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二章
五十一話
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しばらくして岸本は戻って来た。
「持ち場を離れてすまぬな、柿市よ。外の風はいつも身どもにインスピレーションを与えてくれる」
いつもの彼だった。先ほどの激情など、微塵も窺えない。たった今部活が始まったかのような、不思議な気分になる。
「む? 柿市、お主……」
岸本の表情が変わる。その視線は、疑う余地もないほどにはっきりと俺の手元に向けられていた。
岸本がいなくなっている間、先ほどの償いもするつもりで俺は作業に専念していた。今描いているのは和式トイレだ。旧校舎内にあるトイレまで見に行ったから、なかなかいい構図になっているはずだ。
「どうだ? リアリティーがあるだろう? さっきのお詫びに、出来る限りのことはするよ」
「柿市、お主を誇りに思うぞ」
よく見かけるはずの岸本の笑顔が、この時ばかりは妙に久しぶりに感じられた。彼は安全靴の如き無骨なシークレットブーツを引きずりよたよたと歩きながら、画用紙を引きずってきた。
二人並んで、馬鹿みたいな作品を製作する。病は気から、ということわざが的を射ている気もしてくる。気分次第で、悪質なテーマの作品も、懇切丁寧に仕上げることができたのだ。純粋に創作に打ち込めるのは嬉しかった。
「あ、そういえば柿市。二つ伝えたいことがあるのだ」
大根に生える側根を彷彿とさせる髭を描きながら、岸本が話しかけてきた。
「伝えたいこと?」
作業の手を止め、岸本を振り返る。
「そうなのだ。伝えたいこと」
岸本が両手をばたばたさせた。運動神経が悪すぎて飛べない鳥みたいだ。
数秒程もがいた後、大袈裟に手を打つ。
「あっ、思い出した。佐久間の件なのだ」
楽しい気分が、見る間にしぼんでいく。自分の情緒不安定さにがっかりだ。重い気持ちを知ってか知らずか、岸本は張り切って報告を始めた。
「メールのことを伝えて、軽く怒っておいたぞ。『失礼だ』と。初めてメールを送るときにはきちんと挨拶の言葉を……」
「確かに失礼だとは思ったけれど、俺が戸惑っているのはそこじゃないんだ」
岸本の長舌を遮り、俺は疑念を口に出した。「何が佐久間の目的なんだ」と。
「それが……」
今度は眉をしかめながら、岸本が口ごもる。つまり、佐久間からいい返答は得られなかったのだろう。
「到底身どもに言えるような話ではないと言うのだ。直接お主と会って話したい。そう佐久間は言っておった」
不安感を引き立てる返答だが、なんとなく想定はしていた。
こちらにしても、不気味なメールを爆弾の如く投下されるくらいなら、膝を突き合わせて話す方がよほどいい。
「悲壮な顔をするでない、柿市よ」
俺の表情を怯えと受け取ったらしい。岸本が励ましてくる。
「佐久間は悪いヤツではないぞ。ストレートすぎる部分もあるが、面倒見がいい優しいヤツなのだ」
俺が沈黙を貫いていると、岸本は慌てて話を逸らした。
「そ、そうだ。いいお知らせもあるのだ。会わせたい人がいるのだ」
「……会わせたい人?」
心当たりがない。しかし、岸本の態度を見るに悪い人じゃなさそうだ。
「部活が終わる時間帯を伝えたから、今頃校門に来ているかもしれんな」
今頃? 今日会うつもりなのか?
