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第三章
(04)
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ぴかぴかに磨かれた浴槽には湯が張ってあり、いい匂いもする。
「今晩は、お疲れでしょう。一泊していくようにと、ローウェル様からの《ご命令》です」
ひくり、と頬が引き攣った。
そんな命令なんて知らないと突っ撥ねて飛び出すことができれば良かったのだが、悲しい哉、アシュリーにそこまでの度胸はない。
精々が理由を並べ立てて、何とか穏便に帰らせてもらえるように努力することだけだ。
例えば、上司と部下であろうと男と女、変な噂が立つかもしれないので、とか、ローウェルの屋敷から出てきたところを見られたら、もしかしたらシェリー=アシュリーと結び付ける人がいるかもしれないから、とか色々と理由を言って断ろうとしたのだが、彼女に笑顔で論破されてしまい、アシュリーは二の句が告げぬまま、入浴道具と一緒に浴室に押し込められた。
逃げられないことを悟り、観念して着ていたものを脱ぎ始める。そして、視線を向けた先にあった鏡に映る自身の体を目にした瞬間、頬の熱が急速に上がっていった。
ここまで案内してくれた侍女が、どうしてアシュリーをひとりで浴室に押し込んだのかが、今ならわかる。
アシュリーも暗がりの中、部屋の鏡で一度は確認したはずだった。けれど、時に暗闇は一部の真実を隠すことがある。
首筋を指で撫で、そして、少しずつ下ろしていく。肩口、胸元、腰に腹。白い素肌に、赤い痕が点々と付けられていた。くるりと回って背中を鏡に写せば、そこにもいくつか印が残っている。
ヴィルヘルムの付けた口付けの痕が、至るところにあった。
嬉しいと思う反面、涙と切なさが込み上げてきて、アシュリーは慌てて目尻を擦る。髪の染料を落とし、汗を流し、甘い匂いのする浴室にしっかり浸かって、そしてちょっとだけ泣いた。
浴室に用意された着替えはやはり見覚えのないもので、下着もアシュリーがもともと身に付けていたものではなく、泊まる他に選択肢がないことを思い知らされる。
浴室を出るとそこには先ほどの侍女が逃がさないと言わんばかりに待機していて、そのまま客間に案内された。
「おやすみなさいませ」
と侍女が出て行くと、ひとりになった部屋で、アシュリーは緊張の糸がプツンと切れたようにベッドに倒れ込んだ。
その途端、今まで我慢していた睡魔が一気に襲ってくる。
──泊まるようにってことは、やっぱり館長に怒られるのかな……
ぎゅうとベッドシーツを掴む。
アシュリーの意識はそこで途絶え──次に目覚めたときには、朝になっていた。
窓の外で鳥が柔らかな声で鳴き、途端に現実が帰ってきてアシュリーは慌てる。
急いで支度をして、一度部屋に戻って、それから仕事へ行かなければ──ぐちゃぐちゃになった頭で考えるけれど、上手く考えと体が伴わない。
その上、腰から下が重く、痛みを訴えてくる。辛うじてアシュリーがベッドから足を下ろしたとき、扉がノックされた。
「おはようございます、アシュリー様。お加減はいかがでしょうか?」
返事をすると扉が静かに開かれる。入ってきたのは、昨日世話になった侍女だった。
「だ、大丈夫、です」
「ですが、あまり顔色が良くないご様子。お休みを取られ……たくはないようですね」
勢いよく首を横に振ると、彼女はアシュリーの言いたいことをわかってくれたらしい。肩を竦めて苦笑した。
「無理はなさらず。また、溜め込み過ぎも体に悪いので、適度に発散することをお勧めいたします」
「ありがとう、ございます……」
「朝食のあと、体調不良に効くお薬を用意いたしますね。それから──」
手に持った服──記憶が正しければ、それはアシュリーが昨日着ていたものだ──を手渡しながら、彼女は言った。
「ローウェル様が朝食を一緒に、と仰っております。お着替えが終わりましたら、ご案内致します。……お手伝い、致しましょうか?」
「っい、いえ! 結構です! ひとりで、着替えられます!」
ぶんぶんとアシュリーは首を左右に振る。
彼女は、そうですか、と笑みを浮かべたまま、一礼して部屋を出て行った。
「今晩は、お疲れでしょう。一泊していくようにと、ローウェル様からの《ご命令》です」
ひくり、と頬が引き攣った。
そんな命令なんて知らないと突っ撥ねて飛び出すことができれば良かったのだが、悲しい哉、アシュリーにそこまでの度胸はない。
精々が理由を並べ立てて、何とか穏便に帰らせてもらえるように努力することだけだ。
例えば、上司と部下であろうと男と女、変な噂が立つかもしれないので、とか、ローウェルの屋敷から出てきたところを見られたら、もしかしたらシェリー=アシュリーと結び付ける人がいるかもしれないから、とか色々と理由を言って断ろうとしたのだが、彼女に笑顔で論破されてしまい、アシュリーは二の句が告げぬまま、入浴道具と一緒に浴室に押し込められた。
逃げられないことを悟り、観念して着ていたものを脱ぎ始める。そして、視線を向けた先にあった鏡に映る自身の体を目にした瞬間、頬の熱が急速に上がっていった。
ここまで案内してくれた侍女が、どうしてアシュリーをひとりで浴室に押し込んだのかが、今ならわかる。
アシュリーも暗がりの中、部屋の鏡で一度は確認したはずだった。けれど、時に暗闇は一部の真実を隠すことがある。
首筋を指で撫で、そして、少しずつ下ろしていく。肩口、胸元、腰に腹。白い素肌に、赤い痕が点々と付けられていた。くるりと回って背中を鏡に写せば、そこにもいくつか印が残っている。
ヴィルヘルムの付けた口付けの痕が、至るところにあった。
嬉しいと思う反面、涙と切なさが込み上げてきて、アシュリーは慌てて目尻を擦る。髪の染料を落とし、汗を流し、甘い匂いのする浴室にしっかり浸かって、そしてちょっとだけ泣いた。
浴室に用意された着替えはやはり見覚えのないもので、下着もアシュリーがもともと身に付けていたものではなく、泊まる他に選択肢がないことを思い知らされる。
浴室を出るとそこには先ほどの侍女が逃がさないと言わんばかりに待機していて、そのまま客間に案内された。
「おやすみなさいませ」
と侍女が出て行くと、ひとりになった部屋で、アシュリーは緊張の糸がプツンと切れたようにベッドに倒れ込んだ。
その途端、今まで我慢していた睡魔が一気に襲ってくる。
──泊まるようにってことは、やっぱり館長に怒られるのかな……
ぎゅうとベッドシーツを掴む。
アシュリーの意識はそこで途絶え──次に目覚めたときには、朝になっていた。
窓の外で鳥が柔らかな声で鳴き、途端に現実が帰ってきてアシュリーは慌てる。
急いで支度をして、一度部屋に戻って、それから仕事へ行かなければ──ぐちゃぐちゃになった頭で考えるけれど、上手く考えと体が伴わない。
その上、腰から下が重く、痛みを訴えてくる。辛うじてアシュリーがベッドから足を下ろしたとき、扉がノックされた。
「おはようございます、アシュリー様。お加減はいかがでしょうか?」
返事をすると扉が静かに開かれる。入ってきたのは、昨日世話になった侍女だった。
「だ、大丈夫、です」
「ですが、あまり顔色が良くないご様子。お休みを取られ……たくはないようですね」
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ぶんぶんとアシュリーは首を左右に振る。
彼女は、そうですか、と笑みを浮かべたまま、一礼して部屋を出て行った。
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