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第一章 僕の自殺を止めたのは
第6話 泣いてないから
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「負け、ました。ううう」
「ありがとうございました」
結局あの後、死神さんはほとんど何もできずに終わってしまいました。結果は僕の勝ち、いや、大勝です。
盤上に広がる光景。僕の陣地には、全く手が付けられていません。普通の対局では、王様の守りを固めるために『囲い』というものを作るものですが、それすらなし。対して死神さんの陣地は、ボロボロに崩壊してしまっています。守りの要となる金や銀は捕られ、王様は丸裸。加えて、死神さんの王様を捕まえようと、僕の操る駒たちが陣地内に殺到しているのです。たとえ将棋を知らない人でも、この盤面を見れば、どちらが勝ったかなんてすぐに分かってしまうでしょう。
「さて、死神さん。約束通り将棋しました。これで満足ですよね」
「…………」
「僕、今から自殺しますから。僕が死んだら、魂の回収はよろしくお願いします。あとできれば……いえ、やっぱりなんでもありません」
できれば魂を天国に連れていってほしい。思わずそう言いかけてやめました。死神の仕事に詳しいわけではありませんが、魂の行き先を決めるのはたぶん別の誰かでしょう。天国なんていうものが本当にあるかも分かりませんしね。
それに、僕はもう満足なのです。もうすぐこの酷い人生を終わらせることができるのですから。死後はどこに行くかとか、来世はどうなるかとか、今考えたところでどうなるものでもありません。
僕の心に生まれた安心と喜び。ですが数秒後、それを吹き飛ばす出来事が起きたのです。
「いや、だ」
「……え?」
呟かれたその言葉に、僕は耳を疑いました。
「勝ち逃げなんて……グスッ……絶対に……グスッ……させないから」
いつの間にか死神さんの目に溜まっていた大粒の涙。それが、死神さんの頬をゆっくりと流れていきます。ローブの袖でグシグシと涙を拭う姿は、まるで小さな子供のよう。
「ちょ!? な、泣かないでください。僕、どうしたらいいんで……あ、ティッシュありますよ」
僕は、部屋の隅に置いてあったティッシュの箱を慌てて掴み、死神さんに手渡しました。涙を拭いながらそれを受け取る死神さん。遠慮がちにティッシュを一枚だけ取り、チーンと音を立てながら鼻をかみます。
「ありがと。でも……グスッ……泣いてないから」
「それはさすがに無理がありますって。ああ、もう。まだ鼻水が出てるじゃないですか。ティッシュ、もっと使ってくださいよ。えっと、あとはゴミ箱を……」
少し前の自分は想像もしていませんでした。死神の泣く姿を目にするなんて。挙句の果てに、ティッシュやらゴミ箱やらを手渡すことになるなんて。僕はただ、自殺をしようとしただけなのに。
「き、君は、勘違いしてる……グスッ」
「勘違い?」
「わ、私、死神なんだよ」
「知ってますよ」
「死神が……グスッ……将棋で負けたからって……グスッ……泣くわけ、ないでしょ」
「だから無理があるって言ってますよね。というか、実際に泣いてるじゃないですか。強がらなくていいですから、早く泣き止んでください。死神さんに泣かれるとこっちが困るんです」
どうやら死神さんは、ひどく負けず嫌いな性格らしいです。
♦♦♦
「私、決めたよ」
大量のティッシュが捨てられたゴミ箱。ため息をつきながらそれを元の場所に戻していると、背後から死神さんの声が聞こえました。振り向いた先にあったのは、僕をまっすぐに見つめる死神さんの赤い瞳。
「決めたって何をですか?」
「私、君の魂を回収しないことにした」
魂の回収を……しない?
「それって、どうなるんですか?」
「実は、死んだ人の魂って、すぐに回収しないとまた元の体に戻っちゃうんだよね。で、死んだ事実がなかったことになる」
「は!?」
「つまり、自殺した君の魂を私が回収しないでおくと、君は死ぬことなく現世にとどまることができる。そうすれば、私は君と将棋し放題ってわけ」
「なに……を……」
「ふっふっふ。我ながらいい考え。君、残念だったね。勝ち逃げなんて、絶対にさせないよ!」
死神さんは、そう言ってビシッと僕に人差し指を向けました。得意げに笑いながら。
「…………」
どういうこと?
死んだ事実がなかったことに?
どういうこと?
現世にとどまる?
どういうこと?
勝ち逃げさせない?
