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第三章

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 ローウェルの研究室に呼び出されることも何度かあったが、気付いたら、彼と普段すれ違う通路を避けていた。
 逃げているのだから当たり前だけれど、相反する、会えなくて寂しい気持ちと、どんな顔をして会えばわからない気持ちとがせめぎ合って、ますます気持ちは絡まるばかりだ。
 日にちが過ぎれば、より会い難く話し辛くなるのはわかっていたが、心の整理がそう簡単にできるわけもない。
 けれどそう言うときに限って、問題は増えていくのだ。両親から、婚約話を進めていくと書かれた手紙をもらったアシュリーはそれを読まなかったふりをして、チェストに仕舞った。
 そして現実逃避に何をしたかと言えば、仕事に逃げたのだ。
 ──そう言えば、夏休みの宿題も後回しにするタイプだった……
 嫌なことを後回しにして後で泣く性格は、昔から──それこそ前世から、変わってはいなかった。
 深いため息を吐きながら最後の本を本棚に戻し、空っぽになったカートを押しながら本棚の間を進んでいく。
 そして、ふと視線を上げたときだった。

「……っ」

 出入り口である硝子扉を潜る、騎士団服を着たひとりの青年。黒髪に、距離的に見えないが、深い紫色の瞳を持つその人を視界に捉えた瞬間、アシュリーの心臓がどくん、と大きく跳ねる。
 反射的に踵を返そうとしたけれど、それよりもその人が──ヴィルヘルムがアシュリーを見つける方が先だった。
 ヴィルヘルムは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに元の表情に戻る。それなのに視線を離してはくれなくて、アシュリーも魅入られたように、目を逸らせなかった。
 足が縫い付けられたように動かない。
 ──いつも通りにしていれば、大丈夫。あの日館長と舞踏会に参加したのは、《アシュリーわたし》じゃない。
 自分に言い聞かせて、冷静を取り戻そうとする。
 けれど、アシュリーの頭が冷静を取り戻すより、ヴィルヘルムが足を進める方が先だった。

「……アシュリー、嬢」

 アシュリーの前には空っぽになった本を運ぶためのカートがある。それひとつ分を隔てたところに彼は止まり、小さな声でアシュリーの名前を呼んだ。
 ここは図書館で、話をすることはあまり好意的に思われない。それ故の配慮だろう。
 名前を呼ばれて、アシュリーの肩が動揺で揺れる。
 それに気付いたのだろう。ヴィルヘルムは困ったような顔をした。

「その……いきなり、すまない。ローウェルは、こちらにいるだろうか」
「あ、……っはい、います。ごめんなさい、ご案内しますね……っ」

 もしかしたら、先日話せなかったという話をしに来たのかと思ったのだが、ヴィルヘルムが用があったのはローウェルだったようだ。
 ──は、恥ずかし、い……!
 自意識過剰過ぎて、アシュリーは羞恥で頬を赤くした。

「こ、ちらになります」

 ローウェルのいる館長室へ行くには、受付カウンターを通らなければならない。そのため司書に声を掛けなければならないが、今受付を担当している司書は貸し出しの対応中で、そのため彼はアシュリーに声を掛けたのだろう。 
 受付カウンターから入り、バックルームを通る。そして表には並ぶことのない貴重な古書の保管庫を進むと、その先に館長室はある。
 珍しく研究室ではなく図書館にいる上司は、保管庫から貴重な資料を引っ張り出してきて、館長室で研究書と睨めっこの最中だ。
 まだ外に持ち出さないだけマシなのだろうが、出張で留守にしている古書をこよなく愛する副館長の耳に入らないことだけをアシュリーは祈っている。

「──あれから、残業にはなってないか」

 無心を保つために必死に違うことを考えていたのだが、隣から掛けられた声が彼女を現実へと戻した。
 いつもならば後ろにいるはずのヴィルヘルムはどうしてか今日は隣を歩いていて、距離感の近さに、どうしても緊張してしまう。

「だっ大丈夫です! 館長が色々と気を回してくれて、今はもう定時で帰れてますっ」

 噛まないだけまだ良かったのだろうが、声が上ずってしまった。
 ふ、と僅かに笑い声がする。視線を上げると、ヴィルヘルムが頬を緩めていた。
 それはけして馬鹿にしたようなものではなく、どこか優しげで、甘さのようなものが滲む笑みだった。
 とくり、とアシュリーの心臓が高鳴る。

「そうか、それは良かった」
「な、何かとヴィ……ライ、ンフェルト副団長にもお気遣い頂いて、ありがとうございましたっ」
「いや……俺は何もできなかったから、ローウェルが少し、羨ましい」

 静かな廊下にふたり分の足音と、話し声が響く。
 アシュリーはどんな返しをすればいいかわからずに、それきり会話は途切れてしまった。
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