登山者は結構たくさんいるらしくて、ホシに繋がるような情報は取れていないようだ」
「御在所岳だ。麓の温泉は、湯の山温泉だったかな。俺は泊まったことはないけど、十軒以上あるからね」
空木は、自分が言ったことが解決の糸口に繋がってくれればと、思ったが、顔写真でもあれば別だが、何も無い中での聞き込みでは難しいだろうと思った。
女性の声で電話があったのは午前十時ごろだった。落ち着いた感じの、女性の声で、新聞に出ていた身元不明者が、名古屋に単身赴任している主人に良く似ている。金曜日の午後に、名古屋の勤務先から、連絡が取れないという知らせがあり、今日になっても連絡が取れない、ということであった。
捜査本部は、勤務先でご主人を良く知っている方と一緒に、米原の湖東警察署に御出で願いたいと告げた。その際には、指紋の照合が出来るものを持参してくれるよう依頼した。その女性は、東京から米原に向かうと言った。
米原駅に、スーツ姿の男性二人と中年女性が降り立ったのは、午後三時過ぎであった。湖東警察署からは大林が車で迎えに出ていた。四人は湖東警察署に向かい、二階の捜査本部横の会議室に入った。
女性は浅見芳江と言った。色は白く大柄で、ベージュの袖なしのワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織っていた。スーツ姿の二人は塩野と梅田と名乗り、塩野は課長の肩書きの名刺を差し出し、勤務先は東亜製薬株式会社とあった。三人ともかなり緊張した様子で、署長、刑事課長と挨拶し、大林の案内で、早速地下の遺体安置所に向かった。
銀色のステンレス製の遺体安置箱から引き出された死体は、ドライアイスで囲まれていた。最初に死体の顔を見たのはハンカチを口にあてた浅見芳江だった。
「主人です。間違いありません」
死体の顔を見つめながら、小さな声であったが、驚くほど冷静に言った。
芳江の言葉に驚いたように、塩野と梅田の二人が覗き込んだ。
「部長」二人は同時に、小さな声で叫んだ。
芳江の目からは涙がこぼれ落ちていた。
「ご主人に間違いないでしょうか」大林が念を押す。
「間違いありません。でも何故‥‥‥」
芳江が小さく頷きながら答えた。
塩野と梅田の二人も、浅見部長に間違いないと言った。
「ご主人が何故このようなことになったのか、捜査中です。奥様にはお辛いでしょうが、一刻も早く、犯人を捕まえるためにご協力をお願いします」
三人は大林に案内され、二階の小会議室に入った。芳江は家から持参した、ハンカチに包んだ電気カミソリを大林に渡した。
「主人は月に一度位しか東京には戻ってきませんでしたから、指紋が付いているものが、ほとんどありません。これが一番可能性があるかと、思いました」
大林は芳江が持ってきた、電気カミソリを受け取った。
「申し訳ありません。確認に使わせてもらいます。指紋が出なくても三人に確認していただいていますので」
大林はもう必要ないと、言いそうであったが、カミソリを若い刑事に渡し、鑑識に回すよう指示した。
被害者の氏名は浅見豊。留守宅住所は東京国立市中二丁目。年齢は芳江の五つ上で、五十歳。結婚して二十年で、子供は高校生の男の子が一人。浅見は、東亜製薬の名古屋支店の業務部長で、昨年の四月から名古屋に単身で赴任していた。住まいは名古屋市千種区今池一丁目のマンションだった。芳江が浅見豊に最後に会ったのは、五月の連休での長期の帰省の時が最後だった。
「その時、ご主人に変わった様子はありませんでしたか」
大林が聞いた。
「変わった様子はなかったと思いますが、一度だけ携帯電話で随分長く話していた時がありましたが、特に変わった様子はありませんでした」
次に、塩野と、梅田が会社での浅見の様子を話した。
