標識上のユートピア

さとう

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二章

四十話

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 そこには変わり果てた母の姿があった。二の腕は棒のように細く、頬は痩せこけている。薄い皮膚は密接にあばらに張り付き、その存在を伺わせている。

毛髪は一切なくなっていた。 
 
 長く黒い髪は、遥か記憶の彼方へと消えさっていた。今にも青白い頭皮が溶け落ちて、母の髑髏しゃれこうべが露になりそうだった。
「そんな顔しないで、翼」 
 しわがれた声。それでも母の笑顔は、一切苦しさを感じさせないものだった。
俺は今どんな表情をしていた? 悲しげな表情? 悔しげに唇を噛み締めていた? 壊れかけた洗濯機のように、やるせない感情が幾度も巡る。 
悲嘆、驚愕、悔恨。  
そして、自分に対する痛烈な憤り。
これまでちっとも母の見舞いに行こうとしなかった。俺が冗長に時間を過ごしている間、母はずっとベッドの上で苦しんでいたのだ。
あのどうしようもない父は嘘をついた。岸本は早く見舞いに行くよう俺を促した。
結局俺は憎い父に惑わされ、岸本の忠告も無駄にしてしまったのだ。
自分が情けなかった。しかし、ここで涙を流せば病床の母に心配をかけてしまう。
俺は唇の内側を噛め、ただただ突っ立っていた。
「翼、ゼリー持ってきてくれたの?」
 母が果物ゼリーを指した。
震えるまぶたを制御しながら、俺はうなずく。 
「食べられる?」
 母は横たわったままうなずいた。
冷蔵庫にゼリーを入れて、近くの席に座った。
「私はね、普通の部屋でもよかったのだけれど。お父さんが私を気にかけてくれてね。それで個室に」
 母は愉しげに言った。
言えない。父の犯した罪など、口にできるはずもない。
「……そっか」  
 無理矢理微笑むしかなかった。
それから母は、退屈を紛らわすために折り紙を折っていること、眠れない時は俺の写真を見ていることを教えてくれた。テーブルを見ると、不恰好な鶴がいくつも並べられていた。度重なる不調に耐えながらも折り続けたのだろう。木製の写真立ての中では、幼い俺が大口を開けて笑っていた。お絵かきをしていたらしく、青空の描かれた画用紙を手にしている。
「今まで見舞いに来られなくて、ごめん」 
 心の底から頭を下げる。これほど不条理な気持ちになるのは初めてだった。
「いいのよ、私が父さんに言っといたの。……翼は大変な時期だから、無理はさせないでって」
 母は穏やかに言うが、それでも許せなかった。父と俺を、今すぐにでも殴り倒したかった。
「進路は決まったのかしら?」
 テンプレートのような質問だが、もちろん答えよう。
俺は…………。正直に答えるべきなのか分からない。俺がなりたいものは……。
「まだ決まってないならいいのよ、翼」
「いや、もう決まってるんだ」
 気が付くと、声を張り上げていた。
この際反対されてもいい。正直に言おう。
「俺は美大に行きたい。画家になりたいんだ」
 母は驚く様子すら見せなかった。
彼女は、細い腕を伸ばして写真立てを取った。目に焼き付けるようにして、幼い俺を凝視しているに違いなかった。やがて母は言った。
「綺麗な青空」
 母は心底嬉しそうに破顔していた。
「翼ならきっと、立派な画家になれると思う」 
 その言葉に、偽りの色は全く見られなかった。
鼻の奥が痛い。俺から逃げようとするかのように、まぶたの下を熱い雫が揺るがした。 
「分かった。いつか個展とか開いてみせるから、絶対に見に来てほしい」
 母はゆっくりとうなずいた。
その表情が、ほんの一瞬、一瞬だけ、悲しげに歪む。
「……母さん?」
「大丈夫、大丈夫だから」 
 母の顔色は、先ほどにも増して悪くなっていた。体調が悪いのかもしれない。これ以上俺がいたら迷惑になるだろう。
また訪れることを約束して、病室を後にした。
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