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二章
三十話
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音はすぐそこのシャッターから聞こえている。近付いてみると、シャッターが大きく歪み、下部分が開いているのが分かった。カバンを放り投げ、躊躇せず踏み込む。
中は真っ暗で埃っぽい。物音だけでなく、女の掠れた声も聞こえる。どう考えても恐怖に戦慄く声色だった。彼女は必死に許しを乞うていた。
「誰だ」
低く恫喝された。野太い男の声だ。束の間の恐怖を消し去り、俺は声のする方へ突進する。
誰かにぶつかった、その瞬間。顎に鈍痛が響き、脳が揺さぶられる。
目眩がして、全身が不安定になる。
よろめきざまに腹部を蹴り上げられた。不思議と痛みはない。
全身を大木のように奮い立たせる。倒れれば負けなのは明白だった。
無我夢中で両手足を振り回し、パンチとキックを見舞う。幾度となく手応えを感じた。
「ぐっ」
暗闇の中に、低い呻き声が吸い込まれた。
突き飛ばされ、俺はよろめく。男が脱兎の如く逃げ出したのだ。そいつは俺が来たときと同じようにシャッターをくぐり抜け、消えていったらしかった。
静寂が訪れる。荒い息づかいだけが、埃の中に埋もれた。
まだ女はいるはずだ。気配のする方に近寄り、手を貸す。
「大丈夫か」
しばらくして、冷たい肌触りが俺の手に重なった。高さからして女はしゃがんでいる様子だったので、手を掴んで起こした。
二人でシャッターの外に出る。ぼんやりとではあるが、女の顔が見られた。
ため息がひとつ、口から出た。
「やっぱりお前か」
板垣愛子。
髪はぐしゃぐしゃに乱れ、顔は腫れ上がっている。ガラスを投げつけられた俺よりも酷い有り様だ。
暴力を振るって逃げた男は、先ほど板垣と連れ立って歩いていったあの青年と見て間違いないだろう。
とにかく今は、警察に通報するのが先決だ。自分が補導されるかもしれないという心配など、すっかり吹き飛んでいた。
「板垣、スマホ持ってるか? 俺の電池切れになっちゃって……」
尋ねるが、彼女は何も言わなかった。肩を震わせている。地面を向いた瞳から、涙が溢れていた。
「板垣? もう大丈夫だ。落ち着いてくれ」
肩をさすろうとした時、彼女は小さく口を動かした。
「……けいな……」
「ん?」
よく聞き取れず、俺は聞き返す。
次に彼女から飛び出した言葉に、思わず耳を疑った。
「余計なお世話だ!」
板垣はヒステリックに叫んだ。
俺は無残にも地面に尻餅をついていた。板垣に突き飛ばされのだ。
彼女が髪を振り乱しながら走り去るのを、俺は呆然と見つめるしかなかった。
なんだ、アイツ?