急な知らせに困惑する俺をよそに、岸本は部室を飛び出した。廊下の窓に駆け寄り、大きく手を降る。
岸本を追いかけて廊下に出る。窓に手のひらを押し付け、校庭を見渡す。
校門を前に、人が立っている。
雲を焼き尽くさんとばかりに輝く夕焼けの下、少女が一人で佇んでいる。夕日を浴びて燦々ときらめくアスファルトの上で、彼女は一人浮いているようにも思えた。
「紹介しよう」
隣で岸本が胸を張る。
「雪村凜奈さんなのだ」
「持ち場を離れてすまぬな、柿市よ。外の風はいつも身どもにインスピレーションを与えてくれる」
いつもの彼だった。先ほどの激情など、微塵も窺えない。たった今部活が始まったかのような、不思議な気分になる。
「む? 柿市、お主……」
岸本の表情が変わる。その視線は、疑う余地もないほどにはっきりと俺の手元に向けられていた。
岸本がいなくなっている間、先ほどの償いもするつもりで俺は作業に専念していた。今描いているのは和式トイレだ。旧校舎内にあるトイレまで見に行ったから、なかなかいい構図になっているはずだ。
「どうだ? リアリティーがあるだろう? さっきのお詫びに、出来る限りのことはするよ」
「柿市、お主を誇りに思うぞ」
よく見かけるはずの岸本の笑顔が、この時ばかりは妙に久しぶりに感じられた。彼は安全靴の如き無骨なシークレットブーツを引きずりよたよたと歩きながら、画用紙を引きずってきた。
二人並んで、馬鹿みたいな作品を製作する。病は気から、ということわざが的を射ている気もしてくる。気分次第で、悪質なテーマの作品も、懇切丁寧に仕上げることができたのだ。純粋に創作に打ち込めるのは嬉しかった。
「あ、そういえば柿市。二つ伝えたいことがあるのだ」
大根に生える側根を彷彿とさせる髭を描きながら、岸本が話しかけてきた。
「伝えたいこと?」
作業の手を止め、岸本を振り返る。
「そうなのだ。伝えたいこと」
岸本が両手をばたばたさせた。運動神経が悪すぎて飛べない鳥みたいだ。
数秒程もがいた後、大袈裟に手を打つ。
「あっ、思い出した。佐久間の件なのだ」
楽しい気分が、見る間にしぼんでいく。自分の情緒不安定さにがっかりだ。重い気持ちを知ってか知らずか、岸本は張り切って報告を始めた。
「メールのことを伝えて、軽く怒っておいたぞ。『失礼だ』と。初めてメールを送るときにはきちんと挨拶の言葉を……」
「確かに失礼だとは思ったけれど、俺が戸惑っているのはそこじゃないんだ」
岸本の長舌を遮り、俺は疑念を口に出した。「何が佐久間の目的なんだ」と。
「それが……」
今度は眉をしかめながら、岸本が口ごもる。つまり、佐久間からいい返答は得られなかったのだろう。
「到底身どもに言えるような話ではないと言うのだ。直接お主と会って話したい。そう佐久間は言っておった」
不安感を引き立てる返答だが、なんとなく想定はしていた。
こちらにしても、不気味なメールを爆弾の如く投下されるくらいなら、膝を突き合わせて話す方がよほどいい。
「悲壮な顔をするでない、柿市よ」
俺の表情を怯えと受け取ったらしい。岸本が励ましてくる。
「佐久間は悪いヤツではないぞ。ストレートすぎる部分もあるが、面倒見がいい優しいヤツなのだ」
俺が沈黙を貫いていると、岸本は慌てて話を逸らした。
「そ、そうだ。いいお知らせもあるのだ。会わせたい人がいるのだ」
「……会わせたい人?」
心当たりがない。しかし、岸本の態度を見るに悪い人じゃなさそうだ。
「部活が終わる時間帯を伝えたから、今頃校門に来ているかもしれんな」
今頃? 今日会うつもりなのか?
急な知らせに困惑する俺をよそに、岸本は部室を飛び出した。廊下の窓に駆け寄り、大きく手を降る。
岸本を追いかけて廊下に出る。窓に手のひらを押し付け、校庭を見渡す。
校門を前に、人が立っている。
雲を焼き尽くさんとばかりに輝く夕焼けの下、少女が一人で佇んでいる。夕日を浴びて燦々ときらめくアスファルトの上で、彼女は一人浮いているようにも思えた。
「紹介しよう」
隣で岸本が胸を張る。
「雪村凜奈さんなのだ」
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