標識上のユートピア

さとう

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二章

四十九話

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    俺は駅に立っていた。雨が降っている。灰色の空から落ちる水滴が、音もなく服を浸す。
誰かが雨の中を駆けずり回っている。
小さなパーカー。
不意に両親が現れた。父はびしょ濡れで、スーツは濃紺にも見える。母は頭にバンダナを巻いている。
――母さん、外出できるようになったんだな。
 そんなことを思った。
母親がパーカーに声をかける。彼女はしゃがむと、パーカーが差し出した小さな手に、自分の手を重ね合わせた。
母が笑顔でパーカーに喋りかける。聞き取ろうとしたが、雨足が強く、どうしても水音に遮られてしまう。
パーカーの表情はよく見えなかったが、母の手を離すつもりはなさそうだった。父はぼうっと蝋のように立ち尽くしている。
やがて母とパーカーは連れ立って歩き始めた。
ふと、刺すように厭なものを感じた。
――母さん、行かないで。
 二人の背中に向かって呼び掛けた。
しかし、その呼び掛けは自分でも不思議なくらいに小さく、今にも消え入りそうだった。
二人が曇天の向こうへと去っていく。  
俺の声は届かなかった。
不意にパーカーがこちらを振り向いた。初めてその顔があらわになる。奇妙なくらいにぴったりと目が合った。
幼い頃、映画で見た顔だった。そう、有名な映画だ。顔の器官があるはずの部分には闇が広がっている。トンネルのように、どこまでも。血の気が失せた顔は、真っ白で、しぼられたように歪んでいた。「記憶の固執」の時計よりは、「叫び」の耳を塞ぐ人に近い雰囲気だ。きっとこのパーカーは、
 
 
 
死神だ。
 
 
 
――母さん! 母さん! 母さん!
 誰だ? 喚いているのは。数秒経って、自分だと気付いた。
叫びも虚しく、母親が消えて行く。
後に残ったのは、慟哭する自分と、亡霊のように佇む父親だった。
 
 
 
 
 頬に何かがつたうのを感じて、俺は目を覚ました。全身が重く、眠っていたはずなのに、ついさっきまで病院を歩いていた気分になる。
そうか、俺は泣いていたのか。
趣味の悪い目覚まし時計を見ると、起床時刻より三十分も早い時間だった。
二度寝する気分でもなかったので、ベッドから降りた。たまには早く学校に行くのも悪くない。
リビングでは、父が新聞を広げ、足を組んでいた。
「おはよう」
 こちらに顔を向け、挨拶してくる。
見た限り平常の態度だ。昨日のことなどなかったかのようだ。わざわざ掘り返すのも気が引けるので、俺も適当に挨拶を返した。
今日は学校がある。朝ごはんを食べながら眺める通学カバンは、憂鬱の象徴として俺の印象に残った。 
 
 
 
 
 二日ぶりの学校だったが、なんのことはない。当然変化はなかった。
受験勉強に励む真面目なクラスメイト、密度の濃い空間。
ただ、ぽっかり空いた臨席にはどうしても慣れなかった。板垣は今頃病院で何をしているのだろう。
そんなことを考えているうちに、担任が教室に入ってきてしまった。退屈な朝礼が始まる。生徒たちは皆眠そうに頬杖をついていた。担任ですら朝は憂鬱なものらしい。ため息をつき、最後の伝達事項を述べる。
「そういえば最近、学校の周辺で不審者の目撃があるらしい。登下校の際には気を付けるように」
 不審者について書かれたプリントが回ってきた。防犯カメラに写っていたらしい。かなりぼんやりとした写真が印刷されていた。 
「性別不明、身長は百六十五から百七十センチ前後……」
 ぼんやりと呟きながら、写真に目を移す。パーカーを深々と被った人物が、俯き加減に写っていた。
周囲の他愛ない雑談がひどく耳障りに思える。
プリントをしまう手が、何故か痙攣していた。
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