それによると、浅見は昨年の四月に仙台支店から転勤してきた。職場内、取引業者との間にもトラブルは無く、問題は無かった。木曜の夜、三人で支店近くの金山の蕎麦屋で飲んで、十時過ぎに別れた。金曜日は出社してこなかったが、たまに連絡なしに午前中休むことがあったので、気にはしなかったが、午後になっても連絡がなかったので携帯に電話したが、電源が切られているようだった。マンションにも行ったが、鍵が掛かって留守だった。それで東京のご自宅に連絡した。こういうことであった。
大林は、死亡推定時刻は木曜日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められての絞殺。当初は服装からして、山から下りて来て凶行にあったかと、思われたが、状況から他の場所で殺害され、あそこに運ばれたものと判断していること。これらのことを三人に説明した。
大林は、浅見は誰かに怨まれているようなことはなかったかと、質問したが、三人とも人から怨まれているようなことは、全く見当がつかないという答えだった。
「浅見さんは、趣味で山登りはされてましたか」
大林は三人に聞いた。
「いえ、東京では登っていませんでしたし、聞いたこともありません」
芳江はハンカチを口に当てながら、首を傾げた。
「支店内でも浅見部長が山に登っているという話は聞いたことがありません」塩野だ。
「私は山が好きで、たまに登りますが、部長が山好きという話は聞いたことがありませんし、以前私が山の話をして、登ってみませんか、と言ったら断られましたから、山は登ったことはないと思います」と梅田が続いた。
これから三人はどうするのか、大林は聞いた。塩野と梅田は名古屋に戻って、支店長と相談したいと言った。芳江は明日にでも、遺体を東京の国立へ運びたい、ということで、その手配と芳江の宿泊の手配を大林はした。
空木の携帯が鳴った。石山田からだった。
「健ちゃん、被害者の身元が割れた。名古屋の会社員で名前は浅見豊。自宅住所が驚きだよ、国立だぞ」
「えっ、国立」
何という偶然だと、空木は思った。
「名古屋に単身赴任していたそうだ。それと勤務先が東亜製薬だと言っていた。健ちゃんの勤めていた会社とは違うけど、同業じゃないのか」
「東亜製薬は大手だ。確かに、製薬会社としては同業だけど。俺と付き合いのある人間はいないよ」
空木は、東亜製薬には知り合いはいなかったか、と考えながら言った。
「偶然が重なったお陰か、健ちゃんは押しも押されもしない重要容疑者だ。大林刑事が話を聞きにこっちに来るそうだ」
「マジで」
「嘘だよ。でも来るのは本当だ。被害者の葬儀に参列しに来る。ついでに健ちゃんから借りた物を返しに来るらしい。葬儀は参列というより聞き込みだろうけど。俺にも同席してほしいと言っている。健ちゃんも行くか」
「俺が行っても構わないのかな」
「第一発見者ということで、奥さんに挨拶したらどうだ。それなら大林刑事も何も言わないだろう。場所と日時が決まったら、また連絡する」
石山田は空木を連れて行くことを最初から決めていたようであった。
「巌ちゃん、被害者の住所を詳しく教えてくれ。明日、様子を見てきたい」
「教えるけど、俺も行くから、一緒に行こう。大林刑事に依頼されている仕事なんだ。住所は国立市中二丁目セントラルマンションだ」
翌日も雨だった。そのマンションは桐朋学園と一橋大学のある閑静な地区にあった。レンガ張りの六階建の四階だった。
石山田が管理人に警察証を見せ、浅見家の様子を聞いた。三人家族だが、主人は単身赴任で普段はいない、とのことで大林の話と符号していた。ここ一、二ヶ月の間で、浅見家を訪ねて来た人間がいたかどうか、記憶にないかと聞いたが、浅見家に訪ねてくる人はめったにいないので、来れば記憶に残るが覚えはない、との答えだった。何か浅見家にあったのかと、管理人が聞いたが、石山田は何も答えなかった。
この管理人は、明日の新聞を見て驚くことだろうと空木は思った。
通夜は翌火曜日に行われた。JR南武線の谷保駅から程近い斎場で六時から行われ、小雨の降る中、二百人近い参列者が集まった。浅見家のマンションからは車で五分程の距離だった。喪主である芳江はハンカチと数珠を手に、親戚の人たちなのか、挨拶をしていた。横には息子と思われる背の高い、制服を着た男の子が立っていた。
