標識上のユートピア

さとう

文字の大きさ
上 下
55 / 67
二章

五十四話

しおりを挟む
 箸を持つ手が震える。瘧にかかったかのように、額が熱く感じられ、背筋が冷えていく。
頭にあったのは、パーカーの写真が載ったプリントだった。
パーカーを着ている人なんてどこにでもいる。新しい服が欲しいと思ってパーカーを買ったと考えても、何ら不自然はない。
しかし、プリントの人物が父だとしたら……。
「あのさ」 
 可能な限りナチュラルに切り出す。
「なんだ」
 父の目が虚ろになっている気がした。弛緩した口元から蟹クリームがこぼれている。
「最近、うちの学校に不審者が来るみたいで。怖いよな。そいつはパーカーを羽織ってるらしいんだけれど」
「パーカー?」
 父に動揺の色は見られなかった。
「まあ、不審者っていうなら気を付けた方がいいかもな。本当に不審なのがそのパーカーなのか、俺には計りかねるけれど」 
 平然と口元の蟹クリームをすする。
父の言葉を三回ほど反芻し、吟味し、噛み砕き、飲み込む。
「どういうこと?」 
「パーカーにも何か目的があるんじゃないのか」
 それっきり、父は口を閉ざした。
我ながら不思議だったが、それ以上父に何か尋ねようとも、そして自分が狼狽しているとすらも思えなかった。
呆気なく食事は片付いた。海岸に打ち捨てられたゴミのように、後にはプラスチックごみが残されている。
父は寝巻きを抱え、自室に入ろうとしていた。扉が閉まる直前、低い囁きが悲痛な響きを帯びて俺に伝わってきた。
――降りたい。降りたい。助けてくれ。助けて。
 咄嗟に振り返り、父と目が合う。
充血した目。痩せこけた顔。青白い頬。
死人の顔。 
「辛い。もう終わらせたい」
 自業自得だろ。お前が母さんを裏切ったんだ。なんで今更被害者ぶるんだ。よほど言いたかったが、声が出なかった。 
父はそのまま自室へと消え去った。
翌朝にはいなくなっていたが、彼が会社に行ったとは考えられなかった。スーツがリビングに捨てられていたからだ。
カバンを持つ自分の手が震えていた。
しおりを挟む

処理中です...