怒りよりも戸惑いが先行する。
何を考えているんだ? 殺されかけたんだぞ? 矢継ぎ早に疑問が吹き出してくる。慌てて振り払った。
今はそれどころじゃない。まず男をなんとかしなければ。運の悪いことに、俺のスマートフォンは力尽きている。しかし、ひょっとしたら奇跡が起きてもう一度くらい電源がつくかもしれない。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ボタンを押し掛ける。今度こそ俺は諦めた。
スマートフォンの画面には、放射状のひびが入っていた。本体もぐにゃりと歪曲している。力尽きるどころか、完全に息絶えていた。さっき蹴られても痛くなかったのは、こういうことだったのか。
アホらしくなってきた。もう板垣などどうでもいい。人の厚意を無下にする馬鹿など、気にかけるだけ無駄だ。
その足で商店街の外にある公園に行った。狭くて、たむろする不良すら来ないような公園だ。夜になっても人はいなかった。
ベンチに横になり、カバンを枕にして目を閉じた。
疲れのせいか、すぐに意識が朦朧としてきた。瞼の裏で幻想が揺れている。
赤いパーカー。
去り行く俺を、見つめている……。
中は真っ暗で埃っぽい。物音だけでなく、女の掠れた声も聞こえる。どう考えても恐怖に戦慄く声色だった。彼女は必死に許しを乞うていた。
「誰だ」
低く恫喝された。野太い男の声だ。束の間の恐怖を消し去り、俺は声のする方へ突進する。
誰かにぶつかった、その瞬間。顎に鈍痛が響き、脳が揺さぶられる。
目眩がして、全身が不安定になる。
よろめきざまに腹部を蹴り上げられた。不思議と痛みはない。
全身を大木のように奮い立たせる。倒れれば負けなのは明白だった。
無我夢中で両手足を振り回し、パンチとキックを見舞う。幾度となく手応えを感じた。
「ぐっ」
暗闇の中に、低い呻き声が吸い込まれた。
突き飛ばされ、俺はよろめく。男が脱兎の如く逃げ出したのだ。そいつは俺が来たときと同じようにシャッターをくぐり抜け、消えていったらしかった。
静寂が訪れる。荒い息づかいだけが、埃の中に埋もれた。
まだ女はいるはずだ。気配のする方に近寄り、手を貸す。
「大丈夫か」
しばらくして、冷たい肌触りが俺の手に重なった。高さからして女はしゃがんでいる様子だったので、手を掴んで起こした。
二人でシャッターの外に出る。ぼんやりとではあるが、女の顔が見られた。
ため息がひとつ、口から出た。
「やっぱりお前か」
板垣愛子。
髪はぐしゃぐしゃに乱れ、顔は腫れ上がっている。ガラスを投げつけられた俺よりも酷い有り様だ。
暴力を振るって逃げた男は、先ほど板垣と連れ立って歩いていったあの青年と見て間違いないだろう。
とにかく今は、警察に通報するのが先決だ。自分が補導されるかもしれないという心配など、すっかり吹き飛んでいた。
「板垣、スマホ持ってるか? 俺の電池切れになっちゃって……」
尋ねるが、彼女は何も言わなかった。肩を震わせている。地面を向いた瞳から、涙が溢れていた。
「板垣? もう大丈夫だ。落ち着いてくれ」
肩をさすろうとした時、彼女は小さく口を動かした。
「……けいな……」
「ん?」
よく聞き取れず、俺は聞き返す。
次に彼女から飛び出した言葉に、思わず耳を疑った。
「余計なお世話だ!」
板垣はヒステリックに叫んだ。
俺は無残にも地面に尻餅をついていた。板垣に突き飛ばされのだ。
彼女が髪を振り乱しながら走り去るのを、俺は呆然と見つめるしかなかった。
なんだ、アイツ?
怒りよりも戸惑いが先行する。
何を考えているんだ? 殺されかけたんだぞ? 矢継ぎ早に疑問が吹き出してくる。慌てて振り払った。
今はそれどころじゃない。まず男をなんとかしなければ。運の悪いことに、俺のスマートフォンは力尽きている。しかし、ひょっとしたら奇跡が起きてもう一度くらい電源がつくかもしれない。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ボタンを押し掛ける。今度こそ俺は諦めた。
スマートフォンの画面には、放射状のひびが入っていた。本体もぐにゃりと歪曲している。力尽きるどころか、完全に息絶えていた。さっき蹴られても痛くなかったのは、こういうことだったのか。
アホらしくなってきた。もう板垣などどうでもいい。人の厚意を無下にする馬鹿など、気にかけるだけ無駄だ。
その足で商店街の外にある公園に行った。狭くて、たむろする不良すら来ないような公園だ。夜になっても人はいなかった。
ベンチに横になり、カバンを枕にして目を閉じた。
疲れのせいか、すぐに意識が朦朧としてきた。瞼の裏で幻想が揺れている。
赤いパーカー。
去り行く俺を、見つめている……。
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