大林と石山田、空木は一番後ろの椅子に座り、参列者の様子を窺っていた。
塩野と梅田も参列していた。参列者の焼香が終わり、喪主である芳江の、参列者へのお礼の挨拶が終わった。
大林は、芳江に石山田と空木を紹介した。石山田は国分寺警察署の刑事であること。空木はご主人の死体を発見し、通報した人間であることを紹介した。三人はお悔やみを述べて会場の外にでた。
外に出た大林は塩野に声をかけ、浅見の上司である支店長に話を聞きたい旨を伝えた。塩野は少し離れた、支店長と思われる礼服姿の男に耳打ちした。二人は、大林たち三人の方に来て、挨拶した。
「名古屋支店長をしております、篠村と申します」
白髪混じりの篠村は名刺を渡しながら挨拶した。
「滋賀県警湖東警察署の大林です。こちらは国分寺警察署の石山田刑事と発見者の空木さんです。少しだけお話を聞かせていただきたいのですが‥‥、時間は取らせませんので」
大林は、二人を紹介しながら言った。
大林、石山田両刑事と篠村は、斎場の隅のテーブルに座った。
「お聞きになっておられると思いますが、浅見さんは殺害されました。殺人事件です。上司である支店長さんから見て、浅見さんが仙台から転勤して来てから、変わったこと、気なることはありませんでしたか」大林は篠村の顔をじっと見ながら訊いた。
「名古屋に来てから、特に変わった様子というのは無かったと思います」
「名古屋に転勤して来たのは、本人が希望したんですかね。支店長さんはその辺はご存知ありませんか」
「浅見君が希望したかどうかは分かりません。ただ、自宅のある東京を跳び越して、名古屋での単身を希望する人間もそうはいないと思います。私は可哀相だと思いました」
「仙台で何かあったとか」
「それは私には全く判りません」
篠村は仙台のことは仙台に聞いてくれと言わんばかりに答えた。
大林、石山田、空木の三人は、食事を摂りに通夜の会場を出て、国立駅方面へ向かった。
石山田は大林を行きつけの居酒屋に誘った。
三人は、奥の小上がりに上がって、お浄めと称して飲み始めた。
「あの支店長の、最後の答え方が少し気になりましたが、石山田刑事はどう感じましたか」
「仙台のことは仙台に聞いてくれ、という感じでしたね」
「それはそれで尤もなんですが、何か引っ掛かる。大会社の偉いさんはあんな感じなんですかね」
大林が言った。
聞いていた空木がニラレバを食べながら。
「あの時の支店長の目は一瞬ですが、下を向きました。事件に関係するかどうかは判りませんけど、仙台で何かあったかも知れないですね」
口を挟んだ空木は、もうビールから焼酎に変わっていた。
告別式は翌日の十時からで、梅雨空だった。平日の午前のためか、昨日の通夜より参列者は減っていた。空木たち三人は、昨日同様、会場の一番後ろの椅子に座って、参列者を観察していた。東亜製薬の名古屋の支店長の姿はなかったが、塩野と梅田の姿はあった。出棺が終わった。大林は塩野に軽く会釈をし、近づいた。
「ちょっとだけ話が聞きたいのですが、時間はありますか」
「名古屋に戻るだけですから。大丈夫ですけど。どんなことですか」
「浅見さんの仙台時代のことで聞かせて欲しいんです」
「仙台ですか‥‥‥」塩野は怪訝な顔をした。
「仙台の支店の方は昨日、今日と来ておられましたか」
「ああ、来ていたと思いますが、私は顔を知らないので誰かは分かりません。東北の山の話しをしているのが聞こえましたから、多分、仙台支店の人たちだと思います」
「そうですか。ところで、社内で何かあって名古屋に移られたというようなことはなかったんでしょうか」
「何かって言われても困るんですが。‥‥‥ここだけの話にして下さい。噂ですけど、女性関係で異動になったんじゃないかと、耳にしたことがあります。部長は仙台のことを我々には全く話しませんでしたから、本当のところは分かりません」
塩野の顔は、これ以上は簡便してほしいと言っていた。
