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横断幕

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私は幸薄い女なのかも知れない。
幼い頃から厳しく育てられ、礼儀作法は体に染み付いている。しかし、他の人と仲良くすることは苦手だった。遊ぶ暇があれば勉強しろと聞かされて、よく真面目に勉強していた。遊んでばかりの同級生を心の中で軽蔑していた。他の人と意気投合する部分も少なく、一人でいることが多かった。そのためか、結婚も遅かった。九州の離島の、列車も走らない田舎で、二十過ぎで結婚する人が多い中、私が結婚したのは、二十七歳の時だった。つらい時期があっても、真面目に生きていれば、必ず報われるのだと、その時は思った。
結婚して二年後、厳しくも大好きだった父親が他界して、家族は夫だけになった。その夫もやがて、遊技場を経営すると言って、島の中心部へ出て行った。私はただ、生まれ育った家で、隣の畑で採れる野菜や、近くの海で釣れる魚を食べながら、夫と一緒に暮らしたかっただけなのに。新しい女と結婚するからと突き付けられた離婚届にサインすると、私はまた一人になった。
お腹に子供が宿っていると知ったのは、それから間もなくのことだった。一人で産んで育てることへの不安は大きかったが、再び家族ができることへの喜びの方が大きかった。大切に、とても大切に育てようと思った。
生まれた男の子には、直登(なおと)と名付けた。幸いなことに、順調に育った。お金も必要だったので働いた。働きながら育てるのは、並大抵の苦労ではなかった。保険の外交や、旅館の炊事の仕事を掛け持ちした。眠っている小さい直登を家に置いて、仕事に行くこともあった。お腹が空いて泣き出したらどうしようと、気が気ではなかった。
いま思えば、直登が小学校高学年の頃が、一番良かった。母子二人で多くの時間を過ごした。朝飯と夕飯も毎日一緒に食べた。ずっとこの生活が続けば良いと思った。だから、直登にこんなことを言ってみた。
「あなたの名前は直登。私の名前は幸子(さちこ)。イニシャルはNとS。磁石のように引き合うの。これからずっと先、あなたは、どこかへ旅立つかも知れないけど、私はここにいるから。いつでも帰ってらっしゃい」
「僕はお母さんとずっといるよ。どこにも行かないよ」
直登がこう言ってくれて、私は幸せだった。
中学生になると、すれ違いの毎日になった。ほとんど会話も無くなって寂しかったが、男の子とはそういうものだと思っていた。思春期を過ぎると、また元の生活に戻れると思っていた。しかし、高校三年生の夏休みの三者面談で、その希望は打ち砕かれた。
「息子さんは、卒業後に島を出て、本土での就職を希望されているようですが、間違いないですか?」
先生のその質問に驚いて、直登を見ると、彼は、顎としっかりと縦に引いた。家に帰って、久しぶりに直登に話しかけた。
「ここで就職すればいいじゃない。少ないけど仕事はあるし、しっかり生きていけるよ。あんたが行っちゃうと、お母さん独りになってしまうよ」
直登は、少し間を置いて、「もう、決めたんだ」と言って、ドアを閉めた。
あっという間に、出発の日がやってきた。午前七時に港から出る船に、本土就職組の生徒が乗り込んで出発する。「母さん、今までありがとう」と言って、直登は出て行ったと思う。よく覚えていない。私に出来ることは、なくなってしまった。私は、何をする気力もなくなった。でも、会えるのは最後だからと、港に見送りに行くことにした。
私は幸薄い女かも知れない。必死で頑張ってきたのに、結局独りぼっちだ。夫にも逃げられ、息子もいま旅立ってしまう。港に着くと、大きな船が待機していた。他にも見送りの父母が何組もいた。甲板を見ていると、高校生らしき生徒が出てきた。そして、十人ほど並んでこちらを向いた。端に直登がいる。おそらく本土就職組の生徒たちだろう。そして、甲板の手すりから、生徒の端から端まで横断幕が降ろされた。生徒ごとにメッセージが書いてあるようだ。ある男子生徒の下には「大物になる」、ある女子生徒の下には「体に気を付けて」などとある。
直登の手の下に書いてある文字が見えたとき、私は頭が真っ白になり、涙があふれ、両手で顔を覆った。それから、足の力が抜けて、両膝を地面についた。周りの父母からの視線を感じる。「あれは一体どういう意味だ?」と思っているのだろう。でも、そんなことは私にはどうでもよかった。私はここで、いつか直登が帰ってきた時、元気で迎えられるように頑張ろうと思った。直登の手の下には、大きく一文字「N」と書いてあった。もう一度見ようと、顔を上げて見上げると、その文字の上には、泣きはらした顔と、強い意志を持った目があった。
(了)
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