死神さんが何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。死神さんの告げた言葉一つ一つがフワフワと僕の頭上で漂い続け、頭の中に入るのを拒んでいます。いや、ひょっとしたら、拒んでいたのは僕自身だったのかもしれません。
「おろ? 君、どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
「…………」
十秒か。二十秒か。三十秒か。時間が経ってその言葉の意味を理解してしまった時、僕の心に湧き上がってきたのは、闇よりも暗い黒でした。
「おーい。無視しないでよー」
「…………」
湧いて。湧いて。湧き続けて。心が全て黒色に染まり。
プチンと、何かが切れる音がしました。
「ありがとうございました」
結局あの後、死神さんはほとんど何もできずに終わってしまいました。結果は僕の勝ち、いや、大勝です。
盤上に広がる光景。僕の陣地には、全く手が付けられていません。普通の対局では、王様の守りを固めるために『囲い』というものを作るものですが、それすらなし。対して死神さんの陣地は、ボロボロに崩壊してしまっています。守りの要となる金や銀は捕られ、王様は丸裸。加えて、死神さんの王様を捕まえようと、僕の操る駒たちが陣地内に殺到しているのです。たとえ将棋を知らない人でも、この盤面を見れば、どちらが勝ったかなんてすぐに分かってしまうでしょう。
「さて、死神さん。約束通り将棋しました。これで満足ですよね」
「…………」
「僕、今から自殺しますから。僕が死んだら、魂の回収はよろしくお願いします。あとできれば……いえ、やっぱりなんでもありません」
できれば魂を天国に連れていってほしい。思わずそう言いかけてやめました。死神の仕事に詳しいわけではありませんが、魂の行き先を決めるのはたぶん別の誰かでしょう。天国なんていうものが本当にあるかも分かりませんしね。
それに、僕はもう満足なのです。もうすぐこの酷い人生を終わらせることができるのですから。死後はどこに行くかとか、来世はどうなるかとか、今考えたところでどうなるものでもありません。
僕の心に生まれた安心と喜び。ですが数秒後、それを吹き飛ばす出来事が起きたのです。
「いや、だ」
「……え?」
呟かれたその言葉に、僕は耳を疑いました。
「勝ち逃げなんて……グスッ……絶対に……グスッ……させないから」
いつの間にか死神さんの目に溜まっていた大粒の涙。それが、死神さんの頬をゆっくりと流れていきます。ローブの袖でグシグシと涙を拭う姿は、まるで小さな子供のよう。
「ちょ!? な、泣かないでください。僕、どうしたらいいんで……あ、ティッシュありますよ」
僕は、部屋の隅に置いてあったティッシュの箱を慌てて掴み、死神さんに手渡しました。涙を拭いながらそれを受け取る死神さん。遠慮がちにティッシュを一枚だけ取り、チーンと音を立てながら鼻をかみます。
「ありがと。でも……グスッ……泣いてないから」
「それはさすがに無理がありますって。ああ、もう。まだ鼻水が出てるじゃないですか。ティッシュ、もっと使ってくださいよ。えっと、あとはゴミ箱を……」
少し前の自分は想像もしていませんでした。死神の泣く姿を目にするなんて。挙句の果てに、ティッシュやらゴミ箱やらを手渡すことになるなんて。僕はただ、自殺をしようとしただけなのに。
「き、君は、勘違いしてる……グスッ」
「勘違い?」
「わ、私、死神なんだよ」
「知ってますよ」
「死神が……グスッ……将棋で負けたからって……グスッ……泣くわけ、ないでしょ」
「だから無理があるって言ってますよね。というか、実際に泣いてるじゃないですか。強がらなくていいですから、早く泣き止んでください。死神さんに泣かれるとこっちが困るんです」
どうやら死神さんは、ひどく負けず嫌いな性格らしいです。
♦♦♦
「私、決めたよ」
大量のティッシュが捨てられたゴミ箱。ため息をつきながらそれを元の場所に戻していると、背後から死神さんの声が聞こえました。振り向いた先にあったのは、僕をまっすぐに見つめる死神さんの赤い瞳。
「決めたって何をですか?」
「私、君の魂を回収しないことにした」
魂の回収を……しない?
「それって、どうなるんですか?」
「実は、死んだ人の魂って、すぐに回収しないとまた元の体に戻っちゃうんだよね。で、死んだ事実がなかったことになる」
「は!?」
「つまり、自殺した君の魂を私が回収しないでおくと、君は死ぬことなく現世にとどまることができる。そうすれば、私は君と将棋し放題ってわけ」
「なに……を……」
「ふっふっふ。我ながらいい考え。君、残念だったね。勝ち逃げなんて、絶対にさせないよ!」
死神さんは、そう言ってビシッと僕に人差し指を向けました。得意げに笑いながら。
「…………」
どういうこと?
死んだ事実がなかったことに?
どういうこと?
現世にとどまる?
どういうこと?
勝ち逃げさせない?
死神さんが何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。死神さんの告げた言葉一つ一つがフワフワと僕の頭上で漂い続け、頭の中に入るのを拒んでいます。いや、ひょっとしたら、拒んでいたのは僕自身だったのかもしれません。
「おろ? 君、どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
「…………」
十秒か。二十秒か。三十秒か。時間が経ってその言葉の意味を理解してしまった時、僕の心に湧き上がってきたのは、闇よりも暗い黒でした。
「おーい。無視しないでよー」
「…………」
湧いて。湧いて。湧き続けて。心が全て黒色に染まり。
プチンと、何かが切れる音がしました。
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