「いや、ありがとうございました。十分です」
大林と石山田は塩野に礼を言った。
三人は、車で国立駅へ向かった。
「大林刑事、仙台へ行きますか」
車中で石山田が聞いた。
「いや、会社として公に話せることでも無さそうですし、噂の中身程度なら名古屋でも聞けるかも知れません。本部に帰って課長と相談してみます」
大林は答えながら、今度は空木の方を見た。
「空木さん、名古屋のイシダスポーツはご存知ですか」
「市内の栄にある店ですか」
「さすがに良くご存知ですね」
「その店がどうかしたんですか」
「被害者の着ていた服とザックが売られた店のようです」
「被害者が買ったんですか」
「いえ、写真を見た店員の記憶では、被害者ではなく別人です。恐らく、買ったのは犯人ではないかと睨んでいます。購入日は六月九日木曜日の昼だったそうです。同じザックを二つ一緒に買っていったので、店員が覚えていたそうです。それと10ミリのザイルも買ったそうです。ただ、顔は色付き眼鏡と帽子で、はっきりとは分からなかったそうですが」
「色付き眼鏡と帽子。健ちゃん尾行していた男と一緒じゃないか」
石山田が確認するように言った。
「そうだね」
空木は言いながら、俺が尾行していた男が犯人なのかも知れないと考えていた。
「しかし、もし買った男と、尾行されていた男が同一で、しかも犯人だとしたら、大胆な奴だ」
石山田が空木の考えていたことを口にした。
「大林刑事、被害者の名古屋のマンションの捜索はどうだったんですか。何か手掛かりになるようなものは出ましたか」石山田が大林に顔を向けた。
「今日辺り調べているはずです。犯人の手掛かりになるようなものが出ればいいんですが。せめて女の匂いでもでれば」
「そうですね、こっちは明日にでも浅見の奥さんを当たってみましょう」
三人は国立駅で別れた。大林は今日の捜査会議までに戻りたい、ということで昼食は移動の車中で摂るという。石山田は、課長に報告すると言って署に戻った。一番ヒマな空木は、自宅マンション近くの豚カツ屋で昼を食べることにした。
翌日、小雨の降る中、石山田はレンガ張りのマンションに浅見芳江を訪ねた。管理人に挨拶をして、エントランスの部屋番号を押した。芳江は在宅だった。朝からの訪問を詫び、話を聞きたい旨をインターフォン越しに説明した。芳江は午後からは斎場に出かけるので一時間程度なら大丈夫だと言い、玄関のオートロックを解除した。石山田はエレベーターで四階に上がった。監視カメラ付きのエレベーターだ。芳江は石山田を十畳ほどのリビングに案内した。広いマンションの部屋であった。芳江は石山田に紅茶を用意して、ソファーに座った。
石山田は、取り込みのところへの訪問を再度詫びた。
「申し訳ありません。一つ、二つお聞きしたいことがあります。通夜、葬儀に参列されていた方たちで、見慣れない方とか、何か気になることとか、気付かれたこととかはありませんでしたか」
「親族や私のお友達以外は、見慣れない方たちばかりでしたし、参列していただいた方たちのお顔を改めて見ることも出来ませんでしたから、気になるようなことと言われましても、私は何も‥‥‥」
「それはそうですよね。つまらない質問をして申し訳ありません。そうだ、奥様、お香典の芳名記入帳はご覧になっておられますか」
「いえ、ゆっくりと見てはいません」
「昨日の今日ですから、当然ですね。そこに記入されている名前で気になるようなお名前でもあればと、思いまして‥‥」
芳江は少し待ってくれと言って、席を立ち、二冊の芳名記入帳を石山田の前に出した。
「少々拝見しても宜しいでしょうか。私が見ても誰の誰兵衛かさっぱり分かりませんけれど」
石山田は女性の名前だけでも見ておきたかった。
「構いません。ご覧になってください」
石山田は、パラパラと頁をめくっていった。芳名帳はサインペンで書かれていた。一冊目の女性名は六人いた。全て芳江の友人だった。二冊目は男性ばかりで、篠村、塩野、梅田の名前もあった。二冊目の終わりごろに女性名があった。名前は、「仲内好美」とあった。石山田はどこかで聞いた名前だと思ったが、思い出せなかった。
「奥さん、この方はご存知ですか。参列していましたか」
芳江は芳名帳を手元に寄せた。
「いえ、存じ上げない方です。参列していたかも知れませんが、女性の方たちで、私が顔を知らない方のご焼香はありませんでした」
芳江は思い出そうとしてか、眉間に皺を作りながら答えた。
「参列して、焼香しない人もいるんですかね」
「それは私には分かりません」
石山田は仲内好美の名前を手帳に書きとめた。
「奥さん、香典袋を見せていただけないでしょうか。この仲内という名前の方のものがあれば見せていただけませんか」
芳江はまた席を立った。二、三分後、これですといって石山田の前に差し出した。表書きの名前は筆で書かれていたが、内袋には金額だけで、名前も住所も記入されてはいなかった。
「住所は書かれていませんね。普通は書かれますよね」
「そうですね。名前も顔も知らない方でしたら、ご住所を書いていただかなければ参列のお礼状も出せません」
「奥さん、受付をされた方はどなたでしたか」
「斎場の方にしていただきました」
「そうですか、分かりました。ありがとうございました。それから、聞きにくいことなのですが、何度か名古屋には行かれていると思いますが、奥様から見て、ご主人には女性のお友達がいらっしゃったように思いますか」
驚くほどの冷静さで、凄い事を訊いている自分に、石山田は驚いた。
「高校生の息子が居りますので、何度も行ってはおりません。引越しの際に行ったきりです。女性については、親しいかどうかは分かりませんが、いても不思議ではないと思っていましたが‥‥‥」
芳江は芳名帳に目を落としながら答えた。
石山田は谷保駅近くの浅見豊の葬儀が行われた斎場へ向かった。浅見家の葬儀の受付をしたのは、小早川という三十前半の男性だった。小早川は女性の名前は覚えていないが、男性で女性のような名前を書いた人がいて、顔を見上げたら、代理で記帳させていただく、と言っていた、という記憶であった。その男は記帳した後、すぐに会場を去った、ということだった。顔の記憶はないが、頭の毛は短かったように思う、と話した。
国分寺署に戻った石山田は係長の柳田に報告した。柳田は石山田同様、刑事畑一筋のたたき上げである。刑事課長とはしょっちゅう口論している。柳田から、湖東警察の大林刑事から、午前中に電話があったことが伝えられた。柳田は、石山田が聞き込んだことを向こうの捜査本部に早く連絡してやれと言った。
石山田は、大林に今日の聞き込みの内容を知らせた。葬儀には参列していないが、「仲内好美」という女性の名前が浮かんだこと。その名前は、浅見芳江は覚えがないこと。その名前を記帳した男はすぐに会場を去ったこと。髪が短かったこと。これらを伝えた。
聞いていた大林は石山田に聞きなおした。
「仲内なんと言いました」
「仲内好美。人辺の仲に、内外の内、好き嫌いの好に、美しいの美です。ご存知ですか」
「いや、仲内という姓は、空木さんに尾行を依頼した仲内和美と同姓です。名前一字が違うだけです。偶然とは思えません」
石山田は、そうかと思った。どこかで聞いたような名前だと思ったのはこれだったのだ、と。
「偽名かも知れませんが、仲内姓で追ってみる価値はあるかも知れません。何軒あるか分かりませんが、全国の警察の協力を得られれば、潰していけるかも知れません」
大林は新しい情報に反応した。
「そちらの捜査はいかがですか」
石山田は、被害者である浅見の名古屋のマンションの捜索の状況を聞いた。
「被害者のマンションの近くに公園があって、夜は極端に人通りが少なくなります。殺害現場は公園若しくは、マンションの駐車場付近ではないか、と考えていますが、何も見つかりません。目撃者もいません。ただ、被害者の駐車場に、別の車が止まっていたのを住人が見ている、という聞き込みが取れました。事件に関係しているかも知れませんが、これ以上の情報はありません。それと被害者の部屋から男性の髪の毛とは明らかに違う、女性らしい髪の毛が採取されました。住所録のような物は見つかりませんでしたが、パソコンがありましたので、奥様の許可をいただいて中に入ることにしています。そこに仲内姓でもあれば良いのですが。それと浅見の仙台での噂話は名古屋の支店で調べてみることになりました」
「わかりました。こちらも協力しますので、何なりと言ってください」
「ありがとうございます。柳田係長にも宜しくお伝えください」
大林の話では捜査は進展しているように思われた。仲内姓で、さらに犯人の糸口が掴めるかも知れないな、と石山田も感じていた。
石山田は、空木に「仲内好美」の名前が浮かんできたことを知らせた。今日も、いつものところ「さかり屋」で会うこととなった。
二人は、いかの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めを酒の肴に飲み始めた。空木はジョッキを手にしたまま言った。
「同じ仲内姓を使うというのはどういうことなんだろう。偽名にしろ、実名にしろ、何がしかの意味があるように思う」
「どういう意味なのか。依頼者の仲内和美と、香典の仲内好美。犯人と何か関係している名前なのかも知れない」
石山田もジョッキを持ちながら言った。
「健ちゃん、もしかして、仲内和美って、かずよしって読むんじゃないか」
「ええ、じゃあ姉妹じゃなくて、兄妹とか姉弟とか」
「そう、それと夫婦もあるよ」
石山田はビールの泡を口の周りに付けながら言った。
「仲内姓って全国に何軒ぐらいあるのかな。調べるのは容易じゃないだろうね」
空木はニラレバを摘まみながら、石山田に聞いた。
「さあ、何軒ぐらいあるかな、数百軒はあるだろう。潰していくのは容易じゃないね。潰していって、ホシに当たると分かっていれば良いけど、偽名だとしたら無駄足だからね。辛いものがあるよ」
石山田は途方も無い作業だと言外に言っているようだった。
「それから健ちゃん、捜査本部は被害者の殺害された現場は、名古屋のマンション付近だと睨んでいるようだよ。被害者のマンションの駐車場に停まっていた不審な車も確認されている。その車と、林道から走って行った車が一緒なら、辻褄が合うな」
石山田は言ってから焼酎を頼んだ。
「一緒の車だとしたら、殺してから車で現場まで運べるわけか」
空木は頷きながら言った。
「そして、車を登山口辺りにおいて、戻る。電車は動いていないけど、タクシーなら駅まで出れば捕まえられるか、呼べる」
「向こうの捜査本部も、そう読んでいるだろう。タクシー会社とホテルを片っ端から洗っている筈だ。深夜に乗せる客は、大概は酔っ払いだ。素面で、田舎の駅から乗る客はそうはいない」
石山田は芋焼酎をロックで飲み始めた。
「それと、大林刑事から浅見芳江の毛髪を取ってくれるように頼まれた。被害者のマンションから、女性の物と思われる毛髪が採取されたらしい」
「やっぱり。でも奥さんには女の毛髪が取れたとは言いにくいね」
空木は、恰も、そういう経験をしたかのようなしたり顔で焼酎を飲み干した。
「そうなんだ、奥さんは名古屋には引っ越しの時しか行っていないと言っているしね。あとは、健ちゃんが見つけた花崗岩の石粒だけど、何とか岳の近くの温泉を当たっているらしいけど、単独で来る登山者は結構たくさんいるらしくて、ホシに繋がるような情報は取れていないようだ」
「御在所岳だ。麓の温泉は、湯の山温泉だったかな。俺は泊まったことはないけど、十軒以上あるからね」
空木は、自分が言ったことが解決の糸口に繋がってくれればと、思ったが、顔写真でもあれば別だが、何も無い中での聞き込みでは難しいだろうと思った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
狂情の峠
聖岳郎
ミステリー
製薬会社二社が共同開発した新薬の採用を巡って、昭和記念総合病院では、二社の薬の処方量の多寡で決定することとなった。共同開発した二社の取り決めでは、全国の病院を二分して採用会社を事前に決め、トラブルが発生しないように決められていた。昭和記念総合病院は、万永製薬の採用が取り決められていたが、内分泌科の藤江医師からの突然の大和薬品の薬の申請が出された事によって、万永製薬の思惑とは違って競争による採用という事になってしまった。万永製薬のMR乗倉敏和と大和薬品のMR長谷辺保は山仲間として親しかったが、これをきっかけに関係は悪化する。長谷辺は本来、乗倉の会社の薬が採用される筈の病院である事から、乗倉との関係を修復しようと、同じMR仲間で恋人の先崎文恵に相談する。長谷辺は、先崎文恵のアドバイスで処方している藤江医師に、乗倉の会社の薬を処方するよう依頼するとともに、乗倉に自分の意思を伝えようとするが理解されない。
そんな中、長谷辺は、先崎文恵に日本三大峠の一つ雁坂峠への山行を誘うが、都合が悪く、結果的には弟の稔と登る事になる。また、乗倉も山好きな空木とともに、長谷辺とブッキングする日程で、同じ山域に違うルートからではあるが登ることになる。そして、あろうことか長谷辺は、目指した雁坂峠で何者かによってナイフで刺殺されてしまう。乗倉と空木は、その第一発見者となり、前日からその山域に入って、兄と峠で待ち合わせをしていた弟の稔とともに容疑者となってしまう。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
空の船 〜奈緒の事件帳〜
たまご
ミステリー
4年前、事故で彼氏の裕人(ヒロト)を失った奈緒(ナオ)は、彼の姉である千奈津(チナツ)と未だ交流を続けていた。あくる日のこと、千奈津が「知人宅へ一緒に行って欲しい」と頼み込んだことで、奈緒は、千奈津に同行するが、知人宅を訪れると、知人の夫が倒れているのを発見してしまい…。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
【ショートショート】雨のおはなし
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
青春
◆こちらは声劇、朗読用台本になりますが普通に読んで頂ける作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
映画をむさぼり、しゃぶる獣達――カルト映画と幻のコレクション
来住野つかさ
ミステリー
それは一人の映画コレクターの死から始まった――
高名な映画コレクターの佐山義之氏が亡くなった。日比野恵の働く国立映画資料館の元にその一報が入ったのは、彼のコレクションを極秘に保全してほしいという依頼が死去当日に届いたから。彼の死を周りに悟られないようにと遺族に厳命を受け、ひっそり向かった佐山邸。貴重な映画資料に溢れたコレクションハウスと化したそこは厳重なセキュリティがかけられていたはずなのに、何故か無人の邸の地下に別の映画コレクターの他殺体が見つかる――。手に入れられる訳がないと思われていた幻のコレクションの存在とその行方は? カルト映画『夜を殺めた姉妹』との関連性とは? 残された資料を元に調査に乗り出すうちに、日比野達はコレクター達の欲と闇に巻き込まれて行く。
※この作品はフィクションです。実在の場所、人物、映画とは一切関係ありません。
※残酷描写、暴力描写、流血描写があります。
【完結】少女探偵・小林声と13の物理トリック
暗闇坂九死郞
ミステリー
私立探偵の鏑木俊はある事件をきっかけに、小学生男児のような外見の女子高生・小林声を助手に迎える。二人が遭遇する13の謎とトリック。
鏑木 俊 【かぶらき しゅん】……殺人事件が嫌いな私立探偵。
小林 声 【こばやし こえ】……探偵助手にして名探偵の少女。事件解決の為なら手段は選